Act7 オレにだけ見せる頼りない背中
「違う!そうではない!何度言ったら分かるのだ貴様っ!オレは同じ事は二度は言わんと言ってるだろうが!」
「は?今野の指示だと?聞いた覚えはないわ!当人をここに引きずって来い!アメリカにいようがイギリスにいようが関係ない、速攻だ!」
「煩い!聞く耳持たんわ。いいからさっさと行動に移れ!結果は即報告だ!分かったな!」
ガチャッ!バンッ!と派手な音がして叩き付けられた受話器が電話の上で一回弾んで、電話ごと床にひっくり返る。それを肩で息をしながら睨みつけていた海馬は、それでも落ちたそれに手を伸ばそうともせずに、どっかりと椅子の上に腰を下して空を睨んだ。
もう夜に近い、夕方の社長室。奴が電話を始めたのが暗くなる前だったのか、それとも照明ボタン一つ押すのが面倒など疲弊しているのかは知らないけど、その部屋の中は薄暗かった。唯一の明かりは海馬の目の前にある大きな液晶ディスプレイが発する光だけだ。
その背後には近年大分賑やかになった童実野町のまばゆい程の夜景が広がっていたけれど、当然奴の目には入らない。
そろそろクリスマスも近くなって町のあちこちでは色とりどりのイルミネーションやクリスマスツリーやリースと言ったお馴染みの装飾が散りばめられ、歩いてるだけで凄く楽しい気分になってくる。勿論その雰囲気を一人じゃなくって二人で味わいたいなぁ、なんて思って再三海馬を誘ってはみるんだけど、職業柄今は一番忙しい時期だから、言った所で聞く耳すら持ってくれない。
ま、それは仕方がない事だから多少は我慢出来るけど、目の前のこの状況には段々我慢できなくなって来た。だってすげーよこれ、もう殆ど壮絶って感じだね。
眉間の皺は普段の三割増しで、出す声は殆どが怒鳴り声。ピリピリした空気は社長室の外まで漏れ出るのか、最近では本当に差し迫った用がない限りモクバ以外誰も出入りしないらしい。オレだってなんかちょっと扉開けるの躊躇った位だから相当だ。どんだけ不穏なオーラ出してんだよ、お前は本当に人間か。
けど、オレが問題にしているのはそんな体面的な事じゃなくって、当のご本人の事だ。こっちこそ、本当の意味で大変だ。元からガリで件のコート無しでは見られないような細っこい身体はここ最近の激務で一段とやせ細り、元からオーダーメイドじゃなきゃ合わないスーツやシャツがビシッと決まらない状況だ。まだ会ってから触らせて貰ってないから良く分かんねぇけど、これは酷い事になってそうだ。
身体がそんな状況だから顔なんかモロに影響が出ていて、普段は消えたり出来たりしている眼の下の隈は、今じゃー色素が沈着してんじゃねぇかってほどはっきりとそこに滲んでいて、少し伸びた前髪がそこに更に影を作るもんだからお化けみたいだ。この場合元がいいから余計目立つんだよな。それに加えて顔色も白い通り越して青いからすっごいし。
こんなんでよくぶっ倒れずに生きてるなこいつ。まさに気力だけって感じだね。これはモクバがオレにチクリメール入れるのも分かるなー。こんなんじゃ正月、生ける屍だろ。あ、だから今年も正月の初詣とか無しとか行って来たのか。
あん時はオレも生活苦しかったから、丁度いいやって年末年始バイト入れまくって海馬の事は二の次になってたから知らなかったけど、前回もこの調子だったとすれば事切れてたかもしんない。いや、絶対にそうだ。だってメールが返ってくる回数超増えてたし(奴が療養期間に入ると暇なのかよくメールを寄こしてくる)なんでかなーと思ってたけど、こう言う訳ね。納得納得。
しっかし、今さえ生き抜けば後は死んでもいいとか嘘だろ。クリスマスだぜ?正月だぜ?一年で一番楽しいイベント時期に仕事と生ける屍って悲しくねぇ?何より身体に悪いっつーの。本人もそれをよーく分かっているのか、いつもよりも態度のデカさが5割増しだ。
派手に騒いでオーバーアクションしてれば、それに誤魔化されて状態の悪さが見えないからわざとあーやってるんだよな。奴の部下なんかはそれを真面目に取ってマジビビリしてるけど、オレはそれが良く分かってるからもうちょっとやそっとの事じゃビビらない。むしろ海馬が大騒ぎすればするほど冷静に観察しちまう癖がついた。うん、現在がまさにその状態ってとこかな。
最近は海馬の方もそれに気づいたのか、オレの前では取り繕うのは止めてしまった。いっくら騒いだって威嚇されたってオレは全然痛くも痒くも無いし、それどころかむしろ逆に説教を食らっちまうから凄く嫌なんだろう(尤も、騒いでなくても説教はするけれど)だからさっきあれほど大きな怒鳴り声を上げていたのに今は静かだ。肩まで落とすほどの盛大な溜息を吐いて、額を抑えてる。
でも、オレはまだ声をかけない。タイミングを間違えると再び暴れ出すからな、こいつ。それを高確率で避ける事が出来る様になったのも身を持って頭に叩き込んだ数々の学習の賜物だ。
机の上で黙っている海馬に特に声はかけないで、けれどオレはそっとソファーから立ち上がり二三歩歩くと、さっき海馬が乱暴な動作で床にひっくり返した電話を拾って元の位置に戻してやる。受話器の背についてしまった微かな埃を指先で払うと、またソファーへと逆戻りした。海馬は何も言わない。言わないけれど、ちらりとオレの方に視線を寄こしてゆっくりと身を起こす。
キシ、と小さな音がしてその身体は立ち上がり、くるりとオレに背を向けた。イルミネーションが煌めく窓の明かりがそれを見下ろすように立ち尽くす海馬の姿を淡く照らす。逆光の所為でそれは一つのシルエットだ。偉く細長い、一人の男のシルエット。
それを目を細めつつ眺めながら、オレはそろそろかな、と思って腰を上げた。海馬がオレに背を向けるのは一種の意志表示だ。意志が強い鋭い眼差しも、次から次へと耳に痛い様な言葉を吐き出す唇も当然ながらその後ろには見当たらない。
そこにあるのは、本来の海馬が持つ、痩せた頼りない背中だけだ。守る物も何もない一番無防備な後ろ姿。これを見れるのは、弟のモクバを抜きにすれば世界でたった一人、オレだけだったりするんだけど。
そんな貴重な姿を丸ごと抱き締めてやれるのも、世界でたった一つの……オレだけの特権だ。
「な、海馬。今日はもうやめにして、家に帰ろうぜ。モクバも待ってるし」
オレはワザとゆっくり海馬の元へと歩いて行き、お望み通り後ろからしっかりと抱き締めて、髪の間から見える冷たい耳元にこの部屋に入って初めての言葉を囁いてやった。すると少しだけ強張った肩から、ふ、と息を吐く様に力が抜けて行く。けれどまだ返事は聞こえてこない。
でもいいんだ。後少し待てば肩の力どころか全身の力を抜いてオレに寄りかかって来る事を知っているから。
手に触れた布越しの身体はやっぱり少し骨っぽさがましていて、なんだか胸に痛かった。
「お疲れさん」
オレの言葉に、この腕に、どれだけの力があるのか分らないけど。
撥ね退けられないという事は、それなりに効果はあるんだと思う。
それが、ちょっとだけ……いや、凄くオレには嬉しくてたまらないんだ。