歩こう

「な、今日は歩いて帰らねぇ?お前も適度に運動しないと体がなまるぜ」

 そう言って城之内が海馬の携帯を取り上げて、勝手に磯野に電話をかけた事からその日の放課後は始まった。外は既に日が落ちて遠くのビルの向こう側に隠れてしまった夕日の名残が、人気のない教室を赤々と染め上げている。しんと静まり返ったその空間は、殆どその時間まで残る事のない海馬にとって、全く馴染みのない場所だった。

「うん、海馬はオレと歩いて帰るから。え?道中が危険だから駄目だ?学校から家に帰るまで何が危険なんだよ。大丈夫だって。いざとなったらオレが守ってやるから。は?いやいや、銃は持ってねぇけど。なんで銃がいんの?つか、持ってたらヤバイって。うん、うん。おう、モクバ。なんだよお前まで。オレってそんなに信用ない?これでも喧嘩は強い方なんだぜ」

 電話の向こうで磯野とモクバに色々言われているのか、懸命に応戦するその横顔を眺めながら、海馬はこいつは何に必死になっているのだろうと首を傾げた。彼にとってはそんなに歩いて帰るという事は重要な事なのだろうか。共に帰りたいのであれば、常と同じように車に乗ればいいだけの話だ。そんなに苦労をしてまで勝ち取るものでもないだろう。

 電話の向こうのモクバも海馬と同じ意見なのか、僅かに漏れ出る声に「車」という単語が混じっている。それに城之内は「車じゃ意味ねぇ」と言い切った。

 モクバが直ぐにいいと言わないのには事情がある。ここ最近実際危険な目には会った事はないが、それとなく不穏な空気を感じる事はある。だがそれももう慣れたもので、特にどうとも思わなくなった。周囲の心配もわからなくはないが、結局はなるようにしかならない。そう淡々と告げた所、兄サマだけの身体じゃない、とどこぞの女に言う台詞でモクバに散々叱られた。

 ……勿論夢が叶うまでは誰にも邪魔などさせはしないし、凶弾に倒れるつもりもない。大体自分はそこまで弱くはないはずだ。それを力説したつもりだったが、余り効果はなかったらしい。兄の信用など弟にとっては大した事はないようだった。

 以上の事から、彼等は何かと過敏になっているのだが、その事情を知らず、知らせるつもりもない城之内には単なる過保護としか映らないらしい。まあ、実際たかだか学校から会社、もしくは家までの近距離をわざわざ送迎されるなど海馬位のものなのだが。

 それにしても……何が「オレが守ってやる」だ。体育の成績が2の癖に。不良の喧嘩と本気で命を狙ってくる襲撃とを一緒くたに考えるという事も馬鹿馬鹿しい話だが、大体貴様このオレよりも強いのか。思い上がるのも程々にしろこの凡骨が。そう海馬が内心ムッとしていたその時だった。

「じゃーそういう事で、わかったよ寄り道はしねーよ。じゃあな!」

 ピッ、と大きな電子音がして、城之内が携帯を片手ににやりと笑う。その顔を見るに、いつもの粘り強さで強引に事を押し通したらしい。彼は海馬に携帯を放り投げると、妙に浮かれた様子でこう言った。

「OK貰った。帰ろうぜ」
「貰った、じゃないだろうが。無理矢理切った癖に」
「結果的にどっちでも同じじゃねーか。ったくお前も高校生にもなって一人で家にも帰れねぇってありえねぇだろ。モクバのあの不安がりようは異常だぜ」
「人の家の事をとやかく言うな」
「そりゃそうだけどさ……。ま、いっか」

 じゃ、帰りましょ。こっからお前んちって歩いて何分?会社よりも確か遠いよな。あー今日チャリに乗ってくれば良かった。そんな事を言いながら彼はさっさと何も入っていなさそうな鞄とジャケットを取り上げて、早くしろと急かして来る。それに大きな溜息で応え、海馬はゆっくりと席を立った。その途端当然の様に彼の手が伸びてきて、海馬は思わず身を引いてしまう。

「なんで逃げるんだよ」
「一体なんだ」
「なんだじゃねーよ。手、ほら」
「だからそれがなんだと聞いている」
「繋ごうぜ。誰もいないんだからいいだろ。徒歩帰宅の醍醐味」
「貴様のやりたい事は良くわからん」
「手を繋いで一緒に歩いて帰りたいってだけ」
「…………果てしなく下らんな」
「オレにとっては重要なの。早くしろよ」

 いい加減差し出されない手に苛立ちを感じたのか、城之内は殆ど無理矢理海馬の手を掴みあげると、そのまま強引に歩き出す。教室を出て廊下を通り、昇降口を通過しても行き交う生徒は一人もなかった。遠くのグラウンドから、歓声のようなものが聞こえてくる。それを背に城之内は不意に立ち止まり、手にしたジャケットを着ようとして、隣に佇む海馬を見た。冷たい風が頬を撫でて吹き抜けていく。

 季節はもう冬。日が落ちれば急激に寒くなり、吐く息も白くくゆる。分厚いダウンジャケットを手に持ったまま、城之内は顔を顰めた。

「……お前、コートは?」
「そんなもの着てくるわけないだろう。行きは車だった」
「これだから完全送迎のおぼっちゃんは……今真冬だぜ」
「貴様が勝手に予定を変更したんだろうが。こういう事になるのなら、オレだってそれなりの格好をして来るわ」
「あー……悪ぃ。じゃーオレのジャケット貸すから」
「いらん」
「だって風邪引くぜ。真冬に外歩かせて風邪引かせたなんてモクバに顔向けできねーよ。二度と海馬家の敷居またがせて貰えなくなるかも」
「ごちゃごちゃと煩い。行くぞ!」

 慌てふためく城之内を睨みつけ、海馬は一人さっさと先に行ってしまう。威勢よく撥ね退けてはいたもののやはり寒さは感じるのか。鞄を持っていない手は制服のポケットに突っ込んでやや早足で歩いていく。見ているだけで寒そうな格好だった。

 ったく素直じゃないよなぁ。まぁ悪いのはオレなんだけど。取り残された城之内はそうぼやきつつ溜息を吐くと、仕方なく手にしたジャケットを着ようと両手で取り上げた。すると、丸められていたそれの中からぽとりとあるモノが地面に落ちる。ありゃ?と声を上げつつ拾ってみると、それは存在を忘れていた静香お手製の真っ白なマフラーだった。

 これだ!と彼は即座にそれを握り締め、本当に一人先を行く海馬の元へと走っていく。

「かーいば!これならどうよ」

 数秒後、城之内の大声と共に振ってきた柔らかな感触に、海馬は思わず立ち止まる。ふわふわと肌触りのいいそれは何時の間にか器用に首元に巻きつき、仄かな暖かさを感じさせる。海馬は思わず、ポケットに入れていた手で触れてしまう。

「……マフラー?」
「これなら暖かいだろ。このジャケットとコンボだと暑い位だからな。で、手はこっち」

 言うが早いが、マフラーに触れていた手は絡められ、そのまま何故か城之内のジャケット内に収まった。彼の体温が移ったそこは暖かさを通り越して熱い位だ。冷たく悴みそうだった指先も、じんわりと熱で解けて行く。その感覚に慣れなくて思わず手を引こうとするが、きつく絡み取られたそれは少しも動くことができなかった。

 仕方がないので、そのままゆっくりと歩き出す。それに会わせる様に城之内も一歩踏み出す。街灯が作る二つの影は完璧に寄り添って、妙な形になっていた。

「歩きにくい」
「でも、寒くはないだろ。やっぱりいいよな。こういうのも。たまに歩いて帰ろうぜ」
「オレには何処がいいのかさっぱり分からない」
「楽しいだろ。途中であったかい缶コーヒーでも買って飲もうな。学生の帰り道ってのはそういうもんだぜ」
「……そうなのか?」
「そうなの。お前、いつだったか学生生活やりたくて公立校に入ったって言ってたじゃん。オレはそれを体験させてあげたいわけ。これもその一環です」
「恩着せがましいな」
「なんとでも」

 ポケットの中で絡む指先。首を覆う暖かなマフラー。防弾硝子の向こうではなく、この目で眺めながら普段の数倍の時間をかけて通る帰り道。

 確かにほんの少しだけ、楽しいのかもしれない。

「いっつもこうだとオレも少しは学校を楽しむ気にもなれんのになー」
「嘘吐け」
「嘘じゃねぇよ。本当の話。だからなるべく学校に来て下さい、海馬くん」

 そう言ってふざけて笑うその顔を眺めながら。

 海馬は彼に気づかれないように、ジャケットに収められた指先を、ほんの少しだけ握り締めた。