Act5 舌打ち(Side.海馬)

 急に黙り込んだと思ったら、チッ!と鋭い音が響いた。

 そして瞬く間にきつく寄せられる眉間の皺。知らず数歩距離を取って様子を伺うと、音を立てた……多分舌打ちをしたんだろうが……城之内がむっと膨れて背を向ける。コイツがこんなに怒りを露にするとは珍しいとオレは少々驚いた。

 普段ならオレがどんなに嫌味を言っても、奴にとって耳に痛い言葉を口にしても、大声で怒鳴り散らしたりはするが、こんな風に黙り込んだりは決してしない。それは、言い換えてみれば今現在は本気で怒っている、という証拠で、何がこいつをそんなに怒らせたのか理解できないオレは少々困ってしまった。

 これがいつもの怒鳴り合いであれば、向こうのテンションに合わせてこちらも同じく怒鳴り返し、それがストレス発散になって、鬱憤が晴れれば極自然と喧嘩は収束する。男同士故にたまには手や足が出たりするが、互いに力の差は余りない為どちらかが怪我をするという事態にもならない。

 まぁ、普通は怒鳴り合いから殴り合い、その後はなし崩しにセックスに突入し、散々体力を消耗して眠りに付き、次の日の朝目覚めと共にどうでも良くなりまた普段の雰囲気に戻るのが常で、それがパターン化していた所為かこうして違う行動に出られるとどうしたらいいか分からなくなる。

 だんまりを決め込む相手に怒鳴り続けるわけには行かないし、無抵抗の人間を、ましてやそれが恋人と呼ばれる相手なら尚更足蹴にする事は出来ない。その辺は幾らオレとて線引きはしている。だからこそ、オレは中途半端に留まった手や、吐き出しかけた声の持って行き場を探して一瞬固まってしまったのだ。

「おい、凡骨」
「………………」

 余りに長い沈黙に痺れを切らしたオレは、僅かにいかり肩になってその場に佇んでいる城之内にとりあえず声をかけてみる。しかし、案の定まるっきり無視をされた。反応どころか微動だにしない。これには流石のオレもイラッと来て、思わず奴の肩を掴んでこちらを向くようにぐい、と強く引いてみた。

 すると奴は人形のようなぎこちない動きでオレを振り返り、先程と全く変わらない冷ややかな表情でこちらを睨んで来る。こいつが本気を出して怒る時はそれなりに凄みがあったりするのだが、今の状態はそんな些細な怒り顔など全くお話にならないほど迫力がある。

 例えて言うなら、怒りのオーラが静かに燃えているというか。とにかく激怒している事は確かだった。

「……何をそんなに怒っている」

 それから更に数秒後。このまま膠着状態が続いても何の解決にもならないと腹を括ったオレは、とりあえず奴がこんな状態になってしまった理由を、幾分控えめに尋ねてみた。すると、その言葉すら怒りの燃料になるのか、奴は再び大きな舌打ちをしてわざと顔を斜に構え、オレを鋭く睨み上げて来た。

「お前が分かんねぇ事に」
「何がだ」
「何がじゃねぇよ。お前が、なんでオレが怒ってんのか分かんねぇからすげぇむかついてんだよ。自分の胸に聞いてみろよ」
「オレは何も貴様が怒るような事は言っていないが」
「へぇ?そうなんだ。でもオレは頭に来てんだ」
「だから何に」
「そうやって自覚がねぇから余計腹が立つんだよ!馬鹿!!」

 ……一体何を言っているのか理解できない。
 オレに怒っているという事は、つまり先程までしていた口論時のオレの言動について言っているのか?オレはそんなに特殊な言動をしただろうか。

 今回は確か原因はまた些細な事で、互いに真逆の意見を言い合い、どちらも一歩も譲らず我を張り通した挙句、互いにもう少しで手が出そうになるのを必死に堪えながら応戦し、先に嫌気がさしたオレがキレて「ならば別れてやる!!」と口にした事位で……って!

 もしかして、それの事か?

 確かにオレのその発言の後、城之内の顔色が変わった気はした。けれど、それは何を下らない事を言っているんだと、いつもの様に火に油を注ぐ形で怒らせただけだと、そう思っただけで……まさか、それを本気に取って心底激怒するとは思わなかったのだ。

 何故ならオレにとってその台詞は売り言葉に買い言葉で、特に深い意味などなかったのだし。その言葉自体常日頃から良く使う啖呵の一つだったから。

 余りに予想外なこの事態にオレが大いに戸惑っていると、それに痺れを切らしたらしい城之内が重く低い声で、けれどかなり声高にそう叫んだ。

「オレ、お前がそういう事を気軽に口にするの死ぬほど嫌なんだよ!本気じゃないのがもっと嫌だ!なんだと思ってんだ!!」
「オレは別に」
「別にもクソもねぇ!ほんっと頭来る!!そうやってオレの事傷つけて楽しいのかよ?!」
「だからオレは、貴様がそれに傷ついているという事など知らずにだな」
「それが余計に悪い!例え嘘でも、別れるとか嫌いだと言われると殴られるよりいてぇんだよ!!もう何年付き合ってると思ってんだ!そん位分かれ!分からないんなら、マジ別れる!」
「何?!」
「お前となんか別れてやるって言ってんだよ!!」

 興奮のあまり頬を紅潮させてそう言い募った城之内に、オレは一瞬何を言われたか分からず思わず目を見開いて何時の間にか至近距離にあったその顔を呆然と見返してしまう。

 ……は?別れる?こいつは一体何を阿呆な事を抜かしているのだ。貴様がオレと別れられる筈がないだろうが。暇さえあれば好きだ愛してると臆面もなく口に出し、三日会えないと寂しいと喚き出すオレ中毒の癖に。何を馬鹿な事を。

 けれど、自信満々に思ったその気持ちとは裏腹に、何故か物凄く胸が痛くなった。同時に、強い焦燥感と不安と悲しみに苛まれる。

 たった一言、それも弾みで「別れる」と言われただけなのに。

 そんな絶望的とも言える思いに支配され、一瞬ぐらりと視界が揺れた、その時だった。

 咄嗟に傾ぐ身体を支えた強い腕の感触にはっとする。

 そしてなんだとオレが思う前に、耳元に突然高らかな笑い声が響いた。慌ててそこに目を向けると、つい数秒前まで憤怒に歪んでいた顔がからりと晴れやかに笑っていて。

「……な?凄い破壊力だろ?」

 と明るい声が降ってきた。

「あはは!!すげー顔!!びっくりした?!あーウケた。いっつもお前にやられてばかりだからさ、一回凹ましてやりたかったんだよなー!成功成功!!」
「………………!!」
「もうちょっとつっつけばお前泣いたかもしんないな、ちょっと残念」
「き、貴様……」

 オレ演技力ないからさ。

 そういってカラカラと笑うその顔を、オレは力の限り殴りつけてやりたかった。こいつ犬の分際でオレを謀るとはいい根性をしているではないか!!殺してやりたい!!

 けれど、自分でも存外にショックを受けたらしい先程の台詞に、オレの右手はまともに動かず、目の前でにやつく頬を殴る事は出来なかった。そんな己の不甲斐なさと降って沸いた怒りの余り声すら出ない。

「でもさ、海馬。オレがさっき言った事は本当だからな。弾みでもなんでも、別れるって言われるとマジ悲しくなるんだぜ?お前も今そうだっただろ。……だから、そういう事は絶対に言うな。な?」

 色んな感情が高ぶって二の句の継げないオレに、常に見せる明るく優しい笑顔でそう言った城之内は、至極軽い調子で「ごめんな」と一言言うと、先刻の剣幕などまるでなかったかのように、硬直するオレの身体をぎゅっと強く抱き締めた。

 そんな奴にオレは最大限の怒りを込めて、先程奴がやったように盛大な舌打ちを一つくれてやった。

 そして。

 不自由な両手で、オレも奴の身体を力の限り抱き返した。