Act27 「可愛すぎるんだよ、お前は」

「……海馬?お前、こんな所で何やってんの!?」

 オレの第一声が薄暗いマンションの廊下に大きく響いて消えて行く。その言葉にゆっくりと上げられた暗がりの中でも良く分かる白い顔は、拗ねている表情を隠しもせずに立ち尽くすオレを黙ってじっと見つめていた。大分下の位置から、見あげる様に。

 そんな相手の様子に何か只ならないものを感じたオレは、両手に抱えた荷物の重さも忘れて慌ててその場所……自分の部屋の前に駆け寄ると、離れていた時にはよく分からなかったその状態に気付いて思わず目を瞠ってしまった。何故ならオレを恨めしそうに見上げた海馬は全身ずぶ濡れで、髪や顎や膝を抱えている手指の先にまで透明な滴が滲んで流れ落ちていたからだ。更に良く見れば奴が蹲っているその場所には水溜まりが出来ている。

 ちなみに今は雨なんか降っていない。数時間前の真昼間には、確かに春の嵐の様な横殴りの雨が降っていたけれど、オレがバイト先から出る頃には空を真っ黒な雲が覆っていたものの、雨の気配は消えていた。だからこそ寄り道をして帰ろうって気になったんだけど。

 それにしても……こいつどれ位前からここに居たんだよ。来るんなら連絡寄越せばいいのに。大体お前今童実野に居ないって言ってなかったか?だからオレも結構のんびりしちゃってたんだけど。ったく訳分かんねぇ。

 そんな事を考えながら思わず零れ落ちそうになった溜息を喉奥に押し込んで、オレは荷物をその場に置きながらしゃがみ込み、未だ言葉を発さない海馬の頭に手の伸ばして濡れたその髪をかき上げながら「寒かっただろ」と口にした。

 それに海馬は未だ口を尖らせながらやっと「当たり前だ」と返してくれた。触れたその身体は少しじゃなく震えていて、おまけに固まっていた。本当に、何をやっていたんだろう。

「とりあえず家に入れよ。そのまんまじゃ風邪引くし。こんな時間だし泊まってくだろ?」
「………………」
「まただんまりですか。まぁ何でもいいけど、今タオル持って来るからこっち来い」

 固まった海馬を引き延ばす様にゆっくりと腕を引いて立ち上がらせると、オレはジーパンのポケットから鍵を取り出して慌ただしくドアを開けた。そして置き去りにしていた荷物を適当に持って玄関前の床に移動させ、ついでに海馬も玄関の中へと引っ張り込んでドアを閉める。

 海馬が動く度にバシャッと嫌な音がした事から、奴は靴の中までずぶ濡れなんだろう。どうやったらそこまで濡れる事が出来るのか分らねぇけど、とにかく何とかしないとマズイ気がする。……いや、気がするんじゃなくてマズイんだけど。

「えーっとタオルタオル。っつか、乾いてるのあったっけかな」

 一々口に出さないと行動出来ないのはオレの悪い癖だけど、今はそんな事を言ってる場合じゃない。バタバタと部屋中を駆け回り、洗濯して畳んでもいないバスタオルを一枚引っ掴むと、くるりと踵を返して未だ奴が突っ立ったままの玄関へと駆け戻った。

 案の定余りご機嫌の麗しくない顔でドアに寄りかかる様にしてそこに居た海馬にバスタオルを広げて「こっちへ来い」と言ってみる。

「拭く位自分で出来るわ。お節介が」
「だってお前雑なんだもん。廊下濡らされたくないし。今風呂入れて来るからちゃんと水気を拭ったら居間に入ってろよ。あ、ストーブまだ点くからスイッチ入れといて。炬燵も」
「炬燵だと?もう四月だぞ」
「そうだけど、まだ寒いじゃん。現に今日なんて冬並みだっただろ。こんな事もあろうかと思ってしまわなくて良かったー。ラッキーだったな、お前」
「ふん。恩着せがましい事を言うな。どうせ片付けるのが面倒だったのだろうが」
「うるせぇ。……っと、そんな事言ってる場合じゃねぇや、風呂風呂。ここの風呂はさぁ、追い炊き出来ねぇんだけど沸くの早くて助かるんだよなー」
「そんなどうでもいい情報をオレに聞かせて楽しいか?」
「かっわいくねぇ。どうしてそういう口しかきかないかね」
「ふん」

 頭からバスタオルを被ってもそもそと動かしているその様を眺めながら、オレは再びそこから駆け出すと直ぐ傍にあった風呂場に飛び込んで湯沸かしボタンを押す。そして洗濯籠に山盛りになっていた汚れ物を洗濯機の中へと放り込んだ。……が、その瞬間ある事に気付いて、「しまった」と呟いてしまう。

 洗濯機の中にはほぼ満杯にオレの服が詰め込まれていた。よくもまぁこんなに溜め込んだもんだと感心する位の量だ。

 そう言えば洗濯は今夜やる筈だったんだよなぁ。ここんとこずっと雨続きで何だかだるかったから纏めようと思って。しかし困ったな、マジで服がねぇんだけど。や、オレの分はあるにはあるよ、寝る用のジャージがな。でも、海馬に貸す分が全くない。

 ……汚れものの中から引っ張り出して着せたら殴られるしなぁ。うーんどうしよう。

 そんな事を思いながらオレが風呂場から出て来ると、玄関には水溜まりがあるだけで海馬の姿はもう無かった。ぽつんと置いてあるずぶ濡れの靴を逆さにすると、想像通りポタポタと滴が落ちて来る。うわっ、これはこんな所に置いといたら駄目なんじゃねぇ?新聞紙でも引いて居間に置いて乾かすか。そう誰に言うともなく呟いて、濡れた靴ごと居間に戻ると、そこには髪を少し乱した海馬が寒そうにストーブの前に縮こまっていた。

 ……なんつーか異様な光景だな、おい。お前、捨て猫みたいだぞ?

「もうちょっとで風呂沸くからさ。文句言わないで待ってろよ」
「文句など言ってないだろうが」
「そうですかぁ?それにしてはご機嫌斜めみたいですけど」
「………………」
「服、脱いだら洗濯機に放り込んでスイッチ押して。乾燥機ついてっから五時間位で乾くだろ」

 まぁ今が既に九時過ぎですから、真夜中になっちゃうけどね。あっと、着替え着替え。そう言いながらオレは自室に入ってクローゼットの変わりにしている押入れの上段を引っ掻き回し、Tシャツやジーパンの中から服を探す。……ない。やっぱりない。そもそも数を持ってねぇんだからしょうがねぇよな。と、半ば諦めて手を引っ込めようとしたその時、指先に少し厚手の何かが触れた。

 ん?と思って引っこ抜くと、それはちょっと大きめな紺色のパーカーだった。お、これいいな!タオル生地だし肌触りも上々、上に着る為に買った奴だからサイズもデカ目で海馬には丁度いい。まぁ、嫌がる事は確実だけど、マッパやスウェットよりはマシだろ。

 ……ちなみに下は幾ら探しても無かった。新しい下着はあるから中はそれでいいとして、まぁでもなんとかなるよな、多分。

「なぁ海馬、着替えコレしかねぇんだけど、いい?」
「……なんだこれは」
「パーカー。ズボン系はいっくら探しても見つからなかったから諦めて」
「何だと?」
「だぁってお前、タイミングが悪いんだもん。今日洗濯しようと思ってたからさぁ、服がねぇんだよ、全然。どうしても嫌だっつーんならオレのスウェット貸してやるけど。一週間着てる奴」
「……断る」
「んじゃ、決まり。下はまぁ履かなくても部屋あったかくしてやるから問題ねぇよ。風呂沸いたみたいだから入って来な」
「………………」
「あ、オレも一緒に入ろうか?」
「死ね」
「……即答とか酷過ぎる」

 オレの手の中から持って来たパーカーと下着を奪い取って、海馬は怒り肩のまま風呂場へと消えて行く。後に残されたのはきちんと畳まれた使用済みバスタオル。律儀な奴、と喉奥で笑いながら取り上げて、空になった洗濯済籠の中に放り込んだ。
「……携帯を忘れて行っただろう」
「え?」
「炬燵の下に落ちていたぞ」

 そう言って、しっかりと乾かした髪をさらりとかき上げた海馬は憤然とした顔でオレを見上げた。奴が風呂に入ってから一時間後。よっぽど寒い思いをしたのか、殆どのぼせるんじゃねぇかって程長くお湯に浸かっていたコイツは、頬をほんのり赤く染めてパーカー一枚の殺人的な姿で居間へと戻って来た。

 ちょ……これは想像以上だ。エロイとか言う問題じゃない。ヤバい。パーカーの色が濃い所為で余計に白く見える両足が眩し過ぎる……!

 世間一般的、彼女に自分の服を上だけ着せて「これ凄いぶかぶか〜!」なんて言われると物凄く萌えるって聞いた事があるけれど、アレは確かに本当だった。尤も、海馬のコレはあれとは若干シチュエーションが異なるけど、足を丸出しにしてるって所はポイントが高い。目の毒だ。マジで。

 と、オレが突然目の前に現れた奇跡にも等しい現象に感嘆の声を(心の中で)上げていると、不意に海馬が低い声でぽつりと自主的に言葉を発した。今まではオレが話しかけないと全く口を開かなかったからこの展開は大進歩だ。

 風呂で温まって、硬い口も解けたのかな?なんて思いながら風呂上がりにミネラルウォーターでも、と冷蔵庫に向かったオレは、ふと今言われた言葉に足を止めた。あれ、今こいつ何て言った?携帯がどうとか言って無かったか?

「あ?携帯?」
「そうだ。これを見ろ」

 その台詞と共にコトン、とテーブルの上に落とされたのは確かにオレの携帯だった。……ありゃ、なんで携帯がここにあるんだ?いつもジーパンのポケットに入れっぱなにしてあるのに……と無意識にケツに手をやった途端、オレは「あ!」と声を上げた。ペタンとしているそこに携帯なんか影も形もない。

「っかしいなー。朝は入れたと思ったんだけど」
「貴様が本当に朝携帯をそこに入れたのなら繋がるはずだろうが!」
「そ、そうですね」
「オレは何度も連絡も入れたのに!話にならんわッ!」

 あ。あー……なるほど。理解しました。お前が無駄に不機嫌な事も、連絡も無しにここに来た事も、そしてずぶ濡れなままずっと待っていた事も、全部これで納得した。そういう事だったのか。それは怒るわ。うん、怒る。

 それに気付いた瞬間オレは猛烈に反省して、台所から直ぐに海馬の元に取って返してその前に座り込んだ。まだ大分拗ねているその顔に手を伸ばして、宥める様に撫で擦る。風呂上がりの所為か、そこは微かに湿っていて温かかった。さっきは氷みてぇだったもんな。ごめんな。

「……オレが悪かったのか」
「当たり前だ」
「で、でもさ。お前もそれに気付いたんなら帰れば良かったじゃん。寒い思いして待ってる必要なんてどこにも……」
「煩い。貴様が言ったんだろうが」
「え、何を」
「帰って来たら一番に顔を見せろと!だからオレは……!」
「あ」
「あ、ではないっ!」

 そう言えばそうでした。

 ついこの間、海馬が少し長めの出張に出る前、オレは確かにこいつにそう言ったんだ。出張出張でちっとも会う時間がなくって寂し過ぎる。お前本当はオレの事なんかどうでもいいと思ってんじゃねぇの?そうじゃなかったら今度は真っ直ぐオレの所に帰って来いよ、絶対だぞって、何度も念を押したんだ。

 あの時はちょっとした口喧嘩になった所為で、海馬は嫌そうな顔をしてそっぽを向いたまま聞いて無かったみたいだけど、本当はしっかりと聞いて覚えていたんだ。

 だから、こうして。

 ……やべ、なんか、めちゃくちゃ可愛いんですけど!

「ごめん」
「ごめんで済むか馬鹿犬が!やはり貴様の言う事など真に受けるのではなかった!」
「や、オレもまさかお前がちゃんと言う事聞いてくれるとは思ってなくて……」
「そんなにオレは信用ならんか」
「そうじゃないって。そうじゃなくって……あーもう、なんか色々どうでもいいわ。すげー好き」
「………………」
「今日来てくれて良かったー。オレも実は会いたいと思ってたんだよな。んでもお前メール寄越させねぇし、無視するし」
「……連絡をしたのに見もしなかったのはどこのどいつだ」
「それは悪かったって。謝るから」

 謝るから、もう機嫌直せよ。そう言いながら、頬に触れていた手を背中に回してあやすように抱き締めると、海馬は子供がぐずる様な声を出して同じ様に抱きついて来た。……パーカー一枚の姿で。

 これはもう、色々な意味でダイレクトアタックとしか言いようがない。凄すぎる。

 なんか、一気に今日って日がバラ色に思えて来た。少し遅れて帰って来て良かった。雨が降っていて良かった。海馬に貸す着替えがない程、洗濯物を溜めていて良かった。そのどれかが欠けていても、こんなに幸せな瞬間は訪れなかっただろうから。

 オレが素直に謝った事で漸く機嫌を直してくれたらしい海馬は、表情も少し柔らかく甘える様に微笑んだ。

 ……ぶっちゃけとどめだぜそれは。運良く下は丸出しだし、このまま仲直りしましょうか。ゆっくりと、背に回していた右手を下に下ろして剥き出しの白い太股に触れる。それに抵抗する素振りどころか積極的に顎を上げてキスを強請るデレモードに入った海馬に、オレは万感の思いを込めてこう言った。

「可愛すぎるんだよ、お前は」

 その後直ぐに、折角着せた筈のパーカーが放りだされたのは言うまでもない。