Act17 「何でこんなにいい匂いがするんだろ」

「貴様、なんだその匂いは!この間やめたと言っていなかったか?」
「えっ、何が?」
「何がではないわ!酒と煙草臭い!」
「へ?あ〜……ごめんごめん。これバイト先でついたんだわ。今ビアレストランでホールスタッフやってるからさぁ」
「帰って来る時に全身に消臭剤を振りかけて来い!!」
「そ、そんな無茶言うなよ。しょうがないじゃん」
「寄るなっ!半径二メートル以上近づくな!」
「遠っ!!ちょっと待てって……うわっ!!やめろよっ!!」
「やかましいっ!」

 部屋に入った途端、オレを出迎えたのは海馬の絶叫と除菌も出来る消臭スプレー。元々神経過敏の気がある海馬くんは、匂いには特に敏感で、ほんのちょっとの香りでも自分の鼻につくと速攻粉砕(この場合粉砕とは言わねぇか)。だから奴は消臭関係のグッズだけは肌身離さず持っていて、オレはしょっ中その犠牲になっている。

 今日も今日とて、バイト先で付いちまった酒と煙草の匂いの所為で、髪の毛から水滴が滴るほどスプレーを浴びせられた。……ちょっと酷過ぎんだろ!大体お前これペット用の消臭剤じゃねぇか!しかもなんで除菌プラスの方なんだよ?オレはバイ菌じゃねぇっての!

 大体匂いが気になるんならシャワーを浴びて来い、で済む筈なのにわざわざスプレー噴射とかほんっと性格悪いったら。どうすんだよこの始末!

「お前っ!びしょびしょじゃねーか!!何一本使い切ってんだよ!!」
「ふん。悪辣な匂いを持って来る貴様が悪い」
「だったら風呂に入らせろ!もうどうすんだよこの始末?!」
「知らんわ。そんなバイト速攻やめろ」
「無茶苦茶言うな!こっちは生活掛かってんだよ!」
「ならば完璧に匂いを落としてからここに来るんだな」
「……くっそー。お前鼻利き過ぎんだよ。お前の方が犬じゃねぇか!」
「その点では貴様は失格だな。オレの犬としての地位を維持したいのならもう少し過敏になって貰いたいものだ」
「オレ犬じゃねーし!つーか何所有物扱いしてんだ!」
「違うのか?」
「違わねーけど!……ん?……なんかもう乾いちゃったんですけど……あれ?」
「速乾性があるからな。匂いも消えた様だ」
「マジで?じゃーもう傍に行ってもいい?」
「まぁいいだろう」
「わーい!」

 いつの間にかぐっしょりと濡れていたオレの髪が綺麗に乾き服も鞄も濡れた跡一つ残ってない事に気づいたオレは、同時に消えてしまった匂いに心底驚きながら、海馬のお許しを貰ったので喜び勇んでソファーの後ろに立っていた奴の元へと飛びついた。

 ……あーこういう所が犬って言われるんだよなー。こないだモクバに「尻尾が見えるぜぃ!」なんて言われたし。でもまぁ、確かにオレに尻尾があれば海馬の前では思いっきり振りまくるだろうから否定はしないけど。

 オレの匂いの所為で飛び退く様にソファーから逃げた海馬を無事ゲットし、一緒に元の位置へと戻ってくる。弾みでカーペットの上に落ちちまったそれまで読んでいたらしい分厚いファイルと空になった消臭スプレーの容器を海馬から奪ってテーブルの上に戻してやると、二人同時に腰かけた。高級ソファーは音も立てずオレ等二人の体重を受け止める。

 しかし、こんなもんにどれだけ金かけてんだろ。下らない事に異常に情熱燃やすよなーこいつ。ソファーに身を落ち付けた後目の前に自分で置いた空容器を眺めながら、オレはしみじみとそう思う。

 それも性格なんだからしょうがないっちゃーしょうがないけど。もうちょっと大らかになればいいのに。オレなんて三日間風呂に入らなくても、作り置きのカレーがちょっと微妙な匂いになっても特に気にしないぜ?気付かないって言うか。……それはちょっとズボラ過ぎか。うん分かってる。

「……はぁ」
「何故溜息を吐く」
「何故ってお前……バイトで疲れて、癒しを求めてコイビトの元にやって来たら、臭いって大騒ぎされた揚句、消臭剤まみれにされてみろよ。凹むだろ普通に」
「自業自得だろうが」
「それにしたってちょっとぐらい目ぇ瞑ってくれたっていいじゃん。悪気はないんだからさ!これでも努力してるんだぜ?煙草もちゃんと止めただろ」
「ああ、その点は褒めてやってもいい」
「褒め言葉はいらないから、態度でお願い」
「調子に乗るな」

 そんな話をしながら海馬にちゅーしようとしたらあっさりと口を掌で塞がれた。ひでぇ、キス位いーじゃん、減るもんじゃないし。そう言ったら「貴様のは減りそうだから嫌だ」と言いやがった。減らねーっての。どんなだよ。

 しっかし自分から匂いが消えてみると、オレの鈍い嗅覚も少しはきく様になるのか、ちゃんと色んな香りが嗅ぎ分けられる様になって来る。例えば海馬の前にある空のカップから漂って来るコーヒーの匂いとか、すぐ傍に生けてある名前は分からないけど綺麗な花の香りとか。

 そして、オレの隣りに座る海馬から感じる妙に甘い匂いとか。

 ……そういやこいつ、何でこんなにいい匂いがするんだろ。海馬は人工の匂いを付けるのが嫌いだからこれはまんまこいつの匂いだ。鼻をくすぐる様な優しい匂い。甘いんだけど良く女の子からする様なお菓子系とかそういう甘さじゃなくて、なんていうかこう……あーもう表現できねぇ!!

「……何を人の匂いをしつこく嗅いでいる。オレは余計なものは一切付けてないぞ」
「うん?そうじゃなくって。いい香りだなーって。お前ってなんか甘い匂いするよな」
「甘い?そうか?」
「うん。甘い。こうペロっと舐めたくなるような」
「するなよ」
「えー。いいじゃん。味見ー!」
「なんの味見だ。そういう事は適切な場所でしか許可しない」
「言い方が物凄く堅苦しいけど、要するにベッドの中でしかダメって事ね。分かってますー。じゃー早速行こう!」
「行かんわ、阿呆が」
「つ、つれない……じゃーその気になるまで我慢するからキスさせて」
「キスしたら貴様が我慢できないだろうが」
「あ、分かる?」
「当たり前だ。……まだ時間が早い、もう少し待て」
「うー。はぁい。……じゃー膝枕」
「勝手にしろ」

 結局キスのお許しも出なかったオレは、仕方なく唯一OKを貰った海馬の膝を枕にする権利を行使して、そのままごろんと横になって、肉が無くて余り気持ち良くない奴の太股へと頭を乗せた。その上では海馬がまるで何事も無かったようにテーブルの上に置いてあったファイルを手に取り眺め始める。

 今日はこれが終わるまではオアズケだな。オレ、起きて待ってられるかなぁ。

 そんな事を思いながら暫くじっと黙ってそうしていたけどやっぱり眠りの誘惑には勝てなくて、オレはそのままうとうとと優しい微睡みの中へと落ちて行く。頑張って抗ってみようと思ったけど、全く持って無駄な事だった。

 完全な眠りの世界に入る直前、オレはあの甘い匂いを胸一杯吸い込んだ気がした。その所為か、山のような生クリームをとても口では言えない使い方をして思い切り食べる夢を見た。

 ……今度、現実にしてみようと思う。