キッチン

「……貴様、なんだこの惨状は。ここは本当に食品を扱う場所なのか?」
「……しょーがねーじゃん、……男二人所帯なんだからよー。つーかお前来るなら来るって言えよ。なんでいきなりなんだよ」
「貴様が呼んだんだろうが」
「……そーだけどー。それって10時間前だろ。オレ、忘れてたし」
「仕方あるまい。童実野に居なかったのだ」
「え?」
「一昨日から海外で会合があってな、そちらに出席していた」
「えぇ?おま、まさかそっから来たのか?!」
「……来て悪かったのか」
「いや!そんな事ねぇけど!で、でもっ」
「あんな電話を聞いて無視した上で、貴様が布団の上で冷たくなっていたら寝覚めが悪いからな。何、高々ジェット機で9時間位の場所だ。一番重要な案件は終了した所だったしな」
「9時間?!……ご、ごめんなさい」
「まぁいい。とにかく病人は寝ていろ」
「……や、なんか心配で」
「煩いわ。オレに不可能は無い。いいから邪魔だ、出て行け!」
「ちょ、病人の首根っこ掴むなよ!」
「やかましいっ!」

 そう言ってぐいっとよれたパジャマの襟を掴みあげた海馬は、そのままずるずると引きずる形で無理矢理オレを元居た場所まで連れて行き、そのままぽいっと布団の上に投げ捨てた。

 ちょ、その扱いは酷いんじゃないの?これでもオレ、病人だぜ?その衝撃でガンガン痛む頭を抱えてそう訴えてやると、海馬はフン、と鼻を鳴らして背を向けた。……冷たい奴。まぁでも、ここに飛んできてくれたって事は優しいんだけどな、本当は。
 

『……かいばー。オレちょっともうだめだわ。しにそう。……いや、もうしぬ』
 

 ぜいぜいと鳴る喉の奥から必死に搾り出した声でオレがそんな電話を海馬にかけたのは、直前の会話の通り今から10時間前の事だった。今週の頭頃から世界的に大流行したインフルエンザに漏れなく掛かってしまったらしいオレは、数日前から身体に変調をきたしていて、ついに昨日倒れて動けなくなった。

 こんな時ばかりオヤジは出稼ぎで家を空けていて一人残されたオレは、薬も食べ物もない家の中で殆ど遭難気分だった。じゃあダチに、と普通はなるもんだけど、さすがは世界的大流行の強力ウイルス。このオレが罹っちまう程だから、周囲なんて漏れなく全滅で、高校は完全に学校閉鎖状態だ。なので、ダチの助けすら得られない。

 そうなっちまうと最後の手段として思い浮かぶのは毎日目の廻るような忙しさで全国のみならず全世界を飛び回っているらしい海馬社長さん位で、一応付き合ってはいるんだけど電話したって冷たくあしらわれるのは目に見えてるから、敢えて避けていた。

 けれど、朦朧とする意識の中で海馬の番号が表示された携帯を見ていたらつい通話ボタンに指が行っちまったらしく……ってなんでここで「らしく」っていう曖昧な表現なのかと言うと、その辺はもう余り良く覚えちゃいないからだ。さっきの台詞だってそういう言葉だったかどうかなんて分からない。

 ……ともかく、そんな酷い状態で海馬に連絡をした結果、奴は本当にジェット機で9時間掛かる場所からこのボロアパートに駆け付けてくれた訳だ。両手になにやら一杯お土産を抱えて。
 

「……お前、なに、それ……どーしたの?……っていうか、お前がどうしたの?」
 

 チャイムを鳴らすどころか人の気配すらさせないで何時の間にかオレの部屋の扉を開け放った海馬に、オレは死ぬほどビックリしてガバリと布団から跳ね上がり、口をパクパクさせながら辛うじてそれだけを呟いた。

 すると海馬は「どうしたも何もないだろう」とむっとした顔をしてくるりと踵を返してその荷物ごとキッチンの方に向かってしまう。その後を慌てて追って、奴を捕まえて交わしたのが冒頭のやりとりだった。

 ドサリと大きな音がして、海馬が持って来た酷く見慣れた……けれど持ってる人間には頗る似合わない何処かのスーパーだかドラッグストアだかの袋には遠目からは良く分からないけど、食べ物やドリンク剤や薬が入っているらしい。海馬曰く「どうせ貴様の家には何もないだろう?また出て行くのが面倒だから全部持ってきた」だそうで。

 お前そういうのどこで覚えてきたの?って聞いたら「馬鹿にするな」って怒られた。まぁ一般常識っちゃー一般常識だけど、しようと思えば指一本動かさずに日常生活を送れてしまう奴に何かを期待するって事自体無理でしょ。家事とか看病とか絶対無理。想像出来ない。

 だからオレは自分の身体が辛い事より、海馬が何かやらかさないか心配で扉をあけ放しにしてくれたお陰で良く見えるキッチンの様子を起き上がってついつい覗いてしまう。そしたら、あいつ目ざとくそれに気付いて、ずかずかと部屋に入って来て「寝ていろと言っただろう!」と怒鳴りつけてきた。うわ、病人怒鳴るかフツー。ますます不安だ。

「で、貴様、いつから死んでいた」
「……えぇっとお前に電話する前だからー……昨日の朝かなぁ。もっと正確に言えば一昨日の夜だけど……」
「成る程。どうりで顔が酷い訳だ」
「……酷い言うな」
「とりあえず、食べられそうなものを上げてみろ。何でもいい」
「……え?っつーかそれじゃ駄目だろ。お前が何を持ってきたかまず言えよ」
「煩い。貴様に口答えする権利はない」
「……じゃあ、うどん。オレ、お粥よりうどんがいい。溶き卵入ってる奴」
「そうか。わかった」
「わ、わかったって。どうすんの?」
「決まっているだろう。作ってやる」
「ちょ、お前が作るのかよ?!オレ、この上腹まで壊したくねぇんだけど!!」
「失礼な事を言うな!」

 その大声と共にベシッ!と派手な音を立ててオレの額に冷えピタを叩きつけた海馬は、いつの間にか持って来ていた白いタオルで上手に包んである氷枕を、湿って半分潰れていたオレの枕があった場所にぽい、と投げつけて、その上に力任せにオレの頭を押し付けた。

 痛い痛い痛いっ!中の氷刺さってるっつーの!!そう大口を開けて叫んだら今度はすかさず体温計を突っ込まれた。行動の全部が頗る荒っぽいけど、看病としては的確だ。お陰で辛くてうんうん唸ってた筈のオレの口から、ふうっと心地いい溜息が出る。

 ……これはもしかすると、もしかして……?

「……なぁ、お前、こういう事した事あんの?なんかえっらく手慣れてるんですけど」
「だから貴様はオレをなんだと思っているのだ」
「だってさぁ」
「いいから病人は無駄口を叩かず黙って寝ていろ。煩い。それに、オレにうつったらどうする」
「こんなに間近にいてうつるも何もないんですけど。うつるのが怖いんなら来なきゃいいだろうが」
「何?凡骨はうどんを鼻から食べるだと?」
「どーいう切り返しだよ!!」

 そう言って嫌な笑いを浮かべた海馬は、酷い状態の枕と毛布、そしてオレがいたにも関わらずいつの間にかテーブルマジック宜しくはがされていたシーツを抱えてさっさと部屋を出て行ってしまう。あーもう煩いのはどっちだよ!かわいくねーな!お前、大体オレを看病する気あんのかよ!イジメに来ただけじゃねーのか、おい!!

 そんな文句を心の中で叫びつつ、なんだかすっかり疲れてしまったオレはシーツが無くなった布団の上に横になって、頭から布団を被って目を閉じた。

 なんだか少し楽になった気がする。……気のせいかもしれないけど。

 未だぜいぜい言う喉に少しだけイライラしながら、それでもほんのちょっとだけ安心した気持になったオレはそれからすぐに眠ってしまった。

 遠くで海馬が立てているだろう物音が、なんだかとても懐かしく感じた。
「凡骨、起きろ。出来たぞ」

 どれくらい眠ったのか。全く持ってちっとも優しくない声に強引に起こされて、オレが重たい瞼をゆっくりと持ちあげると、なんだか妙な格好の海馬が無表情で座っていた。

 今朝からの曇り空の所為で少しだけ薄暗かった室内は、いつの間にかすっかり明るくなり……っていうか、煌々とした蛍光灯の光に照らされて凄く眩しい。……電気が点いたって事はもう夜な訳だ。つーか節約の為に蛍光灯は一個しか点かないようにしてたのに、なんで二つ点いてんだよ。しかもなんか明る過ぎね?変えたのか?いつ、誰が、何処で?!……や、考えないようにしとこ。今想像したら脳が沸くわ。

 電気はともかく、ちょっとだけ目線を上げて時計が掛っている壁の方をみると8時を少しだけ回ってる。結構眠っちまったのかな。や、でも海馬が何時に来たのかオレは知らないから良く分かんねぇけど。

 そんな事を寝起きで良く回らない頭でぼーっとしながら考えていると、そんなオレに焦れたのか海馬は無言のままオレの顔を覗き込んで、徐に片手を首の後ろに突っ込んでさっきの乱雑な仕草とは裏腹な、こいつにしてはちょっとだけ丁寧な動作でオレの身体を起こしてくれた。まだ起き上がるとちょっとだけくらくらするのを知っているのかいつの間にか両腕を使って肩を支えてくれちゃったりしてる。

 こういう細かいとこ気ぃ使うよなコイツ。やっぱり良く分かんねぇ。

「気分はどうだ」
「……んーさっきよりはちっとはマシかなぁ」
「インフルエンザなど食べて薬を飲めばすぐ直る。要は体力勝負だからな。貴様は体力はあるのに栄養が足らんからこういう事になるのだ。どうせ最近ろくなものを口にしていなかったんだろうが」
「……あーうん。給料前でしたから。お前もいなかったし」
「オレの家は貴様の栄養摂取所ではないわ」
「別にいーじゃん。事実なんだし。……つか、栄養もそうなんだけど、最近ストレスも溜まってたんだよねーほら、シてないし?」
「それは関係ない」
「……関係あるかもしんないだろー。なんでも溜めこむのは身体に良くないんだぜ」
「ふん、下らん雑誌やDVD相手に毎晩熱心に励んでいる癖に何を溜めこむというのだ」
「……ちょ?!おまっ、何言ってんだよ?!」
「違うのか。やった後は手を洗えよ」
「ち、違わねーけど。だって健全な男子高校生だぜ、オレ……って!うああ!何言わせんだ!!っつーか!そんな事よりうどんっ!」
「まだ熱い。もう少し待て」
「適温になってから持って来いよ!」

 ったく涼しい顔してさらりとそーゆー事口にすんだからデリカシーがないよなこいつッ!……内心そう叫びながら、オレはうどんが冷める間なんとなく手持無沙汰になって、意味もなく妙に明るくなった部屋の中をぐるりと見回した。

 ……あれ、なんかびみょーに違和感がある。なんかこの部屋、すっごく綺麗じゃね?ついさっきまでは足の踏み場がない程色んなものが散乱してた筈なのに……あれ?え?

「何をきょろきょろしている」
「……なんかさ。この部屋、綺麗になってねぇ?オレの部屋じゃないみたいなんですけど……蛍光灯も明るいし」
「ああ、片付けたからな。床に散乱していた服は全部洗濯機、雑誌はラック、ゴミと思しきものは全部捨てた。蛍光灯も換えたぞ。小汚く薄暗い部屋にいるから具合も悪くなるのだ。心配しなくとも電力は今までの二分の一以下だから電気料金は問題ない。というか、いつの時代のものを使っていた貴様」
「あ、やっぱ換えてくれたんだ。……ってはいぃ?!『おぼしきもの』って!!ゴミじゃなかったらどーすんだよ!!ここに散らかしてたもんのなかでいらないもの一個もなかったんですけど?!つか!AVとエロ雑誌を綺麗に並べてんじゃねぇ!!」
「こうして見るとまともなものに見えるから不思議だな」
「いやいやいや。見えないから!隠せよこういうのはっ!つーか触んな!」
「貴様も人の部屋に来ると勝手にあちこち弄り回しているだろうが。オレが知らないとでも思っているのか」
「……ゲッ。バレてたんだ」
「ふん、オレの記憶力を舐めるなよ。どこに何が置いてあるのか位正確に把握しているわ。1ミリでも動いていれば分かる。勝手に触るなと何度言ったら分かるのだ」
「や、だって気になるじゃん?浮気してないかとかさぁ」
「浮気の調査に何故クローゼットの下着入れの中を漁る」
「…………それはまぁそれとして」
「今度やったら撃ち殺す」
「ごめんなさい、もうしません」
「分かればよろしい。……もういいぞ。冷めただろう」

 相変わらず仏頂面でそう言った海馬は、持って来たお盆をずぃっとオレの横へと押し出して、食べろ、と促してきた。……え、ちょっと待って。ふつーのどんぶりなんだけど。こいつ作るとか言ったけど、『作る』なんてどうせレトルトの奴に卵ぶっかける程度だろ、と思ってたのになんか違うっぽい。

 恐る恐る自分の家の食器なのに使った事も無い陶器の蓋に手をかけて、落とさないように慎重に持ちあげると……すんごく美味しそうな卵とじうどんが入っていた。……うわーちゃんと白髪葱まで入ってる。何事なのこれは。え?店なの?

「どうした。不本意だが毒の類は入れてないぞ」
「不本意ってどういう事だよ……つーか、なんか凄いんだけど」
「何が」
「ちゃんとうどんになって……あだっ!」
「本当に鼻から食べたいようだな貴様!」
「病人をボカスカ殴んな!!だって、そーぞー出来ねぇんだもんっ!お前が料理とか無理だって!」
「見てもいない癖に四の五の言うな!いいから食べんかッ!」
「味見してないだろ。だってお前猫舌だもんな」
「味見なぞせずとも完璧だ」
「やっぱしてないし!な、胃薬買って来た?」
「……いい加減にしろよ。そんなに食べるのが嫌なら飢え死にしろ」
「た、食べます」
「箸の持ち方!」
「ほっとけ!食えればなんでもいーんだよ!」

 あーもう一々うるせぇ!!お前はオレのおふくろか!!こんな時に箸の持ち方もクソもないだろ!空気読め!!

 そう心の中で怒鳴りつけながら(声に出すと怖いから)オレは恐る恐る海馬くん作、見かけと匂いだけは頗る美味しそうな卵とじうどんを口にした。良く味わうのも怖いから丸呑みにしちまえ!と一気に一本吸い込んでみたら……。

「………うっ!」
「なんだ?マズイのか?」
「……いや、ふつー。っていうか、美味い!……えぇ?!」
「何故そこで驚く。オレは完璧だと言っただろうが」
「だってマジだと思わなかったもん。なんだこれスゲー!!」

 それはまさに『感動』の一言だった。元々期待なんかしちゃいなかったから、その分を差っ引いても十分におつりが来るほど凄い。出汁と酒と醤油と卵っていう凄くシンプルな味なのにこれは美味い。しかもなんか凄く懐かしい。これはなんだろ……えーと、あれだ。

「そうそう!おふくろの味!」
「……なんだそれは」
「うん。そうだ、これだよこれ!」
「だからなんだと聞いている」
「お前の作ったうどん、オレのおふくろが作る味にすんごい似てるんだ」
「……はぁ?」
「なんかお前って、おふくろみたい。そーいやー髪の色も似てるしな。オレってもしかしてマザコンかも。あ、なるほど!」
「……意味がわからん。一人で勝手に納得するな」
「まーなんでもいいじゃん。すっごく美味しいぜこれ」
「……それは良かったな」

 そう一人納得してオレはなんだか嬉しくなって全開の笑顔でそう言ってやる。するとさっきまでは偉く自信満々な態度だった海馬は微妙な顔をして曖昧に頷いた。あ、照れてる。なんだかんだ言ってこいつ、やる事が大胆な割に人の反応を気にするんだよな。まぁ、大企業の社長さんなら人の機微に聡くないと駄目なんだろうけどさ。

 海馬がオレの言葉になんだか明後日を向いて照れている内に、オレはさっさとうどんをつゆの一滴も残らず平らげて、ごちそーさま!と手を合わせた。すると海馬は空になったどんぶりをさっと下げて、なんだか美味しそうなフルーツがてんこもりになっている硝子の器を差し出してくる。……このタイミング。やっぱお前手馴れてるよ。なんかやな感じ。

「全部食べたら着替えてもう一度眠れ。明日には治る」
「……お前、医者でもねーのに何勝手に決め付けてんだ」
「熱は少し下がったしな。咳も余り出なくなっただろう?」
「……そー言われてみればそんな感じがして来た」
「馬鹿は罹るのも早いが治りも早いな」
「それは余計。でもさー治りかけって事は、お前の看病も終わり?もう帰んの?」

 煩い煩いと思ってたけど、いざ一人取り残されるとなると途端に寂しく思えてきたオレは、自分でもビックリするほど甘ったれた声でそう言っちまう。たった今「おふくろ」なんて口に出してしまった所為だろうか。ガキじゃあるまいし情けないよな。あー恥ずかし。

 そう思って慌てて「なーんて。当然ですよねー」って誤魔化そうと思って口を開きかけたその時、海馬は呆れた様に肩を竦めてオレにスプーンを手渡しながらこう言った。
 

「朝まで位はいてやるからさっさとしろ」
「何処へ行く。起きるなと言っただろうが」
「トイレですー。でもなんかすっかり気分爽快。熱下がったかなー。今何時?」
「6時頃ではないのか」
「……あ、ほんとだ。うあー今日も一日雨かぁ」
「どうせ引き篭もるのだから関係ないだろうが。今日一杯位は寝ていろ」
「うー。もう家飽きたんだけど。お前、ゲームは持って来てねぇの?」
「何がゲームだ。病人に必要無い物は一切持って来ていない。嫌ならインフルエンザになど罹るな」
「ちくしょ」
「暇なら溜め込んでいる課題でもしたらどうだ。次の提出期日をオーバーしたらアウトだろうが」
「絶対嫌です。そんな事したら頭痛くなっちゃうだろ。大体学校閉鎖中だし、焦んなくても大丈夫だぜ」
「もう潔く留年してしまえ」
「ひでぇ。……まぁそれはいいけど、こんな時間にお前は何やってんの?」
「何とは?片付けと、食事の用意だが。オレはそろそろ社に戻るからな。今日一日生きていける様にはしていってやる」
「まだやってたのかよ?!だってお前寝てないじゃん?起きるたんびにそーやってて」
「機の中で眠って来た。問題ない。大体この家にオレの寝る場所などないだろうが」
「そ、そうだけど……」

 幾ら飛行機の中で眠って来たっつったって、その前は仕事詰めだろ?これからだって仕事だっていうし、こんな事に体力使ってる場合じゃないんじゃねーの?

 相変わらず極静かに、けれど手際は頗る良くキッチンに立つ海馬は手にした包丁で何かを刻んでいた。リズミカルなトントンというその音に、やっぱり随分懐かしいものを感じたオレは、なんだかやっぱり寂しくなって部屋からフリースの上着を持ってくると、軽くひっかけて海馬が立つ場所からすぐの椅子に座ってしまう。

 すかさず「寝ていろ!」と言う声が飛んで来たけど、本当に身体は大分軽くなったし、あったかい上着着てるし、一人じゃ寂しいからいいだろって言ったら、肩を竦めてそれ以上何も言わなかった。よっしゃ。

 どーでもいいけど、海馬くんってばジーパンにパーカーが似合う事。スーツのまんまじゃ汚れるから勝手に着替えろって言ったら、押し入れの一番上に放り込んであったコレをさっさと身に付け、ウエストが緩いだの上が大き過ぎるだの文句を言いながらパーカーを腕まくりをして、ジーパンはオレが常に折りたたんでいた部分を綺麗に伸ばして(足の長さかよ!)行動を開始した。最初は違和感に微妙な気持ちになったけど、慣れて来ると案外可愛い。これでエプロンとかしてくれれば完璧なのに。でもオレもしないからしょーがない。

 しっかしこのキッチンも大分様変わりしちまって……つい数時間前とは全く別の場所になったみたいだ。床に容赦なく転がっていたオヤジが飲み散らかした酒瓶やつまみの袋多数、オレが捨てよう捨てようと思ってそのままにしてあったカップ麺の残骸や割り箸が全部綺麗に無くなっていて、見れば隅のゴミ置きの所にちゃんとそれぞれの指定袋に分類して捨ててあった。

 こいつがゴミの分別?!と思ったけど、袋にはちゃんと『生ごみ』とか『ビン・缶』とか書いてあるから分からない方が馬鹿だ。ちなみにオレは面倒くさくて全部生ごみの袋に捨てたりするんだけどさ。あ、なんかあやしい袋を一つ発見。

「お、なんだこの袋。なんでこれだけ指定袋にいれてねーの?」
「貴様の部屋のゴミとおぼしきものを放り込んでいるからだ。後から自分で分別しろ。でないと捨てる」
「捨てるなっ!全部いるの!」
「ならば『きちんと』片付けるのだな」
「あーもーお前マジうるさい!」
「これ位は当たり前だ。KCでは社内美化と個人の机の上、私物の整理整頓は社内規約に入っている。破れば即クビだ」
「絶対社員に嫌われてるだろ。小姑根性丸出しの社長なんてよ」
「整理整頓すら出来ん無能な人間は必要ない」
「それってオレの事ですか」
「犬にはそんな芸当など、最初から期待していない」
「あ、そ」
「ところで貴様、毎度うどんと言う訳にもいかないだろう。どうする?」
「あーそうだなー。大分調子良くなってきたから何でもいいや」
「そうか」
「お前のレパートリーって幾つあるの?」
「さぁな。口にした事があるものなら大抵作れる」
「……ちょ、何それ」
「とりあえず朝はこれだ」

 そう言って、海馬がテキパキとオレの前に並べたのは雑炊だった。シラスと梅干しが入ってる、やっぱり凄くシンプルなそれは、昨日のうどんとまた違って凄く美味そうだ。うちのおふくろは雑炊っていうと卵雑炊だったけど(今思うとバリエーションが余りなかった)同じ味だとやっぱり飽きるから、すげー嬉しい。

「つくづくお前って器用だよなー一回口にしたもんが作れるって事は、うどんとか雑炊とか食った事あんのか。こんなん出ないだろ、海馬家では」
「昨日からしつこいな。オレは生まれた時から今の生活をしているんじゃないわ。年数的に言えば庶民の生活をしていた時の方が長い。だから、こんな事は慣れている」
「……え?」
「母親の味と同じだと言っていたな。ならば、貴様の母親もオレの母親と似たものを作ったのだろう」
「………………」
「オレも今の貴様の様にこの距離で母親がキッチンでこまめに動く様を眺めるのが好きだった。だから、自然とそれを覚えたに過ぎない」
「……そっか」
「具合が悪い時は、確かに心細くなるものだからな。やはり起き出して叱られたりしたものだ」

 まぁ、オレはもう子供ではないからそんな事もないけどな。

 そう言って、海馬はほんの少しだけ自嘲気味に微笑んで、またくるりと背中を向けてしまった。

 ああ、だからお前はオレの声を聞いて遠い場所から飛んできてくれたんだ。元々寂しがりのオレが病気の所為で本当に寂しくて死んじまったら困るから。そういう所はやっぱり優しい。普段は意地悪で、オレ様で、どうしようもない位に煩いけれど……こいつを好きになって良かったと思う。

 シンクの横にある調理台には幾つかの皿が並んでいて、神経質に一つ一つラップで蓋をしている。何?って聞いたらオレの昼飯と晩飯だって。あっためればいい様に全部作ってくれちゃったらしい。完璧だ。こいつはいいお嫁さんになるぜ。……なれないけど。

 最初から最後まで大変美味しく頂いて空になった鍋を脇にどけて、オレはずっと狭い場所を行ったり来たりする海馬の事を眺めていた。見かけも、性別すらも違うけれど、その姿はやっぱりオレのおふくろとそっくりで、ほんの少しの間だったけど、ちょっとだけ幸せな気分になれた。

 この幸せが少しでも長く続く様に、小綺麗なキッチンもオレの部屋も、出来るだけ長くこの状態を維持しようとこっそり決意した。まぁ、持って精々三日位だけどな。
 

 

「では、オレはもう行く。暫くは日本にいるから何かあったら言って来い」
「うん。いろいろありがとな」
「………………」
「なんで黙るんだよ」
「貴様が素直だと、気持ちが悪い。やはりまだ熱があるのか」
「あのなぁ。人がマジで感謝して言ってるのに、そうやって茶化さないでくれる?でも、まだ熱はあるかもしんない。最後に測って行って。ほい」
「……何故額を出す」
「ん?いーじゃん。サービス。おでこがいーなー」
「貴様はオレにうつるかも知れない、という心配はしてくれないのだな」
「むしろうつっちゃえばいいのに。オレ、看病してやるよ。発症したらウチに来いよ。モクバにうつしたら悪いだろ」
「余計な世話だ」
「今度機会があったらお前のおふくろさんに言っておいて。雑炊のレシピ、完璧だったぜって」
「作ったのはオレだ!それにそんなどうでもいい事を墓前で報告するかっ!」
「じゃーオレが一緒に行って言うからいいもん。素晴らしい娘さんですねって」
「誰が娘だ!」
「怒らない怒らない。また機会があったら作ってな。お前の家の味に凄く興味あっから」

 その時はオレも一緒に作ってみようと思う。その実、好きな奴と一緒に料理とかしてみたいって密かに想ってたし。そう言ったら、海馬は「ならばキッチン位は常に清潔にしておけ」と一言釘を刺して、オレの額に自分の額をコツンと一瞬くっつけると最後に「寝ろ」とお決まりの文句を口にして、颯爽と部屋を出て行ってしまう。

 奴がいた場所には、きちんとたたまれたオレの服と、なんか色々書いてあるメモ用紙。ちらっと見たらどこに何を配置したかっていう事と、食事のメニュー、そして凄く几帳面な字で『早く治せ』って書いてあった。
 

 ……ヤバい、なんか感動して涙でそう。病気にはなってみるもんだ。
 

 そのメモを大事に大事に胸に抱えて、オレはもうひと眠りするべく自分の部屋へと歩いて行く。
 

 キッチンに残された、多分また凄く美味しいだろう昼食を食べるのを、心の底から楽しみに思いながら。