トリガー

 二人分の重みを受けてキシ、と小さくベッドが軋んだ。同時に僅かに離れる二つの唇。一瞬前まで長い間離れる事がなかったそれは、名残を惜しむような唾液の糸で繋がっている。

 既にボタンが外され、肩から落ちかかっている白いジャケットを取り払おうと、日に焼けた手が伸びて来る。慣れた仕草で襟に触れ、余り協力的ではない身体を促しながら腕を抜き去ろうと強く掴んだ、その時。

 内ポケットに何か堅い感触があり、日に焼けた手の主……城之内の動きが止まった。彼は訝しげな顔をしてその異物の正体を探ろうとする。ジャケットの内側に彼の指先が無遠慮に入り込もうとした刹那、それは二人の間に音も無く転げ落ちた。

 その正体に、城之内は目を瞠る。
 

「……銃?」
 

 足元のシーツに軽く沈み、カーテンの隙間から入り込む僅かな明りを反射して黒光りするその物体は、一丁の小型拳銃だった。見た目にも重量のあるそれは勿論モデルガンなどではない、本物だ。城之内は思わず息を飲み、視線を銃からその持ち主である瀬人に向ける。

 それをごく普通に受け止めた瀬人は僅かにも表情を動かさないまま、静かにそれを取り上げた。男にしては細く形のいい指には余りにも不似合いな、無骨な武器。

「……本物、だよな?」
「当然だ」
「なんでお前、そんなもの普通にポケットに入れてんだよ。今までそんなのなかっただろ」
「護身用だ。何時何があるかわからんからな。一年前のアレを教訓にした」
「それにしたって……あれから凄腕のボディーガード雇ったんだろ。四六時中張り付かせてんだ、自分の身を自分で守る必要ねぇじゃん」
「外から見ればそうなのだろうな。まあ、普通の人間には一生縁のない世界だ。教えた所で理解はできまい」
「べ、別に知りたくないけどよ」

 そういう口調とは裏腹にやはり全く興味がないとは言い切れないのか、城之内は瀬人の手中にある銃に触れようと手を伸ばす。しかし、その指先が触れる一瞬、それは瀬人の手によって広いベッドの端に投げ捨てられ、到底届かない位置へ落ちてシーツの合間に沈みこんだ。

「触らせてくれてもいいだろ」
「貴様の玩具ではない。実弾も入っている。素人が下手に触るな」
「そいつをいつも胸に抱えてる奴に言われたかねぇ。……ガキが銃を所持してていいのかよ」
「ライセンスは持っている。問題ない」
「問題ないって……お前、まさかアレを使った事があるんじゃねぇだろうな」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「なんだそれ」
「あれは、人を撃つ為に持っているわけではない」

 しんとした部屋に瀬人の声がやけに通る。少しトーンが下がったその声に、城之内はすぐにこれ以上この話を続けるのは相手に取って苦痛なのだろうと理解した。表情を余り変える事の無い瀬人だが、その分眼差しや声色で顕著に己の内心を伝えてくる。尤も、本人はそれに気づいてはいないようだが。
 

「……まぁ、いいや」
 

 小さな吐息と共にそう呟いて、城之内は視線を銃から瀬人に戻す。そして留まっていた手の動きを再開した。

 既に深く皺の刻まれたジャケットを放り捨て、緩められたシャツの合間から手を入れる。忍び込む指の冷たさに一瞬堅く強張る身体を敢えて無視し、器用にそれをも取り去ってしまうと、現れた裸の胸に口付けた。

 滑らかな皮膚を舐め上げ、時折強く吸いあげる。色素の薄い肌に面白い程鮮やかに浮かび上がる鬱血の痕を満足気に眺めながら、未だ冷めたままの相手の身体を煽るように手指も使って攻め上げた。

「…………っ」

 僅かに乱れた呼吸が、酷く近い位置にある城之内の耳朶に暖かく吹きかかる。何時の間にか背に回された瀬人の指先が、縋るように強く爪を立てて来た。その痛みすら、快感になる。

 胸に飽きた唇は緩やかに位置を下げ、程よく締まって余り柔らかではない下腹に侵略を開始する。弱点の一つである臍の上を軽く舐め上げ、舌を出したまま更に下方へ向かおうとした城之内の唇が一瞬止まった。

 触れる舌に感じる、ざらりとした妙な感触。何時の間にか閉じていた瞳を開き、無意識にそこを凝視する。

「………………」

 その仕草に瀬人は城之内が何を見て、何を言おうとしているのか理解して、咎めるような視線を送る。しかしそれはあっさりと受け流され、逆に彼の興味を煽った。背に回されていた指先までが降りてきて、見つめるそこを触感でも確かめるようになぞりあげる。

「……結局、綺麗になんないのか」
「皮膚移植でもしない限りはな」
「するのかよ」
「別に。オレは興味はない。貴様の様な輩が気にすべき問題だろう」
「オレは、別に」
「なら、いいだろう。このままで。見た目は随分醜いがな」

 もういい、続けろ。

 まるで犬を躾ける主人の様な言い様で瀬人がそう吐き捨てる。促すように自ら身をずらし足を開くと、彼は腹ではなく更にその下、既に熱く熱を持ち濡れ始めている自身とその奥を曝け出した。仰せのままに、ご主人様。と笑いながら口にする城之内は、その言葉通り彼が望む場所に手を伸ばす。

 あ、と短い声が上がった。背に食い込む爪が深くなる。
 

 

 ……城之内の視界から消え失せた場所。

 瀬人の丁度右脇腹から中心にかけたその場所には引き攣れた銃創があった。

 それは一年前、海馬コーポレーションに恨みを持ったという男から撃たれて出来たものだった。遠距離から撃った銃弾は貫通せず、尤も厄介な形で体内に留まった。その所為で少し大掛かりな手術が必要となり、傷痕は完全には消える事はなかった。白い肌にやけに目立つ、赤黒く変色したその痕。既に慣れた城之内でも明るい光の下で見るのは正直少し怖い位だ。
 

『護身用だ』

『人を撃つ為に持っているわけではない』
 

 己の身を傷つけた、恐ろしい凶器である拳銃を瀬人は自らの胸に常に抱く。何故、と聞いたところで、多分答えてはくれないのだろう。

「海馬」

 城之内は繋がる為に身を起こし、近づいた唇にキスをする。柔らかく解れた場所に自身の熱を押し当てて、汗ばんだ瀬人の身体を抱き締めた。ずる、という音と共に一つになる。

「……っく……あっ!」

 衝動のままに揺らめかす身体の動きに、先程シーツの合間に沈んだ銃が再びその姿を表した。視界の端に入り込む黒いそれは、何時の間にか銃口をこちらに向けた形で留まっていた。

 鈍い光が反射する。

 二人同時に弾ける瞬間、城之内は、そして瀬人は、無意識にその銃を目で捉え、耳奥に今も残るあの銃声を思い出し、互いに振り切るように一際高い声を出して果てた。
「……オレが始めてアレを手にしたのは、12の時だ」
「なんだよいきなり」
「……貴様がさっき聞いたんだろう」
「そりゃそうだけどよ……でも12!?最近じゃねぇのかよ。自分で買ったのか」
「阿呆が。拳銃を自分で買える子供が何処にいる」
「いや、お前ならやりそうだなぁって」
「オレは元来武器には頼らん主義だ」
「……なんか矛盾してねぇ?じゃーなんでアレを持ってんだよ。護身用とも言ってたじゃん」
「護身イコール反撃ではあるまい」
「意味分かんねぇ」

 事後の恋人達の会話にしては随分物騒なもんだと思いつつ、城之内は未だ己の下で荒い呼吸を整えている瀬人から身を引き、身体を起こす。彼の体内に吐き出された己の精がぬるりと滑り、糸を引いてシーツに落ちる。その感触に僅かに眉を潜めながら、瀬人は脇に押しのけられた上かけを引き寄せて身を包んだ。

「なぁ」
「……なんだ」
「寝ちまうの?」
「……寝ては悪いのか」
「話が途中だろ」
「……特に面白い話もしてないだろう」
「アレ、あのまんまにしておくのかよ」
「触るなよ」
「触んねぇけどさぁ」

 その言葉を最後に二人の言葉は途切れて消えた。徐々に穏やかになっていく眼下の表情を眺めながら城之内は暫しの間逡巡し、やがて小さな溜息を吐いて上から覆い被さる形となっているその体制を崩し、無理矢理瀬人の持つ上かけを奪い取り、ぴたりと寄り添う形で直ぐ横に陣取ると二人で改めてそれに包まった。規則正しく上下する薄い肩に己の額を擦り付ける様に密着し、裸の腰に手を回す。

 その指先が先程なぞりあげたあの傷痕にそろりと触れた。やはり違和感を感じるその場所を改めて確かめる様に幾度も執拗に触れて撫でる。眠りの淵にあってもその感触は分かるのか瀬人が少し身じろいで、力ない手が悪戯に動く指を緩く掴む。その動きに逆らわず、素直に指を離した城之内は、両手でその身体を包むように柔らかく抱き締めて目を閉じた。

 少し遠く離れた場所ではあったが、背に感じる銃の気配。向けられた銃口。

 過去、目の前の身体が血に染まり、地面に屑折れたそのシーンをやけにリアルに思い出し、背にゾクリと冷たいものが走り抜ける。まさに一瞬の出来事だった。仕事先での事件故に城之内は画面を通してしか見る事は出来なかったが、それでもその恐怖にも似た衝撃は忘れられない。

 やっぱり気になる。

 そう思った城之内は瀬人から少し身を離し、せめて銃口を別の方向へ向けようと精一杯手を伸ばす。程なくしてやっとの思いで掴み取った銃身は酷く重く、冷たかった。どんなに強く握り締めても馴染まないその感覚。慎重に引き寄せて銃口の向きを変えつつ静かに置く場所を変えてしまうと、彼は今度こそ眠りに付こうと元の体勢に戻って、暖かな身体を引き寄せた。

 聞こえる心音に、わけもなく安堵する。

 やがて耳に痛いほどの静寂に包まれて、城之内は深い眠りの中へと落ち込んだ。
「誕生日おめでとう、瀬人。これは、私からお前への誕生日プレゼントだ」
「……誕生日プレゼント?義父さんが、オレに?」
「そんなに驚いた顔をするな。私とて息子に贈り物をする時はある」
「……今度は何を寄越つもりですか?眠ると身体に電流が走る装置とか?」
「物騒な考えを臆面もなく口に出す奴だ。そんなものではない。いいからその包みを開けてみろ。今日から、必須学習の項目にそれの扱い方も加えてやる」
「………………」
 

 それは今から五年前の、瀬人の12歳の誕生日の事だった。

 普段と同じ早朝に剛三郎の私室に呼び出された瀬人は、未だガウン姿の義父から豪奢な包み紙に包まれた一つの箱を受け取った。それは見かけの割に少し重く、渡された瞬間瀬人の手にずしりとした重さを与えてくる。

 親子の情など欠片も感じられない男から与えられた思いもかけない言葉も相まって、瀬人は酷く訝しげな顔をして、常と同じく遥か上から見下してくる義父の瞳を睨み上げた。しかし彼はその眼差しにも醜いあの笑顔を見せただけで、それ以上口を開こうとはしない。仕方なく瀬人は手にした包みを床に置き慎重に開いて、現れた白い箱を開けてみた。

 その瞬間、青の瞳がこれ以上ない程見開かれる。

「……これ、は……拳銃……!」
「そうだ。お前の名前が刻まれている。海馬コーポレーションが誇る最新鋭の携帯拳銃だ」
「こんなものを、何故」
「何故?軍需産業トップの次期総帥候補であるお前が、銃の一つも扱えんようでは話にならんだろう。それに、銃もなしに生き延びていけるなどという甘い考えを持たれても困るのでな」
「………………」
「お前がそれを嫌悪している事は知っている。だが、海馬の名を継ぐ以上そんな甘えは一切許さん。もう嫌という程分かっていると思うが」

 にやり、と義父の顔が醜く歪む。幾つもの品の無い指輪が嵌められた手が僅かにでも動く度に、瀬人の身体が自分の意思とは関係無しにビクリと竦み、後ずさる。

「明日からプロの講師を一人つけてやろう。……殺しのな」
「!! ── そ、んな……必要ない!」
「ただ撃つだけなら誰にでも出来るだろう。違うか?私は常にお前には完璧な技術を身に着けて貰いたいのだ、瀬人」
「嫌だ……絶対に!!それだけは嫌だ!」
「黙れ!」

 広い部屋全体に義父の怒号が響き渡る。同時に瀬人の眼前に黒い物体が突き付けられた。それは、何時の間にか義父の手に握られた彼の拳銃。黒光りする銃口は照準を確実に瀬人へと向けている。

 瀬人の喉奥でくぐもった悲鳴が上がる。義父の指は既に引き金にかけられていた。

 再び、彼の口角がゆるりと上がる。

「その銃口を、誰に向けようが自由だ。己の身を守る為、目的を遂げる為の手段として、または、苦しみから逃れんが為に己自身に向けてもいいだろう」
「………………」
「無論、私に向けても構わない。お前の内心など既に全部知れている」
「……義父さん」
「お前が銃を握る時、それは誰かの命が消える時だ。そうなる様に仕込んでやる。お前はその引き金に指をかけた瞬間、人殺しになるのだ」
「……貴方は悪魔だ」
「ははは!その悪魔の子供になりたいと望んだのはどこの誰だったかな。どの道お前には選択権などないのだ。その銃を取れ、瀬人。そして明日から一日の数時間を共に過ごすのだ。己の名前が刻まれた、人殺しの道具とな!」

 義父の声が鋭い痛みを伴って瀬人の耳に、胸に突き刺さる。震える指が銃に伸びる。そうするしか、術はなかった。

「そうだ、それでいい。何、大丈夫だ。その内身体に馴染んで来る。手放せなくなる程にな」

 細い指先には余りにも重過ぎる、一丁の携帯拳銃。義父が持つそれよりも一回り小さな銃口に目を向け、瀬人はゆるりと視線を義父へと向けた。

 その眼差しは、やはり醜い笑みにかき消された。
 小さな電子音が鳴り響き、瀬人はふと目を覚ました。

 緩やかに腕を伸ばし、手の届く場所にある音の正体である携帯を掴んで引き寄せる。即座に開いてディスプレイに映る磯野の名前に直ぐに出ると、簡潔に言葉を交わして再び閉じた。ついでに確認した時刻は、午前三時。

「……仕事?」
「起きたのか」
「……今、何時?」
「まだ三時だ。今日はバイトはないのか」
「……あー……朝はない。お前は?行かなくていーの?」
「そんなに急ぎではない。指示はした」
「あっそ」

 じゃーもう一回寝ようぜ。寝ぼけ声でそう言いながら城之内は殆ど緩んでいた手で改めて瀬人の体を抱え直し、僅かに空いていた隙間をゼロにする。同時に額に掛かる髪を避ける為に僅かに顔を動かした瞬間、カタ、と聞き慣れない音がした。

 その腕を振り払う真似はせず、習うように自身も再び眠りにつこうとした瀬人は、突然頭上で響いたその物音に不審に思い後ろ手に手を伸ばす。丁度城之内の頭の上、ベッドヘッド直ぐ前に冷やりとした物体が沈んでいる。直ぐにそれが何かを理解した瀬人は、慎重にそれを掴んで己の元に引き寄せた。

 それは先程遠くに放ったはずの拳銃。その動きに、城之内が目を開ける。

「あ」
「触るな、といったはずだが」
「……だってよ。こっちに向いてんだぜ、その銃口。怖いじゃん。なんか狙われてるみたいでさ」
「頭上に持って来る方が怖いと思うが」
「お前がこんなもんベッドの中まで持ち込んだのが悪いんだろ。どっか置いて来い」
「……それもそうだな」

 取り上げた銃を握り返し瀬人は案外素直にそう言うと、城之内の言葉に従い銃を少し離れたテーブルの上に置いて来ようと身を起こそうとする。しかし、それを推奨した筈の城之内本人が抱き締めた瀬人の身体を離そうとしなかった。瀬人は思わず眉を寄せ、変わらずしっかりと己の腰に手を回すその腕を抓りあげる。

「腕を離せ、起き上がれない」
「寒いから嫌だ」
「貴様がこれを置いて来いと言ったんだろうが」
「……やっぱいいわ。気が変わった」
「ころころ意見を変えるな。鬱陶しい」
「んな小さい事で怒んなよ。短気だなぁお前」

 宥めるつもりなのか腕に力を込めて抱きついてくるその身体を溜息と共に受け入れた瀬人は、それ以上何も言わずに起きる為に浮かせた肩を元に戻す。そして、まだ右手に握り締めたままだった銃を携帯の横に置こうとして、留まった。何時の間にかその手に城之内の手が絡んでいたからだ。

「な、さっきの話」
「なんだ、眠るんだろう?早く寝てしまえ」
「眠気覚めちまった。もう一回するか、話するかしようぜ」
「……選択の幅が狭過ぎる気がするんだが。疲れる事はしない」
「じゃ、話しよ」
「何の」
「これの。さっき途中でやめただろ」
「聞いてどうする?」
「返事によっては、ちょっと言いたい事がある」
「面倒だな、今言え」
「なんも聞かないのに変な事言ったら悪いだろ。今更何聞いたって驚かねぇから、正直に答えろよ」

 背中越しに聞こえて来る真剣なんだか不真面目なんだか分からないその声に、瀬人は少しの間黙り込んでいた。本当は、このまま沈黙を守りたい。何も言わずに流してしまいたい。しかし、一度気にすると気の済むまで突き詰めてくる相手のしつこさは嫌という程熟知していた為、瀬人はやがて諦めたように小さな溜息と共に身体ごと後ろを振り向いた。

 拍子にさらりと振りかかる薄茶色の髪をごく自然にかき上げて、城之内はさも嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。しかしそれは直ぐに瞬きと共に消えてしまう。どうやら不真面目な気分ではないらしい。

 その様子に瀬人は苦い思いを抱く。……真剣に聞いて欲しい話などではないのに、と。

「……何を、正直に答えろと?」
「それを使った事があるのかって聞いたじゃん。それの答え」
「さっき答えただろう」
「あんなの答えじゃないし。……お前が凶暴な性格っていうのはDEATH-Tの時によく分かってるけどさ、それでも他人を銃で撃つなんて事しねぇはずだろ。なら、なんで持ってんだ。使わないなら必要なんてないよな?」
「だから……っ」

 その事はさっきも口にした筈だ。人を撃つ為に持っているわけではない、と。そう瀬人が反論しようとするのを城之内は視線で封じ、徐に額に触れていた手を下方に伸ばした。先程から執拗な程触れていた瀬人の腹部に刻まれた醜い傷痕。彼はそれを意識させるようにまたなぞり、やや低い声で言葉を続ける。

「お前の身体にこんな酷い傷作った元凶だろ。痛くて苦しい思いをして、死ぬか生きるかをさ迷った最悪の凶器じゃねぇか。それと同じ思いを誰かにさせんのか、お前は」
「………………」
「使う使わないの問題じゃねぇ。持っている事自体、オレは賛成できないね」

 だからもう、そんなもん捨てちまえ。おっかねぇし。

 そう短く吐き捨てて、城之内は瀬人が握る銃を寄越せと手を突きつける。そんな事をしたところで特に効果があるとは思えなかったが、この場限りでも瀬人をこんな凶器から遠ざけたかった。けれど。

 瀬人は城之内の顔をじっと見据えただけで手にした銃を未だ強く握り締めていた。まるで、渡したくないと言うように。

「どんな理由があってもか」
「え?」
「どんな理由があっても、貴様はオレが銃を持つ事を許さないと」
「……理由ってなんだよ。理由があんのか」
「………………」
「あるんなら、言えよ。聞いてやっから」

 言いながら、城之内の手が銃を持つ瀬人の手に重なった。小さな音がして銃が揺れる。

 瀬人の体温を移しているはずのそれは何故か変わらず酷く冷たく、背にぞくりと寒気が走る。やはり、銃は嫌いだ。恐ろしい。そんな事を心で思い表情に滲ませながら、城之内は銃を瀬人から取り上げようと力を込めた、その時。

 するりと瀬人の手が城之内の指先とシーツから離れ、ゆっくりと持ち上がる。
 銃を握り締めた、そのままで。

 自然と銃と向き合う形となった城之内の目の前に、銃口が突きつけられる。

 余りに突然の出来事に城之内は心底驚愕して銃口の向こう側にある瀬人の顔を鋭く睨んだ。冗談にしても性質が悪すぎる。最悪だ。

「……ちょ、海馬!お前!」
「動くな」
「な!」
「動くと、勝手にこの銃が貴様の心臓、もしくは頭を打ち抜く事になる。至近距離だからな。考えなくても即死だろう」
「ば、馬鹿言うな!……冗談でもよせよ、こんな事!」
「冗談?まあ、確かにこれは冗談だが。オレが言っている事は本当だ」
「他人事のように言うな!まず銃を下ろせ!」

 真夜中に発するには余りにも不似合いな怒号が響き渡る。本気で怒りを露にした城之内のその声に、瀬人はそれまで決して見せなかった冷酷な笑みを口元に刷き、やはり素直に銃を下ろした。

 瞬間、瀬人の頬が乾いた音を立てる。反射的に城之内が手を振るったのだ。

「海馬!てめぇ……ふざけんなよ!」
「ふざけてなどいない」
「あぁ?!」
「だから、ふざけてなどいない。オレは、」
「意味分かんねぇよ!」
「当然だ。オレにも分からない」
「…………あ?」
「分からないのだ。矛盾、だらけで」

 瀬人の口元に浮かぶ笑みが消えない。

 未だ手の中に銃を握り締め苦しげにそう呟く瀬人の顔を、城之内はただ言葉もなく見つめていた。

 見つめる事しか、出来なかった。
「さすが剛三郎様がお目をかけられただけあって、優秀なご子息ですな。次期総帥などに据えず、専属のボディガードとしてお付けになられた方がよろしいかと」
「馬鹿を言うな。アレを使い捨ての道具にする為に金をかけているのではない。で、首尾はどうなのだ」
「上々です。このまま「正規」に育て上げれば立派な殺し屋になるでしょうな。今の所百発百中です。ただし……」
「私の要望は叶えてくれたのか」
「はい」
「それでいい。上等だ」

 にやり、と剛三郎の口元に黒い笑みが浮かぶ。そして彼は目の前の男に剥き出しのままの札束を無造作に放った。未だ帯が巻かれたままのそれはドサリと音を立てて床に落ちる。男は無表情のままそれを拾い上げ、懐に収めた。このやり取りは既に何度も繰り返されている。

「それにしても……普通は考えられませんな。先に武器を与え、完璧に仕込ませておいて肝心な時に役立てなくするとは……常人の思いつく事ではございません」
「芽は早めに摘み取って置くに越した事はないだろう。今は子供故に非力でも、いつ牙を向くかわからんからな。現に瀬人の私を見る目が変わって来ている。いつ寝首を掻かれる事か」
「確かに」
「自身を守るべき武器が全く役に立たないものに成り果てるというのはどういう気持ちかな。私には想像もつかないが」
「私にも想像はつきません。何せ商売道具ですから」
「だろうな」
「では、私はこれで。また何かございましたらなんなりとご用命下さいませ」

 全身を黒で包みまるで影の様な男は深々と剛三郎に一礼し、足音も立てずにその場を立ち去る。程なくして一人となった部屋の中で、剛三郎は今瀬人が在室している一つ部屋を挟んだ奥にある書斎へと目向けた。静けさに満たされたそこは、物音の一つも聞こえない。

 剛三郎は緩やかに席を立ち、ゆったりとした足取りで今しがた意識を向けた部屋に向かう。自室との境にある室内扉としては些か頑丈すぎる作りのそれを二種の鍵で開き、合間の簡素な寝室を素通りし、今度は鍵の掛らない扉へと手を伸ばす。

 毛足の長い絨毯が彼の足音を吸い取り、室内にいる瀬人には人の気配など感じない。この扉を開けた瞬間、瀬人が一瞬見せる恐怖の様な蔑みの様な複雑な視線は、剛三郎が特に気に入っているものだった。
 

「瀬人」
 

 扉を開けると同時に鋭く上がったその声に、呼ばれた瀬人は僅かに身を竦め、一心に机上の書物を睨んでいた視線をあげる。以前はまるで恐怖の対象物を見る様に恐る恐る上げられたその瞳は、今では条件反射の様に直ぐ様剛三郎を射抜いてくる。成長と共にすらりと伸びた背も相まって、少し近くに見える青い瞳の奥にちらつく小さな焔。それは経ていく年数と共に徐々に色を増していた。

 既に、その瞳全体が揺らめく程に。

 その眼差しを真正面から受け止めながら、ゆっくりと机の前に座すその身体に近づいていく。瀬人が僅かに身じろぐと、チャリ、と耳障りな金属音が響いた。瀬人の首に嵌る黒く太い皮ベルトから長く伸びている冷たい鎖が机と触れた音だった。それを外す鍵は、扉の鍵と共に勿論剛三郎の手に握られている。それを弄びながら彼は至近距離に立ち、わざと瀬人を見下ろした。

「あの男には暇を出した。既に教える事は何もない、と言われたのでな」
「………………」
「お前の銃は何処にある」
「……部屋に……っ!」

 瀬人がその声に応える前に、机上の状態を既に見ていた剛三郎の手が動いた。静寂に満たされた部屋に鋭い音が響く。衝撃で大きく傾いだ瀬人の頬にさらりと乱れた髪が落ちた。白い頬が、鮮やかな紅に染まる。

 その肌を容赦なく打ちつけた剛三郎の掌がゆっくりと瀬人の髪を掴みあげる。きしりと軋む頭皮の感覚に、瀬人は僅かに顔を歪めた。

「常に所持しておけと言ったはずだが」
「……今は、必要ないでしょう」
「それはお前が決めるべき事ではない」
「この部屋に誰が入れるというんですか。義父さん以外の、誰が!」
「何事も完璧という事はない。それに、お前がアレを一番使いたいのはこの私に向かってではないのか?」
「そんな事……」
「こんなものを嵌められて、犬畜生の如く鎖で繋がれ、更に部屋に閉じ込められてどんな気分だ。そうまでされても憎悪を募らせないなど、それこそ精神が病んでいるとしか思えないが」
「自分で、そう仕向けている癖に」
「ああそうだ。全て私が仕向けている。だから、殺したい程憎くないかと聞いている。……お前は何故この部屋では銃を手放すのだろうな。まぁ、そんな事には興味がないからどうでもいいが。とにかくアレを身体から離すな。これは命令だ」

 耳元で低く囁かれたその声に、瀬人の身体が小さく震えた。髪を掴まれたその姿勢のまま、鋭い青の目線だけがゆっくりと剛三郎の目を捕らえる。その眼差しをやはり鷹揚に受け止めて、剛三郎は三度笑った。瀬人のペンを持ったままの指先に最大限の力が篭る。

「もう悪魔とは言わないのか」
「……え?」
「お前も、銃を手にした時点で悪魔となんら変わらないがな」
「………………」
「どうだ。そろそろ生き物を撃ってみる気はないか?無機物ばかり相手にしても話にならんだろう。お前の銃が無ければ私のを貸してやる。ほら」

 ゴトリと重厚な音がして、剛三郎の手に何時の間にか握られていた一丁の拳銃が瀬人の目の前へ放られる。白いノートの上に転がった黒光するそれは殺傷力の極めて高い代物で、彼が好んで懐に忍ばせているものだった。剛三郎は思わず身を引こうとした眼下の身体を許さず、髪を掴んでいたその指先で瀬人の右手を取り強引に銃を握らせた。その銃口を緩やかに自分の心臓部へと固定し、もう一度瀬人の名を呼ぶ。

「この引き金を引けば、お前は自由になれる。こんな生活を強いられる事もない」
「……嫌、だ」
「安全装置は外してある。後はその人差し指に軽く力を入れるだけだ。もうその感覚も覚えただろう?」
「嫌だ」
「怖いのか」
「嫌だ!!」
「あれだけ銃に慣れてしまっても怖いのか……瀬人!」
「義父さん!」

 瞬間、瀬人の手が強い力で剛三郎の手を振りほどき、構えていた銃は音を立てて机上に落ち、そのまま床へと転がった。間を空けず再び響く衝撃音、振り下ろされた剛三郎の掌の力強さに瀬人は弾みで椅子ごと床に倒れこんだ。部屋に敷き詰められた薄い絨毯の所為で衝撃は僅かに和らいだが、それでも息が止まる程の痛みを感じて悲鳴すら上げられない。苦痛に歪んだ顔が頭上の剛三郎を仰ぐようにゆるりと仰向く。

 その刹那、頭部に堅く冷たい感触があった。その正体は考えなくても分かる。たった今先に落下した、拳銃だった。

「下らんな」

 剛三郎の冷ややかな声が響き渡る。次いで聞こえる高笑いに、瀬人は改めて身を竦め、全てから逃げるように瞳を閉じて耳を塞いだ。
 

 ── 銃声が、聞こえる。
「矛盾て?何が矛盾なんだよ」

 頬を打った衝撃で僅かに乱れた髪は俯いた瀬人の表情を上手く隠す。城之内はそっと手を伸ばし、緩やかにその髪をかき上げて、そのまま少しだけ熱を持った頬に触れる。その手を払いのける事もせず、瀬人は下に向けた目線はそのままに小さな声で言葉を紡ぐ。

「オレは、銃は嫌いだ。出来れば触りたくは無い」
「え?でもお前……」
「先程貴様に銃口を向けたが、あんなものはそれこそただの冗談だ」
「冗談って、お前なぁ!」
「触りたくなどない。けれど、手放せない。剛三郎に常に銃と共にあれと、そう教育されたからだ。所持していなければ、殴られる。あの男が消えた今もそれを身体が覚えている」
「…………………」
「こんなものを所持していても、何の意味も無い。撃てもしないのに」
「……撃てもしないって、どういう事だよ」
「言葉通りだ。オレはこの銃を使えない。……正確に言えば、人に向かって撃つ事は出来ないのだ。だから、あの時……」
「あの時?」
「オレはこの銃を持っていたのに……撃てなかったのだ」

 未だ彼の手に握り締められたままの銃が小さく音を立てる。思わずそこに手を伸ばした城之内が触れたその指先は確かに微かに震えていた。

 触れてみて、初めて分かる程……微かに。
 

 一年前。暴漢に襲われたあの日。

 己に向けられた銃口の気配に瀬人はSPよりも先に気付いていた。気付いて咄嗟に懐に忍ばせていたあの拳銃を構えた。引き金に指をかけ、男の腕に狙いを付けて撃とうとしたものの、指が震えて動かなかった。

 その直後、鋭い銃声と共に腹部に激痛が走った事だけは覚えている。そこから先は記憶にない。気付けば病院のベッドの中だった。

 何故撃てなかったのか、どうして指が動かなかったのか。瀬人が銃を構える瞬間まで見ていた周囲の人間は皆疑問に思いつつも黙っていたが、瀬人にはそうなるだろうと分かっていた。分かっているのに、身体は反射的に銃を構えてしまった。

『怖いのか?怖いだろう、瀬人。お前はその銃を護身に使う事は出来ない。むしろそれを手にした瞬間、命取りになるのだ。護身が出来る人間は、銃を構える人間に向かって容赦なく発砲できるものだからな』

 剛三郎はこうなる事を知っていた。銃を嫌う瀬人にあらかじめ銃を持たせ、嫌悪を増幅させる。それをトラウマになるまで育て上げ、『いざという時使い物にならなくした』のだ。瀬人が将来的に嫌悪を克服し自己流で銃を覚え、自分に銃口が向く前にその手段を封じる。それが剛三郎が瀬人に講じた処置の一つだった。

 ── 己を守るべき武器が全く役に立たないものに成り果てる。

 剛三郎が口にしたその言葉は、全てその通りになったのだ。

 何時から引き金に指をかけるのを躊躇う様になったのだろう。或いは、最初からだったのかもしれない。銃を持ち、初めの数日は射撃場に入るだけで吐き気がした。一発撃つ度に銃を取落すほど手が震えた。しかし常に懐にその硬く冷たい感触が存在するようになってから、徐々にその拒絶反応は成りを潜め、無機物に向かっては震えずに発砲する事は可能になった。しかし、それ以上はどうにもならなかった。 ……なるはずも、なかったのだ。

 役に立たないと知っていて、それでも馴染んでしまった携帯拳銃。自分を縛り付ける男の死をこの目で嫌という程確認したにも関わらず、この武器を手から離した瞬間、飛んでくる衝撃を恐れて毎日軽い嫌悪と共に懐に忍ばせる。そんな事は、あるはずもないと分かっているのに。

 手の中の銃が、やけに重い。
 

「持っていても意味がないんなら……やっぱり捨てちまえよ、そんなもの」
 

 暫し沈黙に満たされていたその空間に、城之内の声が静かに響いた。同時に瀬人の手に触れるだけだった城之内の指先が確かな意図を持って動き、握り締めた銃を絡め取る。慎重に、引き金から長い人差し指を抜き去り、そのまま銃自体を取りあげる。

「どうしても捨てられねぇっていうんならオレに寄越せ。ちょっと怖いけど預かっててやるから。オレは、やっぱりお前にこんなものを持っていて欲しくない。どんな理由があっても、嫌なものは嫌だ」
「………………」
「剛三郎がお前に何を言おうが、もう関係ねぇじゃねぇか。……お前は、死んだ人間と生きているオレ、どっちの言う事を聞いてくれんの?」
「城之内」
「もう忘れろ、海馬。触りたくないんなら触らなくていい。そんなものなくたってお前は大丈夫だ」
「………………」
「剛三郎は、もういない。誰もお前を傷つける人間はいねぇから」

 言いながら、城之内は手にした銃を視界から消えるよう、無造作に床へと放った。大理石で出来たそこに落ちた銃は大きな音を立てて無様に転がり、暗闇の中に紛れてしまう。目を凝らしても、何処にも見えない。

 その様子を瀬人は何時の間にか抱きしめてきた城之内の肩越しに見つめていた。手元にもう銃はない。それなのに、衝撃は訪れない。常に瀬人を脅かし、痛めつけたあの掌は、今は存在しないのだ。……剛三郎は、もういない。

「……いないんだな」

 一度だけ顔をあげ、周囲に視線を廻らせた後、瀬人は己を抱く城之内に縋るように手を回し、確かめるようにそう呟く。その声に城之内は力強く頷くと、背に回していた掌で瀬人の項を抱き、その耳元にもう一度、言い聞かせるように囁いた。

「ああ、いねぇよ。ここにも、何処にも、もういない。分かってんだろ?」
「……分かってる」
「じゃあ、もう銃を持つ必要はないよな?」
「………………」
「持たないって、オレと約束してくれ、海馬」

 恐怖と嫌悪に彩られた瞳で、震える指を堪えてまで人殺しの道具を身に付ける道理は無い。忌まわしい記憶と共に全て捨ててしまえばいい。お前は、自由だ。

「約束する。もう、銃は持たない。全て、捨てる」

 ほんの僅かな間の後、瀬人は酷くはっきりとした声で、城之内に言い切った。

 そう、何もかも捨ててやる。身内に巣食う恐怖や蔑みや怒りや……心の奥底に存在していた義父に対する歪んだ憧れまで全て。
 

「── 全部、捨ててやる!」
 

 瞬間、城之内の力が更に強まった気がした。
 痛いほど抱きしめてくるその腕は、歪んだ瀬人の顔が見えないように自身の肩口に軽く押し付け、掌は宥めるように震える背を撫で摩る。

 落ちた銃の姿は城之内にも見えなかった。このまま、あの銃が消えてしまえばいい。瀬人を苦しめる記憶と共に、跡形もなく。

 そう思い、彼は静かに目を閉じた。

 痛いほどの静寂が、抱き合う二人を包んでいた。
 翌朝、城之内が消えた寝室で、瀬人は降り注ぐ朝日の中、放られた銃を見つめていた。暗闇に紛れ、影さえもわからなかった昨夜。本当にどこかに消えてしまったのではないかと錯覚していたものの、それは以外と近くに転がっていた。

 暗灰色の床にやけに目立つ黒い銃身。

 瀬人はそれに無言で手を伸ばし、一瞬の躊躇いの後、引き金に指をかけた状態で拾い上げた。ずしりとした重みは相変わらずで、冷たすぎる感触に吐き気がする。

「………………」

 手に収めた銃を長い間じっと眺めていた瀬人は、やがて徐にそれを構え、静かに腕を伸ばして持ち上げた。そして、あるものに銃口を突きつけた。

 カチリ、と小さな音がして安全装置が外される。震える息が一つ、彼の唇から吐き出された。

 そして。

 大きな銃声が、一つ響いた。次いで割れる硝子の音。

 銃口から微かな白煙がくゆり、辺りは微かに鼻をつく硝煙の匂いに満たされた。辺りに散らばったのは粉々に割れた鏡。瀬人は自らが映り込む鏡に向かって発砲したのだ。『人に向けて』撃った、最初で最後の一発。

 破片の一つが頬に飛び、薄い皮膚を傷つけて、血を流す。

 それを指で掬って口に含み、瀬人は割れた鏡の中に手にした銃を叩き付けた。
 

 そして二度と……触れる事はなかった。
「決別したのだ。全てに」
 

 後に瀬人は、城之内へそう語った。
 鏡に映る自身の姿と共に忌まわしい過去も、恐怖も嫌悪も粉々に打ち砕いた。あの銃と共に二度と触れる事はない。だからもう大丈夫だ。そう言って、彼は笑った。
 

 それでも時折、下腹の傷が疼く事があるのだという。
 遠い記憶の中の銃声と共に。
 

 ── その引き金を引く者は、もういない筈なのに。