Act20 「……体温高いよ、お前」

 見かけだけではこいつは殆ど死んでいた。けれど、触ると温かかった。

 海馬は……まだ生きている。
 

「海馬くんって、こんな綺麗な顔をしてたんだよ。知ってた?城之内くん」
 

 その部屋に入ってから暫く、じっと黙りこんでいた遊戯が一番最初に口にした言葉に、オレは密かに同意した。確かに、ぴくりとも動かずにただ目を閉じて眠っているその姿は今までに見たどの人間よりも綺麗で……余りにも綺麗過ぎて同じ人間には思えなかった。

 あのDEATH-Tの事件から三ヶ月。

 時間が経つにつれて最初は「あんな奴早く死んじまえ」と思っていた気持ちも大分落ち着いて、オレは初めて放課後海馬の元へ見舞いに行くと言う遊戯に付き合ってこの部屋へとやって来た。  馬鹿みたいにデカイ屋敷の恐ろしく広い部屋。その中央に置かれている天蓋付きのベッドの上に、海馬はまるで人形の様に静かに横たわっていた。

 ここに来るまでは『遊戯』の罰ゲームを受けて植物人間になっちまったらしい奴のみじめなザマを見て、思い切り馬鹿にして笑い飛ばしてやるつもりでいたけれど、その姿を見た瞬間、そんな気持ちは最初から無かったかの様にすっかり消えてなくなっていた。

 何故なら海馬の姿は笑い飛ばすには余りにも綺麗で、そして……酷く恐ろしかったからだ。

 そんな気持ちを抱いた後にオレの心に残ったのは、純粋な恐怖とほんの少しの憐み、そして大きな好奇心だった。

「なんか、別人みてぇだな」
「うん」
「……こいつ、こんな顔してなかったよな?もっとこう……言葉は悪ぃけど不気味でよ。悪魔みたいな。オレ、生理的にダメだった、あの顔」
「確かに、少し前までの海馬くんは怖い顔をしてたよね。纏う空気も僕らとは違ってた」
「ああ」
「……でも、今は違う。眠っているからとか、そういうんじゃなくって……どう言えばいいのか分かんないけど」
「うん、そうだな。お前の言いたい事、なんとなく分かるよ」
「……これが本当の海馬くんなんだね」
「だと、いいけどな」

 人はその時の心が顔に出るって誰かが言っていたけれど、まさにこいつの顔はその心の中を映す鏡のようなものだった。その証拠に、初めて出会った時は心の底から怖気が走るほど気味の悪い顔をしていた。勿論顔自体が今と違うという意味じゃなくて、その雰囲気の事だ。

 元は悪くはないから、クラスメイトの女なんかは奴が転校して来たその日から黄色い声を上げて騒いだりしていたけれど、オレは同じ男としての僻みは抜きにしても、とても「カッコイイ」とは思えなかった。本当に、ただひたすら不気味だと感じていたんだ。

 だけど今、目の前に眠るこいつからはそんな不気味さは感じられない。常に目元と口元に現れていた険が取れて、凄く穏やかな表情をしている。だから『綺麗』に見えるんだろう。遊戯が言いたいのも多分そういう事だ。

 けれどその綺麗さは色の鮮やかな花や美人な女を評するような『綺麗』じゃなくって。他に表現のしようがないから、ただ感覚的に一番近いその言葉を使っているだけな気がする。

 本当に綺麗なものはいつまでも見ていたいと思うけれど、海馬の事をずっと見ていたいとは思わない。今でももう限界だ。

 ……怖い。ただ息をしているだけの人間が、こんなに怖いものだとは思わなかった。

「怖い?城之内くん」
「……え?」
「顔色が真っ青だよ」
「そんな事ねぇよ。なんともない」
「そう。やっぱり君は強いね。……僕はさ、何回見ても最初は怖いんだ。この海馬くんは凄く綺麗で安らかで、見ているだけだとどこも怖い事なんかないんだけど……でも、怖いんだ。僕達を殺そうとしていたあの時よりもずっと。……このまま目を覚まさなかったらどうしようとか、いろいろな事を考えちゃって。結局は僕の所為だから」
「……そんなの、こいつの自業自得だろ。お前が責任を感じる必要はねぇよ」
「でも、こんな事をして良かった訳じゃないでしょ?例えどんな事があったとしても」
「……けどよ!」
「僕、海馬くんが目を覚ましたらちゃんと謝ろうと思う。酷い事してごめんねって」
「何でだよ!?」
「そう思ってないと、やりきれないんだ。ただ待つなんて事……とても出来なくて」
「………………」

 そう言って俯いた遊戯の身体は微かに震えていた。何かを堪えるように握り締められた拳はやけに白くなっていて。

 ……こいつは今まで一人でこの部屋に来て、目の前の綺麗で恐ろしい生き物を眺めながら、ずっと後悔していたんだろうか。自分ではない、もう一人の自分が引き起こした悲劇。オレはこれを悲劇とは言いたくないけど、遊戯にとっては例えようもない程の悲劇なんだろう。

 深く関わっている分、オレよりもずっと怖い思いをしている筈なのに、遊戯はゆっくりと海馬の元へと歩んで行く。震える体で触れられる程近づいて、そこで静かに立ち止まった。

 そして。

 それが当り前の行動であるかのように、すっと手を伸ばしてその頬に触れた。
 何の躊躇もなく。何の、恐れもなく。

「ゆ、遊戯!」
「最初はね、本当に怖かったんだ。見ているだけでも足が竦んで。でも、勇気を出して触ってみたら……当り前の事だけど温かったんだ。今も、凄く温かい」
「………………」
「そうしたら、もう余り怖くなくなった。目が覚めないかもしれないって不安も段々となくなって。だから僕は、ここに来る事も戸惑わなくなったし、モクバくんとも普通に話せるようになったんだ」
「……お前」
「今日は城之内くんも一緒だったから、余計に心強いよ。……付き合ってくれてありがとう」

 そう言って、海馬の頬から手を離さないまま遊戯は笑った。その笑顔はいつものこいつが見せるとても明るい笑顔。そこにはさっきまで見せていた悲壮さは微塵も感じられなかった。

 遊戯の目が真っ直ぐに海馬を見る。その眼差しは、オレ達に向けるものとなんの変わりもない、優しいものだった。

「折角だから、城之内くんも海馬くんに触ってみる?」
「えっ……いいよオレは。なんか怖いっつーか、嫌だし。触りたくねぇ」
「大丈夫だよ。海馬くんね、元気に動いていた時より温かいんだよ。昔は氷の様に冷たい手だったのに」
「……な、なんだよそれ」
「いいからいいから。こっちに来て」

 幾ら嫌だと言って首を振っても遊戯は結構しつこくて、粘り強く名前を呼び付けるもんだから、オレは仕方なく遊戯の隣へと歩いて行って、恐る恐る至近距離から海馬の顔を覗き込む。当たり前だけど近くで見ても海馬の顔はとても綺麗で、やっぱり怖いと思った。

 けれど、ここまで来たらもう逃げる事も出来なくて。

 オレは遊戯の手に連れられるまま、海馬の頬へと指先を触れさせた。瞬間じわりと感じる暖かさに、オレは思わず驚いて声を上げちまった。

 だって、マジで吃驚したんだ。余りにもその頬が熱かったから。

 昔一度だけ触った事があるあいつの身体は、遊戯の言った通りまるで氷のように冷たくて、心の底から性根が腐ってる奴は人間の体温なんて持っている訳がねぇんだと思っていた。けれど、今の海馬はちゃんと熱を持って暖かい。
 

 体温高ぇよお前。気持ち悪い。
 

 思わず口にしてしまったその声に、遊戯の笑みが深くなる。

「ね?あったかいでしょ?」
「……あったかいなんてもんじゃねぇよ。熱い位だ」
「海馬くん、ちゃんと生きてるんだね」
「……そうだな」

 ああ、こいつはきっと人じゃないモノからちゃんとした人間になったんだ。

 今はまだ目を覚まさないから綺麗で怖い生き物だけれど、これが起きて動いて話をしたら……きちんとした人間同士の話が出来るような気がする。
 

 いや。きっと出来ると……そう思った。
 

「目を覚ましたら、城之内くんにも謝って貰わないとね」
「当然。土下座させてやるぜ」
「きっとその内……そんな日が来るよね」
「ああ、来るだろ。絶対」
「……ありがとう、城之内くん。また、一緒にここに来てくれる?」

 オレにはそんな義理なんて一ミリもねぇけど、遊戯がそうして欲しいって言うんなら、考えてやってもいい。たまになら人間になった海馬の顔を見てやるのも悪くねぇし。

 そうオレが少し言い訳がましく口にすると、遊戯はもう一度「ありがとう」と礼を言って、オレに笑いかけてくれた。その笑顔につられて笑いながら、オレは触れたままだった右手を少しだけ強く海馬の頬に押し付けて、その熱い位の体温を掌に覚えさせた。

 それを忘れない内に、またここに来ようと思う。遊戯と二人で、最初は少し怖がりながら。
 そしてこいつが生きている事を確かめるために、指先でしっかりと触れるんだ。
 

 いつかこいつが目を開けて話す人間になる、その日まで。