Act5 「あと……5分だけ」

「海馬の嘘吐き!今日は死んでも時間空けるって言ったじゃん!オレものすっっごく楽しみにしてたのに!!」
「だから、その時間は無理だと言ってるだろうが!急な面談が入ったのだ!聞き分けろ!!というか死んでもなんて言ってないわ!」
「嫌だ!絶対聞き分けない!!」
「ガキか貴様!」
「ガキで結構!約束はガキでも守るだろ?!それもできねーお前はガキ以下だっつーの!!」
「何だと?!」
「何だよ?!」
「………………」

 部屋中に響き渡る声で喧々囂々と交わされるかなりレベルの低い会話に、その間に挟まれるようにして立っていたモクバは半ば呆れた溜息を一つ吐いた。ちなみにここは海馬邸の居間ではなく海馬コーポレーション最上階にある社長室である。

 その如何にも長の部屋らしい広くて重厚な空間の中央で、顔を突き合わせて喚き合っているのは部屋の持ち主である海馬瀬人とその恋人城之内克也で、片方は最高級のビジネススーツを身に纏い、もう片方はTシャツにジーンズと言ったかなり奇妙な取り合わせだ。

 否、元々日曜なのに瀬人がこの場にいる事自体が問題なのだが、基本は年中無休の社長業故にこんな事は日常茶飯事だ。しかし今日は少し事情が違っていて、瀬人はかなり前から克也と「この日は何があっても町内で行われる花火大会を見に行く」と堅く約束していたのだ。

 その約束をした当初のスケジュールでは、彼等は花火大会が始まる午後7時より数時間早く電車で現地へと赴き、花火が打ち上げられる前に催される夏祭りを楽しんだ後、KCも少なからず出資しているお陰で専用に設けられている特別席で花火を観覧する予定だった。

 ……が、現在の時刻は午後6時過ぎ。とっくに出発していなければならない時刻にも関わらず、彼等はまだ会場から遥か遠いこの場所から動けずにいるのだ。それは、一重に『仕事優先』の瀬人の所為だったのだが。
 

『午後8時より大事な取引先との面談が入ったから今日はいけなくなった』
 

 克也の携帯にそんな事務的と言えるメールが飛び込んできたのは今日の午後3時過ぎの事だった。丁度その頃早朝バイトを終えて意気揚々と海馬邸にやって来ていた克也は、出迎えたモクバと一緒にこれからの予定を確認していた所だった。そんな時に舞い込んできた信じられない一言に顔色を変えた克也は、宥めようとするモクバを小脇に抱えてKCへと乗り込んで来たのだ。

 それからも休日だというのに研究所だ資料室だとこまめに社内を移動していた瀬人を捕まえるまで一苦労し、漸く顔を突き合わせたのは諦めて社長室で待機し始めてから約30分後の事だった。
 

 そして、現在に至る。
 

「あ、あのさ、二人共……花火大会は今日だけじゃないんだし、また別の日に行けばいいじゃん。ね、兄サマ。次は絶対に仕事入れないって約束してあげて?」

 顔を突き合わせたまま罵詈雑言合戦を繰り広げていた彼等が一息ついたのを見計らって、殆ど被害者と化していたモクバは、さりげなく二人の間に身を滑り込ませると瀬人の足下にひしと抱きついてそう言った。ちなみにこの行動はわざとである。

 しかし、そんなモクバの懐柔作戦も怒りの克也の前では全く無意味だった。

「そういう問題じゃねぇよモクバ!オレは『今日』行きたいって言ってんだ!お前だって楽しみにしてただろ?!」
「……そ、そりゃそうだけど。けど、しょうがないじゃん」
「しょうがなくねぇ!!」
「貴様いい加減にしろ!!」
「うるせぇ!約束破り!!」
「もー聞き分けないなぁ。無理だって。大体この時間じゃ会場に辿り着けないぜぃ。あそこ片田舎だから電車の本数は少ないし、道路大渋滞だっていうし。空路は無理だし。仮に行ったとしたって、兄サマが社に8時まで戻らなきゃならないんじゃ、どの道即帰社だし」
「…………ううう」
「だからさ、諦めろよ。オレは潔く諦めるぜぃ」
「ほらみろ。モクバの方が聞き分けがいいじゃないか」
「お前は黙ってな!むかつくから!」
「何?!」
「もー!やめてよ!!とにかく、どっちにしても無理だから。喧嘩しないで!!」

 二人ともほんとに子供なんだからッ!

 そう子供のモクバに叫ばれてバツの悪い表情で勢い良く顔を背け合った二人は、そのままむっとした顔で黙り込んでしまう。その様子をちらちらと眺めながら、どちらの気持ちもよく分かるモクバはかなり微妙になってしまった空気をどうしようかと考えた。

 こういう些細な事が原因の方が諍いが長引く事を知っているからこそ、なんとかこの時点で食い止めなければいけない。けれど、どうすれば。

 うーん、と小さく唸りながらモクバは視線を窓へと向けて、煌き始めたイルミネーションを何とはなしに眺めてみる。すると不意にある事を思い出した。
 

『会社の屋上が穴場なんですよ、モクバ様。これだけ高い建物は他にございませんから』
 

「あー!そっか!」
「な、何だ?」
「うぉっ?!なんだよモクバ、びっくりさせんな!」
「わざわざ花火を見に会場まで行く必要無いよ!ここに絶好のスポットがあるんだぜぃ!」
「ここに?」
「どこに?」
「兄サマのこの部屋じゃ反対方向だから見えないけど、屋上なら遠くの花火だってバッチリ見えるって河田が言ってた!」
「KCの屋上かー。なーる!あそこなら丸見えだろーな、確かに」
「ね?人混みに行かなくっていいし、最高だろ?お腹がすいたのなら何か適当なもんオーダーしてやるよ。飲み物も!」
「お前がそこまで言うんならそれで我慢してやってもいいぜ。それと、海馬くんが『お願い』してくれるなら」
「……調子に乗るなよ凡骨!!」
「あ?約束破っといて何か文句があるんですか?」
「しつこいぞ貴様!」
「いーからお願いって言ってみろよ。そしたら妥協してやるって言ってるんだからさ」
「ぐ……っ!」

 ……結局、この件に関しては多少有利な立場に立っていた克也の望みが優先され、殆ど歯ぎしりをしながら『お願い』をした瀬人の一言で、事無きを得たのである。
 

 

「うわースッゲー!良く見えるー!!あれなんて言うんだっけ?」
「花火に名前なんてあるのかよ。ナイアガラしか知らねぇ。仕かけ花火じゃねぇ?凄いな!」
「ふん、あんなもの。オレの方が完璧なブルーアイズを打ち上げて見せるわ」
「……花火までブルーアイズかよ。海馬ランドで打ちあげるのか?」
「検討中だ」
「夏限定とかもいいよなーお土産に欲しいかもKC花火セット。あ、今度お前ん家の庭で花火しようぜ。浴衣着てさ」
「あ、それいいぜぃ、城之内!オレ、打ち上げ花火やってみたいんだ!」
「おう。いっぱい買って来ような!」

 雲一つない真っ黒な大空に咲く大輪の花。瞬く星すらも霞ませる様な鮮やかな閃光は楽しそうに空を見あげる三人の顔を色取り取りに染めあげる。距離は少し遠かったけれど、十分に迫力のある光景だった。

 傍らには豪奢な御馳走。そして隣には、大好きな人。頬を撫でて行く心地のいい涼しい夜風も相まって、克也にとっては最高の時間だった。……少し、予定は狂ったけれど。

「そろそろ時間だ」
「えー!!もう?!まだ時間あるじゃん!!」
「先方が予定時刻よりも少し早めに到着したというのでな」

 キラキラと輝く光の粒子が闇に吸い込まれる様を眺めながら、傍らで携帯を開いていた瀬人がぽつりとそう呟いた。それに至極不満そうな表情を見せた克也は、咄嗟に立ちあがろうとした瀬人の腕を捕らえ、ぎゅ、と強く掴み締める。

「待たせとけよ」
「そうはいかない。すぐ……」
「あと……5分だけ。それ位の我が儘聞いてくれたっていいだろ?」

 先程地団太を踏みながら駄々を捏ねていた時とはまるで違う、少しだけ大人びた表情と生真面目な声が瀬人を揺さぶる。立ち上がりかけた足を、引き留める。

 ドン!と大きな音がする。かなり大きな打ち上げ花火が、空に咲く。

 七色に輝く目の前の顔を見返して、瀬人は手にした携帯をポケットに入れてしまうと、肩を竦めながらこう言った。

「5分、だけだぞ」
「うん」
「ちゃんと手を離せよ」
「うん。キスしてくれたら」
「何処に?」
「決まってるだろ」

 その言葉が終わる前に、克也の声は柔らかな感触と共に喉奥へと飲みこまれた。
 

「たーまやー!だぜぃ!」
 

 直ぐ傍で空の花に釘づけになっているモクバの声が風に流れて掠れて消えても、二人はずっとそのまま離れる事はなかった。