カツヤ

 ペタリと手の甲に湿った冷たい感触が触れる。無意識に手で触れると、さわさわとした少し堅い毛の感触。こんな所まで奴にそっくりだ。視線を読んでいた雑誌から反らさずにそう思いつつ気の向くままに撫でていると、ペロリと暖かな舌で舐められた。そして軽い甘噛み一つ。

 こら、と小さく声をあげると、くぅ、と鳴いて噛んだ場所を再び舐めた。そこで初めて瀬人は視線を下に落とし、己の手にじゃれついている茶色い物体……雑種の柴犬を眺めやった。直ぐに視線がかち合い、これでもかと尻尾を振る様子に知らず口元が緩んでしまう。

「カツヤ」

 余り呼びたくない名なので、多少声色がぶっきらぼうになるが、それでも構わず柴犬……『カツヤ』はその呼び声に元気よく応えた。そして直ぐに許しを得たかの様に瀬人に擦り寄り、くんくんと甘えた声を出しながらちょこんと膝の上に乗って見上げて来る。

 彼……『カツヤ』はオスなのだが……の意思表示の一つであるその仕種に、瀬人は雑誌を手にしたまま少々呆れて様子を見ていたが、やがて小さな溜息を一つ吐くと、隣の空間に雑誌を置いて徐に手を伸ばす。すると彼は即座に目を輝かせて、瀬人の手が触れる前に眼前の身体によじ登り、ひょいと背を伸ばして瀬人の唇を舐め上げた。唇だけではなく、顔中を。

「待てカツヤ!やめ……っ!」

 ペロペロとまるで大好物の餌に向かうが如く瀬人の顔を舐め回していた『カツヤ』だったが、瀬人が嫌がれば嫌がるほどじゃれついてくる。いい加減口の周りがべたついて来て力づくで引き剥がそうとしたその時、視界の端に何時の間にか、面白そうにその光景を眺めている男の姿が映り込んだ。

 無造作に伸ばして染めたぼさぼさの金髪に(本人曰くそれがファッションの一部らしい)着古してヴィンテージ物とも言えなくない様相のジーンズの上下を来た男は、関係上瀬人の恋人であり、この『カツヤ』を海馬邸に持ち込んだ張本人である、城之内克也である。

 瀬人が一瞬抗議するような視線を向けると、克也はへらりと笑って「バイト帰りで泊まりに来ました」とさも当然の様にのたまって、少し大きめのスポーツバッグを掲げて見せた。そしてのんびりとした歩調で歩いて来て、にやけた顔のまま口を開く。

「まーた『カツヤ』に襲われてるんですか?瀬人くん」
「!!凡骨、貴様何時ここに……!」
「うん?ついさっきだけど。お前がカツヤとじゃれてるから邪魔しちゃ悪いかなーって思って見てました」
「く、下らん事を言ってないでこいつを何とかしろ!……ひっ!」
「お前が好きでしょーがないんだろ。好かれて良かったですねー。でもさすがに妬けちゃうから引き離しちゃう。ほい。……うわーお前べったべた」
「貴様と一緒で加減を知らんのだこの犬はッ!」
「つか、お前限定じゃね?ほら、オレには淡白なもんだぜ」

 「な?」と克也が抱えた『カツヤ』に問いかけると、同意する様にワンと鳴いた。 そして良く似通った琥珀色の瞳が四つ、瀬人を見る。そのまま、克也は『カツヤ』が舐めた瀬人の顔を「綺麗にしてやる」という名目で同じ様に舐めてやった。

 ただしそれは「じゃれついた」訳ではなく「キス」だったので、特に唇部分を念入りに舐めて吸って、舌まで入れて軽く絡めた。いい加減しつこくて、瀬人が途切れ途切れに「やめろ」と声をあげるまで、克也も『カツヤ』と同様、止めようとはしなかった。

「貴様等は本当に似たもの同士だな!」

 結局ベタつきが無くなるどころか余計に酷くなり、口の端から零れてしまった唾液で服まで汚してしまった瀬人は、怒りを露にしながら犬のものだか人間のものだか分からないベタベタを拭う為に浴室へと消えて行き、濡れタオルで綺麗に拭って戻って来た。それに残念そうな一人と一匹の声が聞こえる。

「なんで拭くんだよー舐めて綺麗にしてやったろ?」
「余計に酷くなったわ馬鹿が!貴様は犬以下だな!」
「犬以下とか言うなよ。しっかし予想外の懐かれ方だなぁ。オレ嫉妬で死にそう」
「では死ねばいい。犬に本気になるな」
「酷い。『カツヤ』には絶対死ねとか言わないくせに」
「貴様がコレをここに持ち込んだんだろうが。自分で寄越した癖に訳の分からない事を言うな」
「そーだけどー。……まぁいいや。こいつはさすがにセックスはしないしな。オレ、お前の顔以外も舐めれるし?」
「……だから犬相手に品性の欠片もない事を言って威張るな」
「でもアニマルセラピー大成功じゃん。お前、けっこういい顔になったぜ」
「オレは元からいい顔だ」
「うわ、お前の性格にナルシストまで加わったら悲惨だから自重しとけ」
「煩い。文句を言うなら帰れ」
「うそうそ。仲良くしましょ。よし、カツヤ!海馬と三人で風呂でも入るか!」
「誰が犬や貴様と風呂に入るか!!」
「オレもかよ!」
「当たり前だ!」

 『カツヤ』を挟んでそんな言い争いをしている二人の声に、まるで仲裁に入るかの様に「ワン!」と甲高い声が上がった。思わずそこを見てしまった二人の視線が『カツヤ』越しにぴたりと重なる。そして、何時の間にか唇まで重なった。

 その二つの唇を舐める、柔らかな犬の舌。

「こいつ、変な犬だよな」
「貴様が拾って来たからだろう」
「でも、可愛いだろ?」
「あぁ、馬鹿犬ほど可愛いと言うしな」
「それ、どういう意味?」
「そのままだが」
「あっそ。じゃーオレの事も可愛いんだ?」
「貴様は犬じゃないから例外だ」
「ひでぇ。愛がない」
「元から愛などない」
「そーですか」

 でも、これからエッチはするわけですね?

 そう囁いた克也の言葉に、瀬人の口から特に異論は飛び出しては来なかった。
 

 
 

『誕生日おめでとう海馬。これ、オレからのプレゼント!』
『その小汚い犬を何処から拾って来た貴様』
『うん?オレの家の前の公園。何かオレに似ててすげー可愛いから、絶対にお前にやろう!って思って。名前は「カツヤ」でいいよ』
『いらない』
『そう言わないで。お前最近顔が怖いから、癒しが必要だと思ってさ。マジなプレゼントだから受け取って。オレも最近バイトで忙しくてあんま会いに来れないし、丁度いいだろ?』
『………………』
『絶対好きになるって!な?』
 

 そんな経緯を経て、海馬邸にやって来た捨て犬『カツヤ』。

 抱き締めるとふわりと太陽の匂いがするその暖かな温もりは、確かに瀬人の癒しになった。その名を呼ぶ度に、名付け親の憎らしい程の笑顔を思い出して、凄くうんざりはするけれど……。

 今日もまた膝の上でスキンシップをねだる琥珀色の瞳に、瀬人は口元に小さな笑みを刷いて緩やかに手を伸ばすのだ。
 

 唇に、鬱陶しい程のキスをしてくる、同名の男の顔を思い浮かべながら。