Act22 調子に乗るな(Side.海馬)

 切っ掛けは、本当に下らないいつもの口論だった。

 些細な意見の食い違いから、本格的な口喧嘩に発展し、そこでどちらも折れる気配がないと次には手や足が出る。それがオレとクラス一馬鹿の凡骨な駄犬……もとい城之内との常なるコミュニケーションスタイルだった。ちなみにコミュニケーションと言ってもオレには一切その意思はなく、一方的に奴が絡んでくるのを適当に相手をしてやってるだけだ。

 奴は何が面白いのか心底毛嫌いしていると豪語しているオレに何かと近付いて来て、そんなコミュニケーションを取って去っていく。嫌いなら近づいて来なければいいのに意味不明な奴だ。馬鹿の考えている事は高尚過ぎてオレには一ミリも理解できない。

 それを殊更丁寧に、一字一句違えずに告げてやったら、駄犬はますます喚き散らした。その様は、なかなか見ていて愉快だった。

 そんな日々を繰り返していたある日、事件は起こった。冒頭に述べた通り今回も始まりはただの口喧嘩で、争いの原点は言うにも馬鹿馬鹿しい些細な事柄だった。しかし、互いに一旦火が点くとなかなか消えない性分故に、下らない言い争いはいつしか大声を上げた怒鳴り合いに発展していた。

 ここまではまぁいつも通りの展開で、この後は大抵オレが城之内をその場から放り出すか、「黙れ煩い!」の言葉と共に一発お見舞いして二の句が継げないようにしてやるか、そのどちらかで大抵は収まるのだが、今日はなかなかそのタイミングが掴めず、気がつけば額を付き合わせてぎゃんぎゃん喚いている状態で。なんだこの近さは?!とオレが驚いた瞬間、何故か視界が大きくぐらついた。そして。

 強い衝撃と共にその場に押し倒されてしまったのだ。このオレが。

 ドサッ、という音と共に腰から背に走った鈍い痛みに一瞬オレは何が起きたのか分からず、ただ顔を歪めて眉を寄せた。それと同時に驚愕もした。当然だ。あの城之内にこんな真似をされた事など一度もなかったし(手や足が出る時はままあったが)奴にこんな事が出来るとも思ってなかったからだ。

 常にオレの攻撃を半分受けて、半分かわしながら情けない声を上げて逃げだしていたあの男が。オレを力任せに床に引き倒し、その上に押さえつける様に乗り上がり、不敵な笑みを浮かべるなど誰が想像出来ると言うのだ。

 普段ヘラヘラして馬鹿な事ばかり言っている駄犬も、本気になればそれなりに強いのだ。そんな事をオレはこんな危機的な状況で至極冷静に考えてしまう。否、その実頭の中はパニックを起こしていたのだが、それすらもピークに達してしまい今はすっかり諦め掛けている……そんな状況だ。

 両手を掴む荒れた指先が強く食い込んで痛みを感じる。逃れようともがいてみたが体勢の所為か、それとも純粋な力の差なのか本気を出して抗ってみても僅かにも動かない。

 おかしい、普段はこいつを片手で易々と放り投げる事が出来ていた筈だ。殴り合いの喧嘩でも負けた事はない。頭の良さは勿論、身体面の能力についても全てに於てオレが上を行っている筈なのだ。なのに、何故。

「お前さーそれでマジになって抵抗してるつもり?オレ、ぜーんぜん力込めてないんですけど」

 そんなオレの様子をその体勢のまま眺め下ろして、城之内がにやりと笑う。嘘吐け貴様、今渾身の力を込めているだろう。腕が震えているだろうが馬鹿が!

 それでもオレが劣勢だという事実が変わる訳もないので、取り敢えずは無反応を貫き通した。その事に奴は声を立てて笑った。それこそ、『お友達』とつるんで悪ふざけをしている時の様に。

「オレの事散々馬鹿にして見縊ってくれてたみたいだけど、あんま調子に乗んなよ。オレ、普段はマジになんて絶対ならねぇし」
「……ならば常日頃は周囲のお友達を欺いていたと、そういう訳か」
「いや?見せる機会がないから見せねぇだけで、別に騙してる訳じゃねぇよ。お前にだってこんな事がなければ一生見せなかったかもしんないし」
「では何故、オレに見せた」
「何でだろうな。お前がマジにさせたんだろ」
「……っ離せ!」
「自分から嗾けて置いて離せとか笑わせんじゃねーよ。だから言ったじゃん、オレ怒らせると怖いよ?って」
「くっ、駄犬が!」
「あはは。まさか、その駄犬に噛み付かれるとは思ってなかったよな、海馬くん。あのな、幾ら駄犬でも歯がある限りは噛みつけますから。お前を喰う事だって出来るんだぜ」
「………………」
「尤も本当には食べないけど。でも別の意味で食べる気は満々」
「は?」
「え?この体勢から分かんねぇ?にっぶいなーお前」

 言いながら殆ど馬乗りになる形でオレの腰の上に跨っていたその身体を僅かにもずらす事無く、奴は元々至近距離にあった顔を更にぐっと近づけてくる。それから避けようと再び抵抗を試みるが奴が乗っている位置というのが絶妙で、手よりは比較的自由であるべき足も蹴り上げる為に動かしてはみるのだが、ダメージを与えるような事は出来なかった。

 オレのそんな行動は奴の愉快さを更に煽るらしく、先程からずっと浮かべている城之内の笑みは深まるばかりだ。というか、不思議な事に城之内は散々言葉で脅しを掛けて来る癖に具体的な行動になかなか出て来ない。こうなった経緯や当初の勢いから、少なくとも殴られる位は覚悟をしていたが、一向にそんな素振りは見せなかった。

 ならばこんな状態でいる必要もないのだが、奴はオレを解放する気も無いらしく腕に込められた力が抜ける事もない。一体何がしたいんだこいつは。訳が分からない。

 ……そんな事を頭の片隅で考えつつどちらにしてもこの状態のままというのは我慢ならないので、とにもかくにもどうにかこいつから離れようと、オレは無駄な努力とは知りつつ再び抵抗を試みてみた。しかし、結果は同じ事だった。

「そこでじたばたされてもくすぐったいだけなんだけど。何やってんの?」
「退けと言っている!手を離せッ!」
「だから退かねぇって。いーから諦めろ。な?」
「諦めるか!」
「うるせぇなぁ。やっぱ黙らせるか」
「フン、やってみろ。手を離した瞬間返り討ちにしてやる!」
「誰が手を離すなんて言ったよ?人を黙らせる方法なんて幾らでもあるんだぜ」

 オレの動きを封じる為に両手両足を全て駆使している癖に、後は何を使うと言うのだ。そんな思いを素直に顔に出したオレに、城之内はやっぱり愉快そうな表情を浮かべながら更に顔を近づけてくる。

 なんだ?頭突きか?瞬時にそう判断してこちらも衝撃を受け止めるべく身構えたその時だった。

 全く予想しなかった部位に、考えられない感触を与えられたのは。

「?!……んぐっ!……んん!」

 一瞬、がなっていた所為で僅かに開いていた唇に、何か温かい……かさついた妙なものが触れたと思った瞬間、一気にそこを塞がれた。何を?!と思う間もなく口の中に入り込んで来る生温かく湿ったモノ。同時に舌を刺す独特の苦みに、それが城之内の舌だと言う事を知った。

 くちゅ、と妙な音がしてそれはオレの口内を這い回り、驚いて引いた舌を追い、無理矢理絡めてくる。

 奴がオレに与えて来たモノ。それは、信じられない事に額同士を衝突させる痛みでも何でも無く、俗に言うキスという奴だったのだ。しかも、ただのキスではなく、思い切りディープな奴を!

 オレは当然「何をする?!」と叫ぼうとしたが、口を塞がれている為当然声になどならなかった。代わりに漏れ出たのは自分でも不気味だと思えるほどの鼻に掛った甘ったるい呻き声。否、これはもっと別の言葉で表現されるべきものだが、オレがそれを認めなかった。断じて認めるか、そんな事!

「……ふっ、う……ふぁっ……き、貴様!何をする!」
「……んっ。何って。お前、これが人工呼吸に見える?」
「見えるかっ!」
「そりゃそーだ。だってオレ、お前にキスしたんだもん。今のも結構本気だったぜ。気持ち良かった?」
「はぁ?!」
「いや、だからさ。っつーかお前何も分かってないのね。えーっと、こんな事改めて言うのもアレなんだけど。オレ、お前とセックスしたいんです」
「セッ……何だと?!貴様、何をトチ狂った事を言っている?!」
「や、別にトチ狂ってないし。さっきから言ってるだろ、お前がオレをマジにさせたんだって」
「何が?!」
「無意識だったのかも知んないけど、今まで散々っぱらオレを馬鹿にしまくって焚きつけてくれちゃってさ。実を言うとオレ、そういう女大好きなんだ。性的にすげぇ興奮する。始末に負えなければ負えない程いいね」
「ちょっと待て!誰が女だ!それに貴様感覚がおかしいぞ!」
「あー突っ込めれば何でもいいから女って言うとアレか、そういう相手が大好き。つか感覚って。お前に言われたかねぇし」
「ふざけるな!」
「お前男だしさ、やっぱアレだよなーと思って我慢してたのに、調子に乗り過ぎ。もう限界突破しました。ぜーんぶお前が悪いんだぜ?大人しくオレにヤられろ。な?」
「死んでも断る!」
「断られてもね。お前、オレから逃げられないしね。諦めるしかないんじゃねぇの?」
「嫌だ!やめろ馬鹿が!」
「無理」
「無理じゃないわ!やめろと言っている!」

 何が悲しくて男に襲われなければならないのだ!
 悪ふざけも大概にしろこの駄犬がッ!

 唇同士を未だ透明な唾液の糸で繋いだまま相変わらず物凄い力で押さえつけて来る城之内から渾身の力で逃れようと足掻きつつ、オレは血管がブチ切れそうな勢いでそう叫んだが、全く以って無駄な抵抗だった。いつの間にか左手だけでオレの手首を拘束し(それでもビクともしない)、自由になった右手は何かを探る様にオレの頬や顎、首筋や耳元を這い回る。

 最初は何を気色の悪い事を、と歯を食いしばって耐えていたが、奴の冷たい指先が妙な動きで比較的柔らかな部位を掠めた瞬間、身体が自分でも驚くほど強く反応した。

 そして、妙な声が唇を割って出てしまう。

「……っ!……あっ!」
「お前、案外こういうトコ弱いんだな。へー」
「な、にを、観察しているッ!っく、触るな!」
「触られると感じちゃうんですか?ならもっとしてやるよ。あ、ちなみに、オレ体力と持久力にも自信あっから。そこんとこ宜しく」
「何がだ?!うわ、よせ!気色悪い!……やめろと言っているだろうが!」
「だから止めないってば。責任は取って貰うぜ」
「責任?!」
「ほら、もうオレこんなになってるし」

 そう言って奴はオレの腹部分に……口に出すのもおぞましい欲望の塊を思い切り押し付けてくる。布越しでも分かる堅くて妙に熱いその物体に、オレは本気で怖気上がった。

 不味い、本気で不味い。このままでは奴の言う通りこの場でヤられる!犯される!

 オレは最後の力を振り絞ってなんとか悪の手から逃れようと全身全霊で大暴れしてみたが、『本気』のコイツの前ではやっぱりどうにもならなかった。
「……っくー!…いってぇ〜〜〜!てめこの!噛む事ねぇじゃねぇか!」
「やかましい!痛いのはこっちだわ!死ぬかと思ったぞこの馬鹿が!」
「死にそうなのはこっちだっての……!ち、くしょ、油断したッ!勃たなくなったらどうしてくれんだ!責任取れよ!」
「貴様こそ責任を取れ!変態が!」
「んな事言う割に気持ち良さそうに善がってただろうがよ!」
「あれのどこが善がり声に聞こえるのだ?!」
「あ、違うの?」
「違うわ!」

 全く信じられん馬鹿だこの駄犬は!

 一度死ね!……いや、何度でも死ね!

 ……結局、あの後散々抵抗を試みたものの、状況が変わるわけでもなく、オレは奴に文字通り『食われて』しまった。言っておくが不可抗力だぞ。どうしようもなかったのだ。まぁ途中逃げ出すチャンスはあったのにそれを生かせなかった等の後悔はあるが、とにかくヤる事はヤッてしまった。しかも回数が良く思い出せない程だ!

 あの馬鹿は自分で言っていた通り、体力も持久力も半端なかった。そして、これは今言うべき事かどうかは分らないが技術もそれなりにあったのだ(勿論他人がどうだかは知らないが)。だからついつい流されて……いやいや、どうにもならなくてなすがままに付き合わされた。それこそ、精も根も付き果てるまで。

 奴もとうに枯れ果てる筈なのに、俄然やる気になった下半身男には何を言っても態度で示しても通用せず、オレは最後の手段で口淫をしてやるふりをして、思い切り奴のアレを噛んでやったのだ。

 瞬間悲鳴を上げてのたうちまわる姿にオレは漸く少しだけ溜飲を下げた。ほんの少しだけな。

「フン、貴様、調子に乗り過ぎなのだ。駄犬の癖に!」
「どっちがだよ!またそうやって調子こいてると襲うぞコラ!」
「勃たない癖に何を偉そうに。死ね!というか、よくよく考えたらこれは強姦ではないか!犯罪者め!」
「最後にはしがみ付いてきた癖に良く言うぜ!こういうのはね、和姦っていうんです」
「はぁ?!そんな理屈が通ってたまるか!」
「じゃー理屈通す。好きです、海馬君」
「何ぃ?!」
「これでいいだろ?好きな奴とエッチしたんだからよ」
「ふざけるな!」
「お前もオレの事、実は好きだろ?好きって言えよ」

 だって、好きじゃなきゃこんな事、許す筈ないもんなー?

 そう言って、それまでとは打って変わって至極優しいキスをしようと顔を近づけてくる奴の事を、オレは何故か殴りつける事が出来なかった。調子に乗り過ぎなこの男に鉄拳制裁を与えてやらなければならないのに、どうしても。

 その後、何がどうなったのか本気で理解できないが、オレはその時からずっと調子に乗っている奴に「責任を取るから」と言われて付き合っている。人生何が起きるか分からない。本当に、予想外すぎる事だった。

 けれど。

 今の所、現状を変える気は余りない。これはこれでいいか、なんて思い始めている。

 それが賢明な判断だったのかどうか分かるのは、もう少し先の事なのかもしれない。