Act3 磯野のこわいもの

「磯野、行くぞ!磯野!?」
「兄サマ、磯野、学校行ってきまーす!」
「ああ、気を付けてな。……って磯野は何処だッ!」
「こ、ここにおります瀬人様!」
「何をやっている!早く行くぞ!」
「は、はいッ!あ、で、でも少し待って頂けますか?」
「なんだ!急いでいるのだから早くしろ!とりあえずこちらに来い!」
「………………」
「ったくなんなのだ一体!いそ……!!」

 とある平日の、慌しい朝の事だった。その日は前日の残務処理の為、いつもよりも大分早い時間に自宅を出ようと、瀬人は焦っていた。

 それでなくても学校との両立で時間がない状況で、立て続けに起こってしまった多方面のトラブルに、精神的にもかなり余裕がなく苛立っていた。だからつい口調も勢いもきつめになってしまったのだが、常ならば瀬人が余裕を持っていても機敏に行動する磯野が、今日に限って未だその場を動かずにぐずぐずしていた。それにいい加減業を煮やした瀬人が、怒りも露につい先程までモクバが立っていた場所に立ち尽くしていた彼に近づいた。

 その瞬間、瀬人の目がとあるものとバッチリ合ってしまったのだ。

 にゃあ。

 既に聞き慣れ過ぎて最近は気にもしなくなったセトの声が一つ上がり、磯野の肩口から顔を覗かせていたのだ。

「……何故、そこにいる?」
「モ、モクバ様が私の背中にくっつけていきまして……」
「そいつを引き剥がして早く来い!」
「そ、それが……」
「なんだ!」
「私、猫が触れないんですぅっ!」
「はぁ?!」
「小動物が苦手なんです!た、助けて下さい瀬人様ッ!」
「………………」

 言いながらよじ登ってくるセトから全力で逃げようと、顔を思い切り背けつつ冷や汗ダラダラな磯野は今にも泣きそうな声で瀬人に助けを求める。その姿を心底呆れ果てて眺めていた瀬人は、急いでいる事も忘れて深い深い溜息を一つ吐いた。

「……猫が苦手、だと?」
「……はい、そうです。……ってうわっ!舐めっ……ぎゃー!」
「……お前の掌の方が大きいだろうが。爪で掻いたり噛みつく位で、特に何もせんぞ」
「で、でも駄目なんです。このッ、なんていうか生暖かい感触というかっ!ひっ!!」
「そいつはお前の事を気に入ってるみたいだが」
「勘弁して下さい!!」
「というか、瀬人様瀬人様言うからお前に寄ってくるんだろうが」
「えぇ?!どうしてですか?!」
「……そいつの名前も『セト』だからな」
「ちょ、そんなっ!名前を変えて下さいぃ!」
「モクバに言え」

 顔に似合わず何を言っているのだ貴様は。そう溜息と共に吐き出しながら、瀬人は磯野へと近づき手を差し伸べると、ぶっきらぼうな声で「来い」と言った。するとセトは直ぐ様磯野の首元から差し出された瀬人の掌へと飛び移り、喉を鳴らしながらよじ登ろうとする。が、それは寸での所で添えられたもう一方の手と共に握り込まれて叶わなかった。

 にゃあ、と甘えた声が二人の間で小さく響く。

「た、助かりました。ありがとうございます」
「……これの何処が怖いんだ」
「見かけじゃないんですよ!」
「……なんでもいいが、行くぞ。今日はスケジュールが押してるんだ」
「は、はい。申し訳ありませんでした」
「ではこいつを置いて……ッ!!」

 磯野のその声に、瀬人がセトを手放そうとしたその時だった。緩められた掌の力を敏感に察知し、一瞬の隙をみて瀬人の手から逃げ出したセトは素早い動きで腕をよじ登り、しっかりと瀬人の肩口にしがみついた。ガリ、という聞き慣れた嫌な音がして、スーツの襟に爪が立てられる。次いでチカッとした痛みが走り、片足が瀬人の首筋を掠めて更に上に行こうとする。

「っ!このっ!貴様と遊んでいる暇は無いッ!」
「……よほど上が好きなんでしょうね。さすが『セト』様……」
「何か言ったか」
「いえ、なんでも」
「いたッ、っく!頭に上るなっ。磯野なんとかしろ!」
「だから私は触れませんッ!……あ、瀬人様。もう8時半ですが」
「何?!っ午前中には確か会議が入っていたな?!くそ、間に合わない。もういい、行くぞ磯野!」
「えっ、その頭でですか?!っていうか猫と一緒に?!」
「やかましい!車内でなんとかする!いいから急げ!!」

 瀬人が悪戦苦闘すればするほど、遊んでもらっていると勘違いしているセトは余計に彼にじゃれついて前足に髪を絡める始末だ。瀬人は腕時計を一瞥すると大きく舌打ちをしつつ、本当にそのままで外に待機している車へと歩き出した。

「瀬人様!」

 磯野の叫び声も虚しく、瀬人はぎょっとする運転手の反応すら無視をして無言のまま車に乗り込んでしまう。

 セトだけが嬉しそうに大きくにゃあと鳴いてその声に応えていた。
「……で、そのままで一日過ごしてたの?兄サマ」
「…………ああ」
「ほっぺたに引っ掻き傷がついてるけど。なんか浮気して修羅場になった後みたいだよ」
「……妙な例えをするな。いいからこれを取ってくれ」
「じゃあこっち来てソファーに座って。こらセト!お前いっくら兄サマが好きだからって頭に居座ることないだろ、もうっ!」
「元々はお前が磯野の背中に置いて行ったのが悪いんだろうが。ったくどいつもこいつも強面な顔をして猫ごとき怖いとはどういう事だ。全員減給してやる」
「ああいう奴等だからこそ逆に可愛いものが怖いんじゃないかなぁ」
「どうしてだ」
「どうしてってオレに聞かれても困るけどさ」
 

 そんな会話を交わしつつ、モクバが部屋に入室した時から変わらない不機嫌顔をした瀬人は、モクバの手招きに応じて社長椅子を離れ、応接用のソファーの上に腰を下ろす。キシリと高級な皮ソファーが軋みを上げ、半ばぐったりとした様子で身を凭れさせた兄の元へ歩んでいったモクバは靴を脱いでその上に上がってしまうと、ほぼ一日中我が物顔で彼の頭部に陣取っていた飼い猫にそっと手を延ばした。

 離れたくないのかにゃあにゃあと鳴く声を無視して、セトの足の爪に完全に絡まってしまった細い髪の毛を苦心して解き、「痛い」と文句を言う兄の声に「ごめん」と言いながらそっとその身体を持ちあげる。程なくして、無事モクバの手の中に納まったセトは何の悪気もないと言った顔で瀬人を見つめて鼻を鳴らした。

 それにはぁと大きな溜息を吐き、「駄目だろ」と優しく白い頭を叩くと、モクバは既に疲労困憊の瀬人に寄り添う形で座り込み、セトを手放す。途端にやはり瀬人の膝へと移っていくその姿を苦笑と共に眺めながら、彼はもう一度肩を落として嘆息した。

「どうでもいいんだけどさ……兄サマとセトの事、社内で凄い噂になってたぜぃ。隠し撮りとかされてたし。社員の全員の携帯の画像フォルダ、調べてみれば?」
「何ッ?!」
「当たり前でしょ。普通頭に猫くっつけて会議する?」
「し、仕方ないだろう。時間がなかったし、それに……」
「誰も取ってくれなかったって?それは皆兄サマのその姿が余りにも可愛いからそのままにしたかったんだと思うよ、きっと。オレもちょっと勿体ないな、って思ったもん」
「……くそっ、どいつもこいつもっ」
「なかなか良く撮れてるのもあったから、今度販促用のポスターにでも使おうか?駄目?」
「駄目に決まってるだろう!何の販促に使うんだ!」
「これを機にペット用おもちゃとかの方面に参入するとかさ。今ペット業界って凄いんだよ。人間よりもお金使うから凄くいい収入源になると思うけど」
「結構だ。そんなつもりはない」
「もー半分は自業自得なんだから機嫌直してよ兄サマ」

 なー?セト?と相変わらず瀬人の膝の上でお腹丸出しでじゃれている愛猫に話しかけると、彼はにゃあと鳴いて瀬人を見あげる。その様を遥か上から見下ろして、瀬人は額に手を当てるとやはり深い深い溜息を吐いた。

 数時間前の会議室の、あの妙な空気は多分一生忘れないだろう。

 自分でもかなりマズイとは思ったが頭上の猫を理由に日にちを遅らせる事が出来ない大事な会議をふいにする事は出来なかったし、かといって強引にセトを引き剥がして痛い思いをするのも、彼の足に絡まった己の髪を引っこ抜いて若いみそらで頭に10円ハゲを作るのもどちらもかなり遠慮したかった。

 だから仕方なく……本当に仕方なく、そのまま会議へと挑んでしまったのだ。
 

(……社長の頭の上にいるあの猫はなんだ……?)
(今回の会議の趣向か?)
(今度の新商品のイメージキャラじゃないのか?)
(それにしても可愛いなぁ、おい)
 

 その場に居並んだ重役達の間からそんな声が密かに聞こえてきて、その度に「違うわッ馬鹿者っ!」と心の中で絶叫していたものの、ここで自ら経緯を暴露するのもなんだか間抜けな気がして、瀬人は頭上のセトに対しては徹底無視を決め込み、何時もの通り淡々と会議を進行していったのだが、その間にも頭上に集中する視線や、時折上げられる鳴き声に室内がまったりと和む様にイライラは募る一方だった。

 結局最重要項目だけの協議となりやりたい事の半分もやれないまま、5時間予定の会議は2時間で切り上げられ瀬人を大いに落胆させる事になるのだが、それに浸る間もなく社内を歩けば頭上に妙な視線を集め、予め予定されていた取引先との面会を断らざるを得ない状況に歯噛みし、すべてが上手く行かなかったその鬱憤に翻弄されて彼の一日は暮れていったのである。

 そのトドメとばかりにセトに耳に噛み付かれ、頬を掻かれてしまい、瀬人は磯野に「なんでもいいからとにかくモクバを連れて来てくれ」と頼んだのだ。結果、学校から直接KCへとやって来たモクバに漸く救われる事になったのである。けれど、その落ち込みは計り知れない。

 すっかり項垂れて黙り込んでしまった兄の姿を間近でみたモクバは、当初堪えていた笑いや呆れやその他諸々の感情を全て胸中に仕舞いこみ、彼の膝の上にいるセトを再び手中に収めると再度膝立ちをして目線をあわせるようにその顔を覗きこんだ。

「ごめんね兄サマ。オレが悪かったよ。……ごめんなさい」

 勿論モクバはこんな事になるとは想像もしなかったし、磯野が猫を苦手としていることも知らなかった。全てはほんの軽い悪戯心だったのだが、それでも兄を落ち込ませてしまったのは事実だ。そう思いながらモクバはずい、とセトの顔をも彼に近づけ、「お前も謝れよ」と口にする。

 それに応えたのか否か、些か控えめな声でにゃあ、と鳴いたセトに、漸く全てに諦めがついたのか瀬人はのろのろと顔を上げて「もういい」と口にした。ついで微かな笑みが口元に浮かぶ。

「それにしても一日兄サマの頭の上にいられるってのも凄いよなぁ。やっぱりコイツ『セト』だけあるよ」
「……だからそれはどういう意味だ。磯野も同じ事を言ってたが」
「分からないんならわからなくていいんじゃないかな。城之内あたりに聞いてみれば?きっと教えてくれると思うぜぃ」
「?……そうか」
「あ、そういえば。この顔の傷、ちゃんとしないと痕になっちゃうね」
「……ああ、だがそんなに深いものではないから大丈夫だろう。血もうっすら滲んだ程度で……」
「じゃ、舐めとけば治るかな?」
「は?」

 言うが早いが、モクバは少しだけ身を乗り出して、なんの躊躇もなくぺろりと兄の頬についた傷を舐め上げた。同時に偶然同じ位近づいた彼の手の中のセトもちゅ、と瀬人の鼻にキスをする。思わぬ同時攻撃に心底驚いた瀬人は、妙な声を上げて思い切り後ずさった。
 

『もー可愛くって、食べちゃいたいくらい』
 

 過去に聞いた、聞き捨てならないモクバの台詞がこんな時に鮮やかに甦る。
 そう、瀬人は完全に忘れていたのだ。
 モクバがどういう経緯でこの白猫に「セト」と名付けていたのかを。
 

「モクバッ!」
「あーなんで逃げるんだよー。セトの真似しただけじゃん。ねー?」
「ねー?ではないっ!人の顔を舐めるなっ!」
「兄サマだってオレが指切った時に舐めてくれたりしたよ?」
「何年前の話だ?!」
「もーそんなに吃驚しないでよ。でも痛くなくなったでしょ?」
「も、元から痛くなどないわ!」
「それならよかった。じゃあさ、今日はもう会社にいても仕事になんないし、一緒に帰ろう?久しぶりに夕御飯ゆっくり食べようぜぃ」
「………………」

 ね?と可愛らしく小首を傾げる弟と、その声に賛同するような鳴き声に、すっかり憔悴しきった瀬人が勝てるはずもなく。結局はそのままモクバの思い通りの時間を過ごす事になるのである。
 

 その夜。なんだかんだと言い訳をして瀬人の部屋に泊まりこむ事になった一人と一匹の寝顔を見下ろしながら、瀬人は苦悩しながら恋人である城之内へとメールを打った。

 しかし結局本題には入れずに、それはただのオヤスミメールとなったのである。