Act8 「さっきの奴、誰?」

「瀬人!!」

 雑踏の中でそう突然叫ばれた声に、隣の身体が特に警戒もなく振り向いて視線を巡らす。人で溢れる平日の夕方の繁華街で、珍しく放課後まで学校にいた海馬と二人、普通の学生らしく寄り道をしながら徒歩で帰宅している最中の出来事だった。

 現役高校生社長海馬瀬人と言えば童実野町のみならず、日本中……否、世界にも通用する程の有名人だ。

 既にトレードマークになっているデュエルディスクと、独特のデザインが目を引く白いロングコートを着用していなくとも、その端正な顔立ちは自然と人の目を引くらしく、こうして同じ学生服に身を包んで声を潜めて話をしていても、声をかけられる事は少なくなかった。

 だが、名字で呼ばれる事はあっても下の名前を呼ばれる事は殆ど無く、だからこそ普段はこうした場面に遭遇しても無反応を貫き通す海馬も思わず視線を巡らせてしまったのだろう。

 その一部始終をすぐ隣で見ていた城之内は、立ち止まって辺りを見回している海馬の手を引いて、「気の所為じゃねぇ?」と先に進む事を促した。

 しかし、それは『気の所為』では無かったらしく、再び海馬の名を呼ぶ声が、今度は至近距離から聞こえて来た。一体何だと城之内が声をあげる前に、海馬はついにその声の正体を突き止め、その方向を見て目を瞠った。そして、まるで応えるように城之内が全く聞き覚えのない名前を口にした。

 つられてその方向を眺めると、少し離れた場所に他校の制服を着た見慣れない男の姿がある。背格好から同学年だろうと直ぐに分かったが、今まで社会人以外で海馬の知り合いだと言う人間を見た事がなかったから、城之内は酷く不審に思い隣の海馬を凝視した。

 そして何か言おうと口を開きかけたその時、海馬がやや性急にこちらを振り向き、どことなく遠慮がちにこう尋ねて来る。
 

「少しいいか?」
「はい?」
「5分だけだ」
「え?あ、ちょっと!」
「そこで待て」
「オレは犬じゃねぇっての!おいっ!海馬っ!」

 突然の申し出にいいも悪いも言えないまま、さっさと手を離されてしまった城之内は早足で人波をかき分けて件の男の元へ行く海馬の背中をただ見つめる他無かった。そしてその状態のまま男と瀬人が親し気に言葉を交わし、ついには軽く抱き合う様子まで通行人に小突かれながら眺めていた。その様はまるで捨てられた子犬そのものだ。
 

 ちょっと!そいつ誰なんだよ!!
 

 普段なら海馬に誰が声をかけようが、海馬が城之内を置き去りにする事もなかったし、城之内の前で親しげな様子を見せる事も無かった。

 目の前で交わされる言葉は相手が仕事関係の人間という事もあるのだろうが事務的な事ばかりで、極たまに相手が年配の人間でその年特有の行き過ぎた言動があれば即座に城之内が割って入り、諌める事さえ気軽に出来た。

 けれど今は、海馬自身が城之内から距離を取り、知らない男といかにも仲良さそうに話をしている。その雰囲気は酷く柔らかで、ともすれば城之内でさえついぞ見た事のないような暖かな表情をしている。

 更に言えばそれが悔しいからと言って邪魔出来るような状態でもなかった。これだけ人が溢れているのにまるで彼等の場所だけ違う空間に存在するのではないかと言うほど、やけに穏やかで親密な空気を守っている。

 ヤバイ、もしかしてオレ完全に忘れられてる?折角の放課後デートをほっぽり出されてあいつに取られたらどうしよう。

 まだ海馬が離れてから10分も経たない内に、そんな思いに捉われて絶望し始めた城之内だったが、その数秒後件の二人が同時にこちらを見てにこやかに笑っている様子を見てしまい、ますますその思いは強くなる。

 くそ、あいつら何でオレを見て笑ってんだ。意味分かんねぇ。馬鹿にしてんじゃないだろうな。

 そう内心苦々しく吐き捨てて城之内は深い溜息を一つ吐くと、もう嫌だと顔を俯けて一人で先に行ってしまおうかと思い始めたその時だった。ぽん、と後頭部の辺りに軽い衝撃が走り、目の前に見慣れた制服が映り込む。慌てて顔をあげると、そこには先程と同じ表情の海馬が立っていた。彼が話をしていた男の姿はもう見えない。
 

「何を俯いている」
「……あれ?お前、帰って来ちゃったの?」
「?帰って来てはいけなかったのか?」
「や、そうじゃねぇけど。……つーか、さっきの奴、誰?」
「は?今のか?古い友人だが」
「友人の割にやけに仲良さそうだったじゃねぇか。『瀬人』なんて呼ばれちゃってさ。抱き合ったりして。大体お前、オレにだって名前呼びさせてくれた事ねぇじゃん」
「何を拗ねている」
「別に拗ねてねぇけど。あんまり楽しそうだったからオレこのまま置いてかれると思った」
「意味がわからん。何故そうなる」
「だって……」
「貴様は何を勘違いしているのか知らないが、先程の男はオレが今の苗字になる前の知り合いだぞ?孤児院に居た時のな」
「へ?」
「オレよりも早く引き取り先が決まって別れて以来、初めて会ったのだ。互いに苗字が変わっているからな。名前で呼び合うしかないだろう?」
「………………」
「近況を少し話して……まぁオレの事は大体知れていたが、貴様の事も聞かれたから恋人だと答えておいた。そうでなければ場所を移動して話さないかと言われたのでな」
「へっ?!」
「それだけだ。あと質問は?」
「……え、あの……えっと。もういいです」

 口元に笑みさえ浮かべながらこの短時間に起きた出来事全てを淀み無く話して来た海馬は、最後に城之内の目を見て「他に言いたい事はないのか」と訊ねた後、首を横に振った城之内に軽く頷くと、「では行くぞ」と手を差し出す。その指先をしっかりと握り締めて、城之内はすっかり元に戻った気分に後押しされるように軽い足取りで一歩先に踏み出した。

 辺りは大分暗くなり、華やかな街の明かりが夕闇を賑やかに照らし出す。

「そういう間柄ならあれか、幼馴染か」
「そうなのか?」
「うん。普通はそう言うぜ。オレにもそんな奴いたよ。もうどこ行ったか分かんねぇけど」
「そうか」
「でもお前、そんなぶっちゃけた話そいつにしちゃっていいの?ヤバくない?」
「別に。何か不味い事でもあるのか?」
「や、オレは不味くないんだけど……」
「ならいいだろう、事実だし」
「……うん、事実だな」
「何をニヤニヤしている」
「するだろ普通。嬉しいし」
「先程まで拗ねていた癖にな」
「うるせぇ」

 そう言えば昔、あいつともこうして手を繋いで歩いた事があったな。

 緩やかに歩みを進めながら海馬が最後にぽつりとそう呟いても、城之内は「そうなんだ」と笑顔のまま頷いて、繋いだ指先を強く握り締めるだけだった。

「お前にもそういう奴いたんだな」
「失礼な事を言うな」
「ちなみにあいつ何て名前?」
「貴様には関係ない」
「あ、やっぱり怪しいな。何々もしかして初恋の相手とか」
「何故初恋までもが男でなければならないのだ!」
「あはは、そこまではないか」
「実際好きだったけどな」
「嘘っ?!」
「『お友達』としてな」
「お前〜!!……でもいーよな、だってあいつお前の子供時代も知ってるって事だもんな」
「それ以外は何もかも知っているだろうが」
 

 まぁそりゃそうだけど。オレもちっさいお前と手を繋ぎたかったなー。
 

 至極残念そうにそう言いながらわざとらしく「あーあ」と言う城之内に、海馬は「贅沢言うな」と笑いながらその頬にキスを落とした。
 

 過ぎゆく時間と人混みも酷くなる。けれど彼等は互いに幸せな気分だった。