Pat a child on the head

「こんばんは海馬くん。うわー噂通りのすっごい顔。お前どーしたのそれ」
「煩い、貴様何故ここにいる。オレは貴様に帰国予定など知らせていなかった筈だが」
「そりゃお前、愛の力って奴で。お前の事ならなーんでも分かるんです、オレ」
「ふざけるな。とっとと帰れ」
「そんなにべもなく追い返す真似しないの。わざわざバイト休んで来てやったんだぜ」
「知るか。というか本気で煩い。邪魔をするな犬!」
「だってオレ、お前の邪魔しに来たんだもん」
「何だと」
「休憩しよーぜ海馬。ほら、お前の大好きなハンバーガー買って来てやったし」
「いらん。帰れ」
「帰らねぇし。じゃ、これ、ここ置いとくから。オレは先に食っちまうからな」
「邪魔だと言っている!」
「怒鳴ったって怖くないし。じゃ、いっただっきまーす」

 そう言って、オレは声からして十分怒り狂っているだろう目の前の海馬をまるっと無視して、持ち込んだハンバーガーセットの包みを開けて、がぶりと一口齧りついた。ここから直ぐ近くにあるショップで来る途中に買って来たものだから、まだ十分に暖かくて柔らかい。

 お前も今食べると最高に美味しいのに。そう笑顔で言っても、海馬は怖い顔をますます強張らせるばかりで一向にオレの提案を受け入れる気配はなかった。

 しっかしお前マジなんだよその顔。オレの苦手なホラー映画に出てくる超怖い悪役よりもよっぽど凄まじいぞそれ。子供に夢を売るアミューズメント企業の社長さんがそんなんでいいのかね。その姿でテレビに出てみろよ。一気にお茶の間のお子ちゃま方号泣だぜ。海馬ショック!とか言われてニュースになったりして。

 ああ、やっぱり聞いていた通り、限界なんだろうなぁ。多分これ、普通の人間なら完全にダウンレベルだろ。普段から体力っつーより気力で生きてるような奴だから、こうして気を張ってないと一気にいっちまうんだろうな。つか、ちょっとでも休めば違うのに。

 あーでもこいつ、理由があっても休まない奴だからな。ほんと、面倒だよな。
 

『兄サマがもう限界でさ、持って後1,2日ってとこなんだ。もうオレの言う事も全然聞かないし。完全にレッドゾーンだよ』
『噂には聞いてたけど、そんなに大変なのかよ、KCは』
『うん。まぁ、それなりに。でも今までに比べたら損失自体は大した事ないんだけど、このご時勢じゃん?』
『お前の口からご時勢とか言われたかねぇ。でも確かになー世の中不況って言うし』
『今回の事で兄サマもあっちこっちから責められたりしてさ。社長だからしょうがないとは思うんだけど……大変だなぁって。幾ら兄サマだってまだ大人じゃないんだし。辛いじゃん、そういうの』
『うん』
『だから、お前になんとかして貰おうと思って。明日、一緒に日本に帰るからさ』
『オレ?』
『うん。だって後お前しかいないし。お前相手だと兄サマもいつまでも意地張っていられないだろうしさ。それに心がギスギスしてる時はアニマルセラピーがいいって言うし』
『ちょ、アニマルセラピーって犬とか猫とかの話じゃねぇか』
『変わんないじゃん。お前、どーせ犬扱いだろ』
『お前までオレの事犬っていうな』
『とにかく、家に来てくれよ。明日だけでもいいから、兄サマに休んで欲しいんだ』
『仕方ねぇなぁもう。分かったよ』
『夕食はお前の好きなもの用意してやるからさ』
『まるっきり餌付けじゃねぇか』
『喜ぶ癖に』
『まーね』
 

 モクバからそんな電話を貰ったのは、丁度昨日の今頃だった。海馬がアメリカに出張だとか言って、行く日をオレに断りもしないであっちにいっちまってから丁度2週間。その間にテレビや新聞ではKCを始めとした大企業のトラブルや、関連会社の倒産縮小なんかが大々的に取り沙汰されて、多分海馬はその処理の為にあっちに行ったんだろうなーって事はこのオレにもおぼろげには分かっていた。

 そういう時、海馬は絶対に口を開かなくなる。メールも電話も全部無視する。それは多分オレに余計な心配をさせないようにっていう奴なりの気遣いなんだろうけど、奴の会社が会社なだけにその状況は筒抜けで、だからと言ってこっちからそんな話をしようもんなら逆切れされて最後には喧嘩になってしまう。

 ただでさえ大変な時に更にオレと喧嘩なんかして余計に疲れさせても悪いと思うから、最近はオレも学習して、そういう時はこっちもわざと接触をしないようにしている。そして本当にヤバくなった時だけモクバに連絡を入れて貰う様にした。その方がちゃんとしたタイミングで海馬に会いに行けるし。

 そういう事情があったから、こうして今回モクバから電話が来たって事は、海馬の状態もそれなりにヤバいって事で。だからオレは滅多な事では休まないバイトも休んで意気揚々と海馬邸にやって来たわけだ。

 そしたら案の定、こういう状態になってたっつー訳で。
 

 今も相変わらずオレを睨みつけている海馬は、最後に会った時よりも一回り位顔が小さくなった気がする。身体はもう言わずもがな。元々ひょろ長くってスーツや制服なんか着るとお前中身どこに入ってんだ、と言いたくなる位の体形だから、今なんか服を脱いだらかなり悲惨な状況なんだろう。

 普段健康そのものの時だって大してモノを食わないのに、悩み事なんか出来た日にはそれこそ人間としての生理現象さえ疎かにしてしまうんだから恐ろしいもので、この調子だと多分食べる事は勿論寝る事も殆どしてないんだろう。

 や、お前それ死ぬって。冗談抜きで。

 そんな誰が見たって分かる状態を唯一分かっていない本人は、何時の間にかオレを睨む事をやめて、そ知らぬ振りでキーボードを叩き始める。今度は完全無視の作戦で来ましたか。相変わらずワンパターンな事で。お前に無視されるのなんて今更だから、オレにとっては全く持って無駄な抵抗なんだけどな。

 つか、いつもよりも大分タイピングが遅いし、それにすげぇイライラしてる。ほらほら、無理して何かやろうとしたって結局効率が悪くなるだけだし、イラつくだけ損だと思うんだけどな。大体、お前一人が頑張ったってどうにかなるわけないじゃん?相手は世界経済だし。景気はKC一つで廻ってるもんじゃないしさ。そんな事、お前が一番良く分かってる筈なのに、どうして止まる事が出来ないんだろう。

「なぁ、海馬。お前、どうしてそんなに頑張るの?今お前だけが頑張ったってどうしようもないんだろ?」
「煩い、黙れ」
「今不況なのって何もお前の所為じゃないし。……確かに、こう景気が悪いとオレらみたいな貧乏人は困るけどさ。でもニュースでも言ってたぞ、今は時期だからしょーがないって。だから、そういう時にじたばたしたって何にもならないんだって」
「貴様に何が分かる。この間のテストでインフレとデフレを逆に回答した癖に」
「ちょ、オレの経済知識の事はどうでもいいだろ!つか、オレが言いたいのは……あーもう、社会情勢がどうのとか、そういう話じゃなくって!お前の事!」
「オレの事?」
「そう!そんなに怖い顔になるほど頑張るなっつってんだよ!とにかく、休め、食え、寝ろ!そしてオレと遊べ!」
「全部却下だ。貴様犬の分際でこのオレに命令するとは片腹痛いわ!」
「命令じゃなくってオレが勝手に吼えてるだけです。何が悪いんだよ」
「なら黙れ!」
「黙れ、なんて言って犬が黙ると思う?」
「やかましいわ!」
「ったく、諦めの悪いご主人様だなぁもう!はいもうそこから退く!退かないならオレが強制的に退かしてやる」
「やめろ馬鹿。こっちに来るな!」
「あ、オレ犬なんで人間様の言葉が分かりませーん」

 オレはわざとそう言って、海馬が大嫌いな『裏が多分にあるにっこり笑い』をしてみせると、さっさとソファーから立ち上がって海馬の所まで歩いていき、まだしつこく作業を続けようとするその手を体ごとがっちり押さえ込んだ。

 勿論思い切り抵抗されたけれど、くたびれ果てた体と元気一杯のオレじゃー力の差は火を見るよりも明らかで、海馬は敢え無くオレの手によって机から引き剥がされて、そのままソファーまでお持ち帰りされてしまう。

 こうなってしまうと、海馬もそれ以上の反発は気力体力の無駄だって知ってるから、ある程度大人しくなる。けれどその顔はオレの出過ぎた真似に対する不満で一杯で、けれどそれさえも慣れ過ぎて何とも思わないオレは、悔しそうなその顔を見つめながら海馬の分として買って来たハンバーガーセットの入った包みをぽんとその膝の上に投げてやった。放り出さないように、直ぐに手を添えて。

「まず食べて、ゆっくり寝て。そうすればイライラなんてしなくなるからさ。いいアイディアも沸くかもよ?」
「……だが!」
「今も言ったけど、お前一人がどんなに一生懸命になったって、どうにもならない事は沢山あるんです。いい加減に諦めて、オレの言う事聞け、な?……モクバだって、凄く心配してるんだぜ。小学生の弟に心配させるとかどんだけだよ」
「……しかしっ」
「だがもしかしもないの。お前、今自分が何歳か分かってる?お前の周りにいるオッサンの半分も行ってないんだぜ。そんなガキが大人に混じって必死になったってたかが知れたもんだっつーの」

 そう。海馬は、オレ達は、まだ学生の肩書きを持つAVも見れない未成年で。本来ならまだまだ親の脛をかじりまくってお気楽な日々を送る子供の筈で。そんな今にも死にそうな姿で、鬼みたいな顔をして必死に世界の流れを変えようと努力する必要なんてない。

 けれどお前は、その歳で社長なんて肩書きを自分の意思で掴み取って、その肩書きがある限りはプラスもマイナスも全部引き受けなくてはならなくて。そういう時ばかり周囲の大人は年齢を持ち出して、まだ若いからとか、経験が足りないからとか、好き放題言って責めるんだ。

 人一倍負けず嫌いでプライドの高いお前だから、多分それが悔しくて躍起になってるとは思うんだけど。でも、それでもやっぱり……事はそう簡単じゃないから上手くなんかいかなくて。

「………………」

 海馬の手が、ぎゅっと強く握り締められる。同時にきつく閉じてしまった唇にも結構な力が入っていて、今にも切れてしまいそうだ。それは、海馬が物凄く悔しい時に見せる仕草そのもので、多分それが向けられている先は目の前にいるオレなんかじゃなくって、もっとスケールのデカイ、オレなんかが到底想像出来ないモノなんだろう。
 

 こんなに頑張っているのに。
 

 海馬は決してそんな言葉は口にしないけど、隣に座るその姿からはそんな声が聞こえてくる。
 うん、お前はすっごく頑張ってるよ。でも、誰もそれを分かってくれないんだよな。お前自身も良く言うもんな、結果が全てだって。

 けど、オレはそうじゃないと思う。結果も確かに大事だけれど、それよりももっと大事なのは、取り組む姿勢だってオレは思うよ。オレのバイト先の店長だってそう言ってたし。

 そんな事をふと思い出した瞬間、オレは無意識に……本当に無意識に隣の海馬に手を伸ばして、いつも勝手に触る頬や肩じゃなくって、その頭を……まるで大人が小さい子供にするように、丁寧に優しく撫でてやった。俗に言う『なでなで』って奴だ。

 人一倍頑張ってるお前にあれこれ言うと怒るから、オレは態度でその頑張りを認めた上で、偉いぞって褒めてやろうと思ったんだ。
 

「おい、何をやっている」
「うん?いい子いい子」
「いい子いい子?」
「そ、一生懸命頑張ってるいい子の海馬くんにご褒美です」
「貴様、馬鹿にしているのか?」
「いんや?至って真面目だけど」
「………………」
「ある程度デカくなっても、頭撫でられるって嬉しいもんだろ?オレは嬉しいけど」
「それは貴様が犬だからだろう」
「犬でも人間でも、褒められれば嬉しいんですー」
 

 案の定、直ぐに嫌そうな顔で海馬から文句が出たけれど、オレはやっぱり無視をして手を動かすのをやめなかった。嫌なら避ければいいのに、それもしないから案外海馬も心地よく思ってるのかもしれない。

 誰だって頭撫でられて嫌な奴なんていないもんな。犬だっていい事すればご主人様に撫でて貰えるんだから、たまにはその逆をしてやったっていいじゃないか。お前はきっと犬の分際で、なんて思うんだろうけどその犬を好き好んで恋人にしているのはお前だから。

 撫でられるのが不満なら舐めてやろうか?まぁどっちでもきっと嫌がるんだろうけど。

 手に馴染んで来たさらりとした髪が心地いい頭を、ゆるゆると何度も何度も撫でてやる。言葉で言えない分、この仕草でオレの気持ちが伝わる様に。

 この先、世界中の誰もがお前を責めるような事になっても、オレだけはこうして隣に座って、「大丈夫、頑張れ。お前は偉い」って言ってやれるんだって。
 

 犬の忠誠心をなめるなよ、ご主人様。
 

「……もういい。わかった。手を離せ」
「お、じゃあ、オレの言う事、聞いてくれる気になった?」
「貴様の言う事など聞く気はないが、尻尾を振って遊んで欲しいと擦りよってくる飼い犬を無下にする事は出来ないからな」
「あ、そ。まーなんでもいいけど、じゃ、今日はオレとお休みコースな。一緒にメシ食ってー風呂入ってーゆっくり寝よう」
「誰が犬と風呂に入るか」
「またまたー結構好きな癖に。寝る時は子守唄歌ってあげるから」
「貴様の下手くそな歌では安眠妨害にしかならんわ」
「ひでぇ。これでも音楽だけは5なのに!」
「音楽『だけ』はな」
「……厭味ったらしい」

 そんな些細な軽口を交わしている間も、オレはやっぱり手を止めずに、ずっと海馬の頭を撫で続けた。最後には撫でるだけじゃなくって、キスやハグまで追加したんだけど、特に文句は出なかった。いつの間にかオレを見てくるその顔は、さっきの鬼みたいな顔じゃなくって、何時もの無表情だけどそれでいて誰が見ても美人って言えるような、オレが大好きな海馬の顔に戻っていた。
 

 アニマルセラピー大成功じゃん。オレは犬じゃねぇけどさ。
 

 最後にぎゅっと強く目の前の身体を抱き締めて、オレはもう一度だけ形だけは大きい、けれど中身は結構子供っぽい、人一倍頑張り屋の恋人の頭を、優しく優しく撫でてやった。