幸せの魔法

 その席に近づくと、酷く甘いチョコレートの様な香りがした。

 またか、と海馬が片眉をあげるより早くどんな人混みの中でも素早くその存在をキャッチする能力を兼ね備えている男……城之内は、極自然な動作でくるりとこちらを見上げ「よっ、今日は早かったじゃん」と明るく笑った。それに答えを返す前に、すれ違おうとしたウェイターと肩がぶつかり、若干身体が傾く。雪の降り始めた極寒の夜だからだろうか、駅前のそこそこ大きなカフェは人でごった返していた。

「……だからここは嫌だと言ったんだ」
「しょうがねぇだろ。一番近いんだから。それにここだと長時間居ても文句言われねぇんだよ。ドリンク飲み放題で粘れるしさぁ。ま、今日は1時間も経ってないからそうでもなかったけど」
「………………」
「なんでもいいから座ったら?外寒い?」
「見ての通りだ」
「すっげー雪だよなぁ。なーんか面倒臭くなってきたぜ」
「今日が最終日だからと無理矢理人を呼びつけておいてその態度か」
「だってさぁ、雪降るのは予想外だったじゃん」
「ふざけた事を言うと速攻帰るぞ」
「折角来たんだから帰るなよ」
「うるさい」
「はいはい、ごめんなさい。オレが悪かったです。もう言わねぇからコートとか全部こっち寄越しな。オレのとこ丁度暖房当たるんだよね。あ、飲み物決まったらそこのボタン押せよ」
「一々やかましいっ!分かってるわっ!」
「うわっ、つめたっ!!」

 ヒステリックな海馬の声と共に向かいに座る城之内の顔に投げつけられたマフラーは数多の水滴をまき散らしながらポトリと落ちる。次いで続々と押し付けられるコートや手袋も漏れなく冷えて濡れていた。それらを邪魔にならない程度に広げた城之内は自分の脇にある空席へ手際よくかけて行く。そして変わりにすっかり乾いてしまった自分のダウンジャケットを畳んで海馬へと手渡した。

 それを無言で脇に押しやって、海馬は同じ様に濡れそぼりぺたりと額に張り付いた髪を指で避ける。テーブルに散った水が店内の照明を受けてキラキラ光る。それを近間にある添え付けの紙ナプキンではなく自分の袖で拭った城之内は、いつの間にか財布から取り出していた少し縒れた映画のチケット二枚をふわりと置いた。

 城之内が、何が何でも見たいと喚いた外国映画。海馬は映画自体に全く興味はなかったが、駆使されるCG技術が世界最高峰だと説得され渋々首を縦に振った。彼の取捨選択基準は実に単純で分かり易い。

 ともあれ、海馬が口にした通り今日はその映画の千秋楽だった。ついでに言えば週末で、ペアで合計1000円もの割引がきく曜日でもあった。だから彼等はそれぞれの仕事やバイトが終わった後、映画館が目の前にある駅前のこのカフェで待ち合わせをした。

 約束の時間は午後6時だったが、今は7時少し前。映画は9時からだからまだ大分余裕がある。本来なら8時頃でも構わないのだが、海馬は遅刻の常習犯だった。2時間位は連絡も無しに遅れてくる。故に時間制限のあるものを目的とする待ち合わせの場合はかなり多めに時間に余裕を持たせるのは常だった。

 しかも今日は朝から生憎の雪模様で外の渋滞も相当だった。落ちあうのはもっと時間ギリギリになると思っていたが、意外にも海馬は常よりも早く約束の場所に訪れたのだ。その事を城之内はかなり喜んでいるのだが、生憎海馬には伝わらない。それどころか、喜び過ぎて余計な事を口走った所為で少々不機嫌にしてしまった。でもまぁ、これ位は何時もの事だ。

「何故今出す。向こうで出せばいいだろうが」

 いきなり目の前に置かれたそれを指先で弾きながら、海馬は些かむっとした表情でそう口にする。そんな彼の仕草も意に介さず、城之内は纏まってくるくると回った二枚のチケットを片手で受け止め、その一枚を海馬の方へと押しやった。

「渡すの忘れると困るじゃん」
「どうせ貴様が受付を済ませるのだろうが。別々に持っていた方が面倒だろう」
「あ、そっか。それもそうだな。じゃー返して」
「本当に無駄な動きが多い男だな」
「嫌味言わない。なんか気が急いちゃったんだよ」
「何故だ」
「うーん、強いて言うなら久々のデートだから?」
「何がデートだ。ただの映画観だろうが」
「こういうのを世間様ではデートって言うんです」
「くだらん」

 男同士で何がデートだ、不愉快だ。そう言って相変わらず臍を曲げたままの海馬を特に宥める事無く見詰めながら城之内は折角取り出したチケットを財布の中に仕舞い込んだ。昨日が給料日だった為、いつもは酷く薄いそれが若干膨らんでいる。その事一つとってもやはり城之内は幸せだった。尤も、この瞬間こそが何よりの幸せだったのだが。

 まるで鼻歌でも歌いたい気分で財布をポケットに戻そうとした城之内は、不意に手元のカップが空になっていた事に気付く。そして、海馬の前に飲み物が無い事にも気が付いた。そこで、はたと考える。

 もう夕食の時間だし、ここでは満足な食事も出来ないから早々に場所を移して映画に備えるべきなのだろうが、どうしようかと。何故なら外はまだ深々と雪が降り続いていたし、かけたばかりの海馬のコートも濡れたままだ。そして何より飲み放題の料金を払ったのにまだ一杯しか飲み物を飲んでいなかった。普段なら海馬を待ちながら存分に元を取るのだが、今日は彼が予想外に早く来たのでその予定が狂ったのだ。なんだか勿体ない……。

 そう思ったが最後、早々に移動という選択肢を後回しにした城之内は、そっぽを向いて神経質に指先でテーブルを叩いている海馬に向かって極普通に話しかけた。

「お前、腹減ってる?」
「別に」
「じゃーもうちょっとここでのんびりしていこうぜ。何飲む?オレ、今日もいつもと一緒で飲み放題頼んだんだけど、まだ元取ってねぇから勿体なくって」
「ふん、貧乏人め」
「その通りでございます。で、何飲む?珈琲?」
「貴様は何を飲むんだ」
「オレ?ココアだけど」
「またか」
「なんでそこで渋い顔するんだよ。何飲んだっていいじゃん」
「貴様は最近ソレばかりだな。似合わないぞ」
「飲み物に似合う似合わないもあっかよ。オレはな、冬はココアって決めてんの」
「何故だ。そう言えば飲みだしたのは最近だったな」
「そりゃそうだ。お前と付き合って初めての冬だもん」
「で、何故冬はココアなのだ」
「……どうしてそこに突っ込むかなぁ。つーか、逆にオレも聞きたいんだけど、なんでそんなにココアを嫌がる訳?オレのココアを見る度に顔顰めるよな、お前」
「………………」
「………………」

 瞬間、不自然な沈黙が場に満ちる。ココアの名残が入った空のティーカップを挟んで二人は同時に妙な顔をした。そして二人とも心の中で「これは何か有るな」と思ったのだ。

 付き合って半年もすれば何を考えているかなど大体お見通しで、互いに互いの空気を読んだ彼等は同時に小さな溜息を吐くと、お前から話せと言わんばかりに目線を合わせる。それに先に折れたのは勿論城之内の方だった。口の重さでは海馬に敵うものはいない。
 

「なんていうのかなぁ、ココアはさ、オレにとっては冬の幸せそのものなんだよな」
 

 安物のカップを両手に抱え、その言葉通り幸せそうな笑みを浮かべて城之内はそう口にする。遠い昔、まだ家族が一つ屋根の下で決して裕福ではなかったがそれなりに楽しく暮らしていた頃、母親の入れてくれたココアが本当に大好きだった事。静香と二人、温かなコタツの中で大きなマグカップを抱えて飲んだあの味が忘れられない。甘いチョコレートの匂い。子供なら誰もが口元を綻ばせるその香りが、優しい思い出と共に蘇るから。

 ガキだと笑われるかも知れないけど、年齢的にはまだガキだから、別に問題ねぇだろ。

 そう言って、彼は再び小さく笑う。その様を海馬は少しだけ眩しそうに見遣った。
 

 まるきり逆だ。そう思いながら。
 

「お前は?ココア、嫌いなの?」
「嫌いと言うか、忌々しいな」
「なんで」
「その飲み物は、一番辛かった時代を思い出す。珈琲が飲めなかった頃の主飲料だったからな」
「え?」
「ココアには集中度や学習能力、記憶力をアップさせる効能がある。他にストレスを軽減する作用もある。勉学に励む人間には打ってつけの飲み物と言う訳だ」
「……それがどういう……」
「察しろ」
「いや、分かんねぇし」
「端的に言えば剛三郎の事が頭にちらついて嫌な気分になるという事だ。貴様の言う『思い出』の質が真逆だな」

 温かさなど欠片もない、苦い記憶。甘ったるい匂いに含まれているのは、耳障りな鞭の音と、ペンが紙の上を休みなく滑る音だけだ。広すぎる部屋の片隅でまるで囚人の様な扱いを受けながらひたすら知識を詰め込まれたあの日々。休息の度に持ち込まれるあの飲み物は口内に不快な甘みを齎すのみで苦痛を和らげるには至らなかった。だから、嫌いだ。匂いを含めたその全てが。

 当時の事が頭を過ぎり、また少しだけ不快な気分になった海馬が再び視線を雪が降る外へと向けると、城之内が動く気配がした。今の話を聞いてどう思ったのだろう。同情でもしようものなら、今すぐ席を立って帰ってやる。そう思い、密かに組んでいた足を解いた瞬間、目の前の男はひょい、と手を伸ばして海馬の直ぐ側にあった店員呼び出し用のボタンを押した。間抜けな音が、辺りに響く。
 

 そして直ぐ近間にいたウェイトレスが「ご注文は?」と聞く前に、彼は事も無げにこう言った。
 

「あ、ココア二つお願いします。こいつの分は単品で」
「……なっ」
「かしこまりました」

 そう言って頭を下げた彼女が踵を返すより早く、驚いた様に顔を元の位置に戻した海馬に城之内は相変わらずの幸せ顔で口を開く。

「嫌な思い出は、上書きすればいいんじゃねぇの。今度からデートの時は一緒にココア飲もうぜ」
「……は?」
「ココア自体が嫌いな訳じゃねぇんだろ?思い出がヤなんだろ?だったら、大丈夫」
「何がだ」
「何でも」
「意味が分からん」
「いいよ分からなくて。分からなくていいからオレの言う事聞いてみ?絶対幸せになるから」
「……宗教じみた事を言うな。胡散臭い」
「お前みたいに生真面目な奴には多少の胡散臭さがあるオレみたいなのが丁度いいんです」
「勝手に決めるな」
「あー、映画楽しみだなー!」
「おいっ!」

 それきり有耶無耶にするかの様に話を映画の方へシフトしてしまった城之内は、終始笑顔で今回のストーリーの見どころはどうの、登場人物がどうのと身振り手振りを交えて一方的に話しまくった。そしてそれが一区切りつく頃、漸く注文したココアがやってくる。

 目の前に置かれた白いカップ。くゆる湯気に甘ったるいチョコレートの匂い。何故オレがわざわざこんな忌々しいモノを……そう思いながら海馬が手を添えたままカップに口を付けずにいると、一足先に既にココアを飲み干した城之内が海馬のカップを両手で優しく包み込んだ。添えてあった、彼の白い指先ごと。

「飲めよ。すっげー美味しいぜ」
「この手はなんだ」
「ん?幸せの魔法。オレの母親がさ、ココアを淹れてくれた時、こうやって手渡ししてくれたんだ。凄い柔らかくて暖かい手でさぁ。忘れられないね」
「それでこれか」
「うん。あったかいだろ」
「全く柔らかくはないがな」
「まあそこは、優しい気持ちでカバーって事で一つ」
「馬鹿か貴様は」
「馬鹿で結構です」

 そうして促されるままに飲んだココアの味は、確かに今までのものとは違った気がした。チョコレートの香り、甘い味。確かに感じる温かさ。美味いだろ?そう言って胸を張る目の前の顔が酷く得意気で少しだけ憎らしくも思ったが、やけに強く印象に残ってしまった。妙な幸福感と共に。

 外はまだ深々と雪が降り続けている。これでは幾ら待っても直ぐに濡れ鼠になるだろう。けれど、余り憂鬱な気分ではなくなった。どうでもいいと思っていた映画も、ほんの少しだけ楽しみになる。

 今度は促される事もなく、海馬は自らカップに口付けた。
 

 口の中には、優しさだけが満ちている。