Act28 「オレを、お前の最後にしてくんない?」

「……オレはまともに恋愛などした事は無いぞ」
「あ?どういう事?経験なしって事?」
「どの経験だ?」
「えーっと、例えばキスとかセックスとか」
「それはある」
「あるのかよ。じゃー経験あるって事じゃん」
「それとこれとは話が別だろう。『恋愛』はないと言っている。感情面の問題だ」
「感情面〜?」
「察しが悪い男だな。言い方を変えれば好いた惚れたの経験がないと言っている」
「……お前、意外に表現が古いな」
「やかましいわ」
「で、だから何?」
「だから、貴様にそう言われても返事が出来ない、という事だ」
「なんで」
「なんでだと?」
「お前にそういう経験がないのと、オレの告白を断る事にどういう繋がりがあんの?」
「……ないのか?」
「いや、オレが聞いてるんだけど」

 お前ってなんか凄く話をややこしくするよな。もっと単純に言ってくれねぇ?そう言ってガリガリと自分の頭を掻き毟り盛大な溜息を吐いた城之内は、少し離れていた距離を縮める様に音を立てて椅子ごと身体をオレの方に近づけた。
 
 

 放課後の、無人の教室に二人きり。 オレは出席日数の関係で大量のレポートをこなす為に、業務終了後他の学生が下校したこの時間に学校へとやって来た。校舎へ足を踏み入れて早々職員室に出向き、顔もおぼろげになっていた担任から大量のプリントを受け取ると、足早に教室へと向かう。

 時刻はまだ午後四時を少し回った辺りで決して遅くは無かったが、連日の激務で少し疲れていた所為もあって、早めに家に帰りたかった。しかしそんな時に限って自分の思い通りに事は運ばず、教室には先客が存在していた。それだけでも既にうんざりだったが、更に具合の悪い事にその先客はオレにとって余り有益ではない人物だった。

「あれ、海馬じゃん。お前授業にでねーで今来るとか何事だよ。重役出勤にも程あんだろ」

 オレが教室の扉を引き開けた途端、元々集中してる風でもなかった奴……クラスメイトの城之内克也は、ガタリと音を立てて椅子ごとこちらを振り向くと至って普通の顔でさらりとそんな台詞を口にした。何時もならここでオレが一言二言言い返し些細な言い争いに発展するのだが、いかせん今日は疲労度が強く相手をする気力も持ち合わせていなかったので無言のままやり過ごした。

 それに少し不満そうな声が漏れたが城之内の動向など気にしている暇も惜しいのでオレはさっさと席に着き、プリントの束を机の隅に積みあげるとシャープペンを片手に黙々と処理を始めた。静寂が満ちる教室にはオレのペンが立てる微かな音と相手にされず不満をあらわにした城之内が軽い舌打ちをする音だけが響き渡る。

 ペースは至って順調だった。

 百枚超あるプリントを十枚十五分で片付ける。このペースだと午後七時迄には家に帰れそうだ。最近モクバと殆ど顔を合わせていなかったから夕食を共に出来ると言ったら喜ぶだろう。そんな事を思いながら特に頭を使う事無く次々と空欄を埋めて行く。

 遠くから呻き声の様なものが聞こえた気がしたが、勿論気になどならなかった。この空間にはオレ一人だと思い込んで手を進める。無駄な来客も小煩い電話も鳴らない部屋は頗る快適だ。いつもこうだったら楽なのに。そんな埒もない事を考えつつ二十一枚目のプリントを手に取った、その時だった。

 ガタリ、と再び椅子が床を擦る音が二回聞こえた。しかも後の方は大分近間で聞こえた為、思わず顔を上げてしまう。なんだ?と口が言葉を発する前に、左側からオレを呼ぶ声が響いた。「なー海馬ぁ」。妙に間延びしたその一声は意外にも低く、しっかりと耳に届く。思わず反射的に顔をそちらの方へ向けると、いつの間にか隣の席に城之内が座っていた。

 道具一式と共に移動をして来たのか、つい数分前まで何もなかった机上にはプリントや筆記用具の類が散乱している。その上にだらしなく肘をつき、全くやる気のない様相でこちらを見ている城之内はオレが無反応な事に僅かに苛立ちを見せながらも、もう一度同じ言葉を口にする。

「なぁってば。人が話しかけてんだから返事しろよ」
「貴様と話す暇などない、邪魔をするな。何をやらされているのかは知らないが絶対に手伝わんぞ」
「即拒否かよ。ほんっとお前ってムカつく奴だよな」
「分かっているなら口を閉じろ。構って来るな」
「…………っかー!酷ぇ言い草!最悪だな!」
「ふん」

 オレが貴様にこんな態度を取るのは今に始まった事じゃないだろうが。今更何を言っているんだ阿呆め。大体オレは んな所で犬とじゃれて時間を潰してはいられないのだ。勉強とはリズムだからな。それを崩されると調子が狂う。まぁ馬鹿にそんな事を言っても理解される訳がないから無言を貫き、目の前の問題に集中する。

 キーボードをタイピングするのと同じ位筆記速度も早ければ楽なのだが……と隣の城之内の事など直ぐに忘れて古典の訳文を書き連ねていると、奴も諦めて目の前のプリントに取り掛かった様だった。

 再び「あー」とか「うー」とか耳障りな呻き声が聞こえて来る。こいつは……高校生にもなって黙って物事に集中する事も出来ないのだろうか。本当にどうしようもない馬鹿犬だ。そう思い、「少し静かにしろ!」と一喝してやろうと口を開きかけたその刹那、オレが声を出すより先に奴が訳の分からない事を口にした。

 本当に、唐突に。
 まるで世間話をするかの様な間の抜けた調子のまま。

「オレさぁ、お前の事が好きなんだけど。付き合ってくれねぇ?」
「は?」
「いや、は?じゃなくってさ。告白してんだぜオレは」
「誰に」
「お前に!」
「誰が」
「オレが!何脳をフリーズさせてんだよ、ちゃんと聞けよ」

 当然の事ながら、言われた瞬間は意味など分からなかった。その言葉はオレにとって余りにも予想外過ぎたからだ。何処をどう間違えたら日頃は何癖しか付けて来ない相手に向かって好きだなどと口に出来るのだろう。しかも男が男にだ。意味が分からない。頭がおかしい。

 そんな心の内が素直に顔に出たのだろう。成り行き上見つめ合う事となった琥珀色の瞳には至極妙な表情をしたオレの顔がはっきりと映り込んでいた。けれど城之内はその顔に付いて取り立てて何か言う事もなく、真面目な顔でオレを見る。

 ……なんだ、その顔は。貴様まさか本気なのか。声に出してそう揶揄してやろうと思ったが、奴の表情を見れば本気だと言う事が嫌でも分かる。机上についた肘を心持オレの方へと動かして、身を乗り出す様な形になった城之内は、それに合わせて少しだけ身を引いたオレの瞳をじっと見つめながら、再び同じ言葉を繰り返した。

「お前が好きだ」

 だから、このプリント、手伝ってくれねぇ?そんな風に茶化した言葉が後に続くのをオレは密かに待っていたが、幸か不幸かその台詞はそこで途切れてしまった。 妙な沈黙と共に。
 

 

 『好きだ』『愛してる』 こんな言葉は今まで数え切れない程言われて来た。その言葉の裏には必ず『だから、抱いてもいいだろう?』という声無き台詞が付加されていて、その事を熟知しながらオレは曖昧に頷いて相手の意に従うのが常だった。物心が付く前から繰り返されたそれは、利益を得る為の手段の一つで有り、時には気晴らしの遊戯でもあった。

 特に楽しいとは思わなかったが、決して嫌ではなかった。そもそも快楽を嫌がる人間は余りいない。それが一般的な常識とは大分かけ離れた認識である事も知っていたが、元々非常識な世界で生きて来たし、これからも生きて行く。故に、困る事など微塵もない。ない、筈だった。

 しかし、その世界から一歩抜け出て外からそこを覗き込めば異様さは隠しようもなく、特に目の前でこちらを見つめる一般人の代表格の様なこの男を前にすると、その違和感は拭えなくなる。「好きだ」という台詞をこれほど真剣に、そして真っ直ぐにぶつけてくるその一点だけをとっても途方もない差異を感じた。

 それは、そんなに真面目な顔をして言う台詞では無いし、キスやセックスに感情は必須ではない。オレはそういう世界で生きて来た。だから、咄嗟に「恋愛」という二文字を口にした。オレには一生縁のないそれを、無意識に。オレと貴様はクラスメイトとして肩を並べてはいるが、全く違う世界にいるのだとそう思いながら。
 

 

「貴様らの常識では貞操観念が物を言うのだろう?処女だの童貞だの浮気だの、面倒な単語を良く聞くからな」
「いきなり何の話をしてんだよお前は。普通の告白がなんでそうなるんだっつってんの。オレがお前に好きだって言った事と、それがどう関係あるんだよ」
「オレにも良く分からんが、身綺麗な方がいいのかと思ってな」
「身綺麗?」
「オレに貞操観念というものは無いに等しい。今まで何人の人間と寝たか分からんような奴は問題外だろう?」
「あ、やっぱりお前男大丈夫なのか。ラッキー。駄目って言われたらどうしようかと思った」
「……人の話を聞いているのか?しかもやっぱりだと?」
「オレもさぁ、男を好きになるのなんて初めてだから、自分がなんか変になったのかと思ったんだけど、そうでもない事が分かってほっとしたわ。オレの他にもそういう奴が居て良かったぜ」
「そこなのか」
「うん」
「……違うだろう」
「何が」
「いや、だから……」
「あー、お前が今まで色んな奴とヤッて来たって話?やっぱ男でも綺麗な奴ってモテるんだなぁ。羨ましいっていうか、なんていうか、フクザツだよなそういうの。ちなみに女とは経験あんの?」
「それは一応……じゃない!だからオレが問題にしているのはそこでは無い!」
「オレも別に問題にはしてねーけど。過去なんてどーでもいいじゃん、基本的に」
「何?」
「だって、それ言われたらオレだってもう相手の名前とか顔とか思いだせない程ヤッてるぜ。中坊ん時百人斬り出来るかどうかダチと競ってよ、片っ端からさぁ。若いってスゲーよな!」
「…………………」
「って、そんな馬鹿な話はいいんだけど。とにかく、お前が言いたい事はよっく分かった。それに関してはお互い様って事で問題ない。うん」

 大体今時高校二年でセックス経験無しなんてのなかなかいねーよ。絶滅危惧種だろそりゃ。ま、お前がそうだったらそれはそれですげー面白かったけど、そこはちょっと残念かなぁ。

 そう言ってやけに楽しそうに笑う城之内の顔をオレはただ呆然と見遣るしかなかった。こいつはオレとは違う世界の人間で一般庶民では無かったのか。なのに何故重要である筈の『それ』を笑い飛ばせるのか。こいつが特殊なのだろうか、それともオレの一般の認識が間違っていたのだろうか。よく分からない。頭が痛い。

 いつの間にか額に手を添えて俯く形となってしまったオレをどう見たのか、城之内は椅子ごと近づけた身体をもっと近づけて、オレの膝に自分の膝を触れ合わせた。そしてオレの伏せた目を覗き込む様に上体を少し倒して顔を寄せる。

「まー細かい理屈は抜きにしてさ、単純に行こうぜ。もう一回言うけどオレ、お前が好きなんだ。今まで好きになった奴って結構一杯いるんだけど、今度は結構マジな気がする」
「………………」
「どん位マジかって言うと、普通なら好きだとかなんだとか言う前に相手押し倒してやれ、とか最低な事考えるんだけど。そういう事したくねぇなって思う位。更に言えばお前にも好きになって貰いたいなー相思相愛って奴だ」
「……なんだそれは」
「オレも人の事言えないから、お前の過去の事もなんも言わないし興味もない。どうでもいい。けどさ」
「けど、なんだ」
「オレを、お前の最後にしてくんない?オレもお前を最後にするから。……そういう恋がしたいんだ、お前と」
「……恋」
「そう、恋。なんか言葉にすると恥ずかしいけど、ワクワクするだろ、そういうの」

 いつの間にか馴れ馴れしく肩に回された手がぎゅ、とその場所を強く掴む。弾んだ言葉とは裏腹に、オレを見あげる琥珀はやはり酷く真剣だった。真摯な……という単語はこう言う時に使うのか、と思うほど。真っ直ぐで、強くて、熱い……気がした。

「そういう訳だから、考えてくれよな。返事とか何時でもいいし」

 ほんの少しの間の後、そう言ってあっさりと離れ行くその手を捕まえて、オレは自分でも驚くほど素早くそして迷い一切見せずに、奴の最後の言葉に肯定的な返事を口にしていた。「まぁいいだろう」とか「好きにしろ」とか、常に使い古したそんな投げやりな台詞ではなく、奴に引き摺られる様にやけに真面目で、真摯な言葉で。

「努力はしよう。オレも貴様が好きになりたい」
「マジで?!大丈夫、その辺は保障すっから」
「凄い自信だな」
「自信がなきゃ恋なんてしねーよ」
「そうか」
「ああ」
「……貴様、自分の口にした事は死守するんだぞ」
「最後ってヤツ?」
「勿論だ」
「それこそ大丈夫だろ。だってさ、オレ……実は決めてたんだ。次の告白で最後にしようって」

 それに選ばれたのは光栄なのか否かその時のオレには分からなかったが、多分不名誉な事ではなかったのだろう。後にささやかながらに持続された幸せの日々の中で、この瞬間を振り返りながらオレはそう思うのだ。

 さぁ、恋を始めよう。身も心も蕩ける様な、本気の恋を。

 目の前で笑う、素直で明るい琥珀と共に。