君を待つ

 くしゃくしゃになった煙草を懐から取り出して乱暴に最後の一本を指で探り当てると、100円ライターに火を付ける。その一部始終を酷く不快な顔で眺めていた相手をちらりと見遣ると「まだ止めてなかったのか」と早速非難が降って来た。

 久しぶりの再会で、最初の自主的な発言はそんな言葉かよ。そう言って笑うと奴は……海馬は少しだけ肩を竦めて小さく笑った。瞬間、目尻の所に小さな皺が出来る。一見したところ何一つ変わっていないと思っていたけれど、やっぱりこいつも年を取ったんだと思った瞬間だった。

 たまたま目の前にあったから飛び込んだ開店したばかりの大きなファミレスの窓際で。喧騒に紛れ、少し懐かしい気持ちを抱えつつオレ達は何気なく向かい合う。こうして顔を合わせるのはその実20年ぶり位じゃないだろうか。今日この場で会えたのだって、本当に奇跡に近い偶然だった。

 オレも平凡なりに忙しい毎日を過ごしていたし、海馬の方は相変わらず全世界を飛び回り確実に自分の夢を実現していた。今度は世界で最も貧しい国に、世界で最初の子供達が無料で遊べる海馬ランドが出来るらしい。

 その事をつい先日テレビで見て知っていた為開口一番「凄ぇな」と言ったオレに、海馬は昔の様に高笑いをするでも威張るでもなく、極静かに「当然だ」と言い切った。その一言は多分「凄ぇ」というオレの言葉に対してではなく、奴の本当の夢だった『子供の楽園を作る事が出来た』という事に掛っているんだろう。だからオレも「威張るんじゃねぇよ」なんていう憎まれ口を叩かずに、素直に「そうか」と言って、もう一度その功績を褒め称えた。

 不意に海馬の視線がオレの全身をざっとなぞって、何処か訝しげな顔をする。最後に会った時は比較的まともな格好をしていたのがこの体たらくで、最後に奴の目が止まった場所が左手の薬指だったからその理由は明確で、オレも特に隠しもせずにあっけらかんとこう言った。

「お前、なかなか目の付け所がいいな。そーだよ。別れたよ」
「何時だ」
「半年前かな。子供はあっちに取られちまった。今は堂々の一人暮らし」
「馬鹿だな」
「うん、馬鹿だと思う」

 そう、オレは半年前までは1児の父だった。職場で知り合った女と普通に恋愛結婚をして、丁度10年目に別れちまった。原因は性格の不一致……と言うのは建前で、本当はオレの所為。あれだけ嫌っていたオヤジの遺伝子を綺麗に受け継いでしまったオレは、自分が尤も嫌悪する大人に成り果てて、最愛の娘とも別れる羽目になっちまった。

 それ以来何もかも嫌になり適当に仕事をして、適当に生きる事を繰り返している。今日も平日の真昼間から外をぶらぶらしていたお陰で海馬に会う事が出来た。幸か不幸か良く分からない。

 最初その姿を見た時は幻か何かだと思っていた。けれど、ちゃんと他人と話して動いていたからこれは幻じゃない、本物なんだと確信した。確信した途端逃げようか声をかけようか迷ったけど、こんなチャンスは二度とないと思ったら自然と声が出ちまった。奴の心底驚いた様なビックリ顔は未だに頭にちらついて離れない。

 相変わらず何もかもが眩しくてピンと背筋が伸びているお前、それに比べてオレは猫背が癖になるほど俯いてばかりいた。これが人間の末路か、なんてこの年で思ったりして、なんだか凄くみじめだった。

「なぁ、海馬。お前は昔良くオレの事凡骨だの馬の骨だの好き放題言ってただろ。あれ、当時は凄く腹が立って、ふざけるなと思ってたけど、なんか今じゃその名前が凄くしっくりくるんだ。今のオレは本当に駄目な男だよ」
「そうだな。最早凡骨ですらないからな」
「……失望した?」
「何?」
「こんなオレに失望したかって聞いてんの」

 フィルターギリギリまで吸いつくした煙草を灰皿に押しつけながら、少し投げやりな気分でそう吐き捨てる。一時は恋人の様な関係を築いた男がこんな風に堕落してみっともない姿を晒したら、こいつがどう思うかなんて明白だった。

 お前を捨てて平凡な幸せを望んだオレなのに。
 それすらも自分で壊してしまった。本当に馬鹿だと思う。

 自分で言った事とは言え酷く情けなくなっちまったオレは、それ以上まともに海馬の顔を見る事が出来ずに深く項垂れて、すっかり冷めてしまった珈琲を口にした。安い上に温いから凄く不味い。海馬もなかなか喋らない。……ああ、なんか色々最悪だ。そう思い、もう席を立とうとしたその時だった。

 小さな溜息と共に、酷く呆れた様な予想外の声が降って来る。

「失望するだと?元より貴様などになんの夢も希望も抱いてないわ」
「……えっ」
「貴様が結婚しようが離婚しようが、それで自堕落な生活になろうがオレにはもう関係のない事だろう?」
「………………」
「それとも何か、貴様はその体たらくをオレにどうにかして欲しいと思ったのか?」

 馬鹿馬鹿しい。そう無感動に言い捨てて海馬はオレをじっと見る。そんな奴にオレは即座に違う、そうじゃない、と口にしようとしてその言葉を飲み込んだ。本当にその気持がないと言ったら嘘になる。何も言わないまますれ違う事も出来たのに、海馬に声をかけたのは……そういう事だ。

 海馬は未だに独身だ。結婚は勿論恋人がいるなんて噂も聞かなかった。あれだけ忙しい日々を過ごしている人間がそんな暇がないのは当たり前だけど、オレは少し不思議に思っていた。それと同時にほんの少しだけ、もしかしたら……と期待めいたものも持っていた。捨てた人間が思う事じゃねぇし、そうだったらいいな、という願望にすぎないけど。ほんの少しだけ。

 余りにも身勝手な期待を抱きつつ、けれどそれを言葉にはしないでじっと黙っていると、海馬はもう一度深い溜息を吐いた後、眉間に皺を寄せながら淡々と口にした。

「……オレは、先日日本に戻って来た。海外でやる事は全て終えてしまったからな」
「え?」
「少し遅れたが、人並みの生活もしようと思う。今日ここに居たのは気紛れだ。長く童実野を離れていたからな、町の様子がどうなっているのか見ようと思った。そこに汚い野良犬に吠えかけられたというわけだ。昔の様に」
「……汚い野良犬たぁなんだ!」
「なんだ、噛みつく元気はあるのではないか。威勢の良さまで失ってゴミに成り果てたと思ったぞ」
「い、言う事が一々酷ぇんだよお前は。さっきまで年取った分大人になったもんだと思ってたのに」
「フン、それはお互い様だ」

 全く、馬鹿は何年経っても馬鹿だな。そう言って、何の前触れも無しに立ち上がり、テーブルの隅にあった伝票をさも当然とばかりに取りあげると、海馬はそれ以上何も言わずレジの方へと歩いて行く。

 ちょ、これで終わりかよ?何この尻切れトンボな会話?!と慌てて後を追おうとしたら、緩い弧を描いて何かが手元に落ちて来た。図らずも正確に受け止めると、それは一台のシンプルな携帯電話。

「ちょ、え?海馬?」
「後は貴様の判断に任せる」
「何が?!」
「それは自分で考えろ馬鹿犬が。オレは凡骨以上の人間としか話はしない。とりあえずそのみすぼらしい姿をどうにかするんだな」

 最後に昔と変わらない皮肉った笑みを口元に浮かべ、海馬はそれきり振り返りもせずにさっさと店を後にした。残されたのは、ぽかんとその様子を眺めるオレと、投げつけられた携帯電話。……なんだろう、この状況。オレは、一体何をどうすれいいんだ?

 暫くそのまま呆けていたら、手の中の携帯電話が短く震えた。慌てて開いたディスプレイには新着メールが一件表示されていた。

 開封するまでも無くゆっくりと右から左へ流れて来た文字は……。オレの気持ちを少しだけ明るくしてくれた。
 

 それが希望の光かどうかはわからないけど。
 

『その気があるのなら連絡を寄こせ、待っている』
 

 覚悟が出来るのは、もう少し、先の話。