相合傘

 吐き出す息が白くくゆり、藍色の柄を持つ指先がカタカタと震えた。雪のように白いとよく称されるそれは、今は寒さにほんのりと赤く染まり、悴んで形を変える事すら出来ない。今日の気温を読み誤って羽織って来た薄いベージュのコートは、雨は少し弾いてくれるが寒さからは守ってくれない。

 冷たくて、寒い。

 普段ならば特にどうとも思わないその感覚が、今は酷く残酷なものに思えた。ともすればこの場で立ち止まり、崩折れてしまいそうになる。身体が震える。膝が笑う。しっかりと握りしめている筈の大きな傘を叩く雨粒の音が煩くて頭が痛くなる。

 もうすでに記憶の奥底で暗い色で塗りつぶされようとしている遠いあの日も、未だ鮮やかに色を残すそんなに過去ではないあの日も、確かこんな風に冷たい雨が降っていた。

 冬も終わり、早い所では桜が咲き始めるこの季節に突然訪れる寒い雨の日。その中に傘も差さずに薄着で立ち尽くし、茫然と目の前の光景を眺めている瞬間が、瀬人には幾つかあった。その頬には確かに涙が伝い、唇からは震える嗚咽が漏れていた筈なのに、それらは全て雨水と雨音に紛れ、掻き消された。
 

 後に残るのは深い絶望と悲しみ、そして虚しさ、怒り。

 どうして、と呟く言葉に答える者は誰もいなかった。
 

 

『瀬人。母様に最後のお別れをしなさい。もう、二度と会えないからね』
『母様、綺麗だね』
『ああ、綺麗だ。生きていれば、もっと綺麗だったのにね』
『どうして僕達を置いて行ってしまったの?』
『どうしてだろう?叶うなら、父様も一緒に行きたかったよ』
『え』
『でも、私にはお前とモクバがいる。母様にお願いされたからね。だから、ここでお別れだ』
『……父様は、僕達を置いていかないよね?』
『いかないよ。そんな事をしたら母様に怒られてしまう』
『うん』
『これからは、親子三人、母様の分まで一生懸命生きて行こう。大丈夫、きっと幸せになれるさ』
『幸せに?』
『そう、幸せに』
 

 そう呟く父親の顔は、雨で酷く濡れていた。死んだ母が眠る棺の前でひっそりと交わされた約束。父親の腕の中で眠るモクバは、この寒さの中とても穏やかな顔をしていた。この顔が泣き顔に変わらない様に。いつでも微笑んでいられる様に。人よりも大分情の深かった父親はまるで何かの呪文を唱えるように、そう幾度も繰り返した。
 

 しかし、その約束は叶えられる事はなかった。
 

 

『酷い事故だったんですってね』
『なんでも子供を助けたとか。ほら、あの子達……どちらかしら?雨の日に路上に飛ばされた傘を拾いに行って……それを間近で見ていたなんて気の毒だわ』
『運が悪かったのね』
『可哀想に』
 

 目の前に広がっていたのは濡れて黒く変色したアスファルトの上に散るどす黒い赤。元は父親だった彼の肉体の一部。水たまりにバシャリと音を立てて沈んだのはその足か、手か。

 どこまでも優しい父親だった。しかし、彼は優しすぎたのだ。優しすぎて少しだけ生きる事を諦めていた。先に逝ってしまった母親の元に行きたいと、口癖のように言っていた。

 お前達さえいなければ何もかも捨ててすぐに行くのに。ああ、そうだ。お前達も一緒に行こう。家族は離れてはいけないから。どこでだって幸せに暮らせる。それは何も『ここ』でなくていい。

 そんな事をうわ言のように呟いて、あの雨の日に街中に繰り出したのだ。

 今思えば、あれは初めから死ぬつもりだったのだ。自分達を巻き添えにして、共に逝くつもりだったのだのだろう。

 それを引きとめたのは瀬人の手だった。しっかりと握りしめられていた父親の手を振りほどき、モクバを抱いて、迫りくるヘッドライトの光から渾身の力で避けた。ふわりとモクバが手にしていた小さな傘が宙を舞い、鈍い音と共に視界から消えた父親とは反対側に落ちてひしゃげた。

 ひっ、と腕の中のモクバが声にならない悲鳴をあげる。その顔を胸に押し付ける事で目の前の光景から隔離し、目を閉じて両手で耳を塞いでいろ、と呟いた。その間、瀬人は視線を僅かにも反らさなかった。

 反らす事が、出来なかった。
 

『……父様は、僕達を置いていかないよね?』
『いかないよ。そんな事をしたら母様に怒られてしまう』
 

 5年前の父親との会話が蘇る。
 

 ── 嘘吐き。
 

 瀬人は、全身ずぶ濡れになりながら、瞬きもせずにそう小さく吐き捨てた。
 

 

 それから数多の裏切りに合った。あれだけ与えられていた愛が欠片も残らない程全てを毟り取られ、代わりに心の中には憎しみと絶望が渦巻いた。それを打破する為に一人の男に近づいて人生をかけた勝負に挑んだ。結果見事に賭けに勝ち、新たな姓と父親を得た。

 弱く優しいだけだった父とはまるで正反対のその男は、どんな形であれ瀬人を導いてくれた。生きる意味を与えてくれた。例えそれが愛情など一片もない己の益の為だけの行為だったとしても、それはそれで構わなかった。与えてくれなければ奪うまで。いつかその鼻を明かしてやると瀬人は誓った。

 自分を育てた事に対して深い後悔を覚えさせ、それと同じだけ誇らしく思える様に。

 けれど、やはり、それは叶わぬ夢だった。

 あんなに強いと思っていた義父でさえ、春の雨の中に消えて行った。ずぶ濡れになって、見下ろす己の視線の先に、物言わぬ顔で横たわっていたのだ。
 

 

 誰もがこの雨の中に消えていく。
 凍える自分の事を振り向きもせず、先に逝く。

 否、次は自分の番なのだろうか。寒さに震え、動く事ができず、このままここで朽ちて行くのだろうか。

 人通りのない、細い道の真ん中で。思わず立ち止まり、俯いてそんな事を考えていたその時だった。

「海馬?」

 少し先を行っていた今まで共に歩いていた男が不意に振り向き、身体の向きを変えて走ってくる。ぱしゃりと靴底が水を踏み散らす音が軽く響く。程無くして目の前に立った男……城之内は不思議そうな顔をして外に出てからずっと無言だった瀬人の顔を覗きこみ、どうかしたのか?と声をかけてくる。

 それに今の複雑な感情を表現する事も出来ずにただ俯いていると、少しだけ無言のまま瀬人を見ていた彼は徐に手を伸ばし、瀬人の頬に触れた。この冷たい雨の中にも関わらず、その指先は暖かだった。ポケットにいれていたからな。と聞きもしない事を勝手に言いながら、城之内は自分の傘をさっさと閉じてしまうと、きつく握りしめていた瀬人の手から藍色の柄を奪ってしまう。そして、にこりと笑ってこう言った。

「一緒に歩こう。相合傘。お前、一人にして置くと歩くの遅くて」

 同時にぎゅ、と握りしめてくる強い指先。それ以上何も言わずに、理由も聞かずに歩き出すその足取りは幾分ゆっくりしていて慎重で。時折こちらを見て、瀬人の顔を確認しながらまた歩く。本当は、背の高い瀬人の方が傘を持った方が楽なのだが、敢えてそれはさせないらしい。

「な、海馬。オレはお前が考えてる事良く分かんねぇけど……何か欲しいものがあったら声に出して言えよ。オレが出来る事だったら、ちゃんと叶えてやるから」

 二人で歩き始めてどの位経ったのか。不意にぽつりと城之内がそう言った。力強いその声は、耳障りな雨音にも負ける事はなく、しっかりと瀬人の耳へと届く。思わず上げた青の瞳に、同じようにこちらを見た琥珀の瞳がぶつかった。真っ直ぐな眼差しで痛いほど強く見つめてくる。そしてぽつりとこう呟く。

「立ち止まる時も言え。一緒に立ち止まるから」

 それから何事もなく再び彼は歩きだす。歩調を合わせて、しっかりと手を繋いで。言葉だけの弱い約束でも、こちらの一方的な想いでもなく、ただ自然に、それが当然であるがの如く。

 その優しくも強い指先を、瀬人は無意識に握りしめながら、後に言葉として彼に言おうかと逡巡しつつ、心の中でこっそりとこう言った。
 

 ── お前は、オレを置いていかないよな?
 

 それは決して彼に届くはずなど無いのに、何故か城之内はにこりと笑って最後にこう口にした。
 

「オレは絶対、お前の事を置いては行かないよ」
 

 冷たい、春の雨が降る。

 けれど、今の瀬人にはもうその雨は冷たいものではなくなっていた。悴んでいた身体は大分楽になっていた。それも全て、隣で歩く彼のお陰だと思うと、酷く嬉しかった。
 

 嬉しくて、涙が出そうになった。