Salty chocolate

「くっそマズ!!死ぬ!!おま、何の嫌がらせだよ海馬ァ!!」
「美味くないか?」
「は?」
「オレの『愛情』がたっぷり入った『これ』は美味くないか、と聞いている」
「あ、愛情?!この、味塩が?!塩だけならまだしもひっでぇぞこれ!」
「ほう、入れたものが分かるとは。味音痴の貴様にしては珍しいな」
「フツー分かるっつーの!!……って!!そんな事はどーでもいいんだよ!なんでこう言う事するんだって聞いてんだよ!!バレンタインは恋人に嫌がらせをする行事じゃねぇぞコラァ!」
「フン、最初に嫌がらせをしたのは貴様の方だろうが。己の事を棚に上げてよくもまぁそんな口が叩けるものだなこの駄犬が!」
「はぁ?!オレがいつお前に嫌がらせしたよ!!大体まだ顔を合わせてから10分と経ってねぇじゃねぇかっ!最近も会って無かったし!何もしようがねぇだろうがこのバカイバッ!」
「煩い、一々怒鳴るな!」
「お前が怒鳴らせてんだろうがッ!」
 

 その怒鳴り声と共にガンッ!と激しい音を立てて大柄な……しかし繊細な作りの珈琲カップがこれまた高級木材で出来た重厚なテーブルに戻される。否、それは戻されると言うよりも叩き付けられた、と言った方が正しい。現にそれを行った城之内の手は未だカップの持ち手を握ったまま微かに震えている。感情が昂ぶった為にではない、カップとテーブルが激突したその衝撃の余韻にだ。

 珈琲カップの中には濃い茶色の、甘い匂いを放つ暖かな液体が揺れている。
 

 

 数分前、アルバイトの帰りに顔を見せた城之内をやけに機嫌良く出迎えた海馬が、寒い中大変だったろう、と普段なら絶対言わない台詞を口にして、手ずからこのカップに飲み物を入れて差し出して来た。それもわざわざ指先が触れる様に丁寧な仕草で。

 その事を内心訝しく思いつつも、恋人の上機嫌な様子や優しい仕草に心底幸せな気分になった城之内は、最大限の笑顔を見せて両手で恭しく目の前に掲げられたそれを受け取った。ゆらゆらと揺れる暖かな湯気に顔を近づけると、覚えのある香りを強く感じた。

 それが何であるかは匂いで大体分かったが、液状のものは初めてだったので城之内は直ぐに「これ、何?」と訊ねてみた。すると海馬はやはり常とは違う優しい声で「ホットチョコレートだ」と教えてくれた。そして続けて「昨日はバレンタインだったからな」と付け加えた。

「一日遅れてしまったが、特に問題はないだろう」
「え、何コレ。お前、オレにバレンタインのチョコレートをくれてるつもりなの?」
「そうだが、何か」
「……いや、意外だなーと思って。お前ってそういうのすぐ馬鹿にするじゃん」
「イベントも企画する企業主がどんなものであれ世間一般に広く知られているものを馬鹿にするようでは話にならんだろうが。現に海馬ランドでも今年はバレンタイン企画を敢行した。14日の昨日と来月のホワイトデーはカップルであれば年齢問わず全て無料となっている。専門のショップ等も期間限定で開いているしな。このホットチョコレートも商品の一つだ」
「へえー。すげぇなぁ。だからお前、ここんとこずっと忙しかったのか」
「まぁな」
「そうならそうと言ってくれりゃー良かったのに。オレ、昨日寂しくてさぁ……」

 海馬の話を聞きながら手にしたチョコレートに口を寄せてふーふーと熱を冷ましていた城之内が何気なくぽつりとそう呟いた。それに一瞬海馬の口元が引き攣ったが、目線を下にしていた城之内は気付かない。荒熱が冷めて側面が幾分温んだカップを両手に持ち、今日だけはやけに柔和な恋人の表情を眺めながら、甘いであろうそれを幸せな気分で口に含んだ。

 オレって愛されてるなぁ、と思いながら。
 

 ── が、その一秒後、彼の幸せは尤も手酷いやり方でブチ壊される事になる。
 

「……うわっ!!なんだこれ!!」

 暖かなそれを口に含んだ瞬間、城之内を襲ったのは甘く優しい幸せな味では無く、強烈な塩分が大部分を占めた複雑奇怪なとんでもないモノだった。甘いチョコレートにこれでもかと入れられた塩と調味料(多分冒頭の彼の言う通り味塩なのだろう)否、むしろそれはチョコレートに塩を入れるというレベルでは無い、味噌汁にチョコレートを混入させたような酷い味だった。

 未だ嘗てこんなに酷い飲み物を口に入れた事は無い。
 余りに酷過ぎて、味覚が完全に麻痺してしまった。何がなんだか分からない。

「か、海馬っ?!」

 その場で吐き出す訳にも行かず、反射的に飲み込んでしまった城之内は「ぎゃーっ!」といかにも大事件が起きた様な声を上げ、その場で暫しのたうった揚句、その様を先程から微動だにせずに眺めていた海馬を思い切り睨み上げた。

 そんな城之内の様子にも海馬は眉一つ動かすどころか、柔らかな表情をますます柔らかくして、「どうだ」と事も無げに言い放った。その声には棘は無い。しかし……その瞳だけは違っていた。
 

「オレのバレンタインチョコレートは美味いか、城之内」
 

 頭上から降って来るのは相変わらずの穏やかな声。けれど、つい先刻とはまるで違う、見るもの全てを圧倒させるような、空恐ろしい眼差しがそこにはあった。

 何故か……本当に城之内には心当りがないのだが、海馬は酷く怒っているらしい。いつもなら聞く事も見る事も出来ない優しい言動も、柔らかな笑顔も全部怒りから来る偽りだったのだ。マジで怒ってる時の方が優しいってどうよ……そんな事を冷や汗をかき始めた身体をソファーの上で後じさりながら思っていると、海馬は漸く口元から笑みを消して鋭く目を細めた。

 そして、ずい、と顔を城之内に近づける。

「な、なんだよ。お前、何を怒ってんだよ」
「何を、だと?自分の胸に聞いてみたらどうだ?」
「胸って……」

 そう言われても分からないものは分からない。先程口にした通り、最近は海馬は勿論の事自分もバレンタインで賑わう菓子店の臨時バイトを請け負ったりして目が回る様な忙しさだった。喧嘩は愚か言葉を交わす事すら一週間ぶり、と言う始末だ。

 もしや放って置いた事を怒っているのか?とも思ったが、メールを送った際に『鬱陶しい!オレは忙しいのだ!バレンタインが終わるまでは連絡を寄越すな!』と返信が返って来た位だからそれはないだろう。だから余計に理由が分からない。分からないが、海馬の怒り具合は半端無いのだ。この状態で城之内は何をどうすればいいと言うのだろう。

 徐々に間合いを詰めて来る目の前の綺麗ではあるがそれ故に怖さ倍増の白い顔を眺めながら、城之内は必死で考えた。しかし、痛くもない腹を探った所で原因が分かる筈もない。本当に分かんねぇんだけど、勘弁してくれよ。内心そう思いつつ、視線を海馬の顔から僅かに外したその時だった。

 不意に城之内の視界にあるものが飛び込んでくる。その刹那、彼は「あ」と何かを思い出し、目の前の怒りを少しでも和らげる為のとあるアイテムを取り出そうと後ろ手に手を伸ばした。それは、来た時に直ぐに脱いだダウンジャケットのポケットの中に入っていたからだ。

「何をしている?」
「え?!いや、あの、ちょっと」
「怪しい動きを見せる前に何故こんな事になっているのか少しは考えたらどうだ」
「か、考えたけど、全然分かんねぇよ!」
「全然?」
「ああ、全然!!オレ、絶対何もしてないし!!」
「絶対に、何も?」
「おう」
「本当だな」
「マジだっつってんだろ!大体……イテッ!」

 迫りくる海馬に必死に抵抗を試みつつそんな事を叫んでいた城之内は、次の瞬間思い切りソファーに押し倒された。近年買い換えたばかりの高級革張りのオフホワイトのロングソファーは、素材の所為か余り柔らかくは無く、力任せに押し倒されればそれなりに痛い。

 いつの間にか城之内の腹部の上に馬乗りになる形で居丈高に見下ろした海馬はするりと右手を伸ばして城之内の頬を撫で上げた。それに一瞬「お?」と思った城之内だが、ここで油断すれば痛い目を見るのは確実だ。なんせ相手はあの海馬なのだ。一旦機嫌を損ねた彼がそう易々と元に戻る事など有り得ない。

 僅かの間ドギマギしながらその動向を見守っていた城之内だったが、次の瞬間思わず鋭い悲鳴を上げた。何故なら何気なく頬に触れていた海馬の指先が、そこを思い切り抓り上げたからだ。

「いってぇえええええ!!何すんだお前!!やめろって!!」
「貴様はこれを見てもまだ『オレを怒らせるような事をしていない』と言い張るのか?」
「……いでででで!!……って、えぇ?!」

 城之内の頬を抓る右手の指はそのままに、海馬は開いていた左手で自らのポケットを探り濃いブルーの携帯電話を取り出すと、カチリと音を立ててそれを開く。そして、素早い動作で何かを弄ると徐にそれを反転し、まるで見せつける様に城之内の鼻先に突きつけた。そして一言、「これはどういう事なのか説明して貰おうか」と鋭く言う。

 目の前に現れたのは、一組の男女が映り込む携帯画像。派手なイルミネーションが施された、いかにもカップルが好みそうな様々な種の店が入ったビルの前で、真剣に一階の貴金属店のウィンドウを覗き込む二人組の姿。隣に立つ女は馴れ馴れしくも男の背に手を回している。

 これが見知らぬ人間の写真ならどこにでもある光景であり、海馬が激怒するようなものではないが、不幸な事に城之内にはその両方の人物に心当りがあった。否、心当りがあるという問題では無い。……片方は、紛れもなく城之内克也、本人だったからだ。

 当然この事は城之内も覚えている。何せ、つい昨日の事だからだ。

「…………うわ。お前、なんでこんなもん持ってんの?」
「偶然通りかかってな。車内で見つけた。記念に撮っておいた」
「記念にって……さすがお前の携帯。カメラの性能めちゃくちゃいいな」
「それはどうも、お褒めにあずかりまして」
「…………で、これに怒ってるって事ね」
「怒ってはいない。腸が煮えくり返っているだけだ」
「余計にこぇえよ!ってかいい加減抓るのやめろって!マジ痛いからそれ!顔の形が変わったらどうすんだ!」
「変わればいいだろうが。誰も困らん。いいから、早く説明をしろ。オレは優しいからな。言い訳位は聞いてやる。その後どうするかは分からんがな」
「既にすげぇチョコレート寄越した癖に何言ってんだ!」
「喧しい!とっとと言わんか!!」
「いってぇ!わ、分かったからこの手離せよ!お前を怒らせたのは悪かったけど、そんなんじゃねぇんだって!」
「何がだ」
「だから、お前が誤解してるような浮気とかそういうんじゃ……!」
「では、なんだと言うのだ。貴様、オレには忙しいとかなんとかぬかしてしておいてよくも!寂しかっただと?!こんな事をしていてどこが寂しかったのだ!言ってみろ!」
「だ、だって、お前どっちみち昨日も仕事だったんだろ?!しょうがねぇじゃん!」
「ふん、だからと言って女と共にいるのを認めろと?ふざけた事を言うな!」
「そうじゃねぇって!ちょっと落ち着けよ!」
「これが落ち着いて居られるかッ!」

 多分わざとなのだろう。怒りも頂点に達したらしい海馬は城之内の頬を抓る指を一旦離すと、直ぐに両手で今度は彼の両耳を掴んだ挙句、大声でそう怒鳴った。

 思い切り鼓膜に響く、衝撃波にも似たその音の攻撃に城之内の顔が盛大に顰められる。

 ……バレンタインに、楽しそうにウィンドウショッピングをする男女。確かにその片方が自分の恋人で、恋人同士のイベントとも言えるその日に他の人間といる所を見かけたら面白くもないだろう。場合に寄っては怒りもする。それは分かる。

 けれど、それはれっきとした誤解なのだ。誓って海馬が思う様な事では無い。むしろ……。

(ああくそ。順番間違えた。最初からこれを渡しておけば良かったんだ)

 海馬の口撃に、ジンジンと痺れる耳を堪えながら、城之内は今度こそ素早く手を伸ばして頭上のジャケットを取り上げた。すかさずそれに気付いた海馬が「貴様何をやっている!」と怒鳴ったが、今度はそれに動きを止める事無く手を動かし、ポケットの中から細長い箱を取り出した。

 それに一瞬「何を?」という顔をした海馬をちらりと眺め、城之内は口を開く代わりにそれをずい、と差し出した。まるでそれが答えだと言わんばかりに。

「……っ、何だ?」
「これ。お前に。見てたんなら分かんだろうけど、昨日オレが女と覗いてた店で買った奴」
「……は?」
「いいから開けてみ。大したもんじゃねぇけど」

 そう言うと、はぁ、と大きな溜息を吐いて城之内は疲れた様に全身の力を抜いてしまう。そして事態が良く飲み込めず、差し出された箱を呆然と眺めている海馬をちらりと見上げて、早くしろよ、と促した。そんな相手の態度にすっかり勢いを削がれた海馬は、何がなんだか分からないままとりあえずその箱の中身を見てみる事にした。ガサガサと包装紙を解く音だけが、急に静かになった部屋に響き渡る。

 数秒後、微かな音と共に海馬の目の前に現れたのは、アクセサリーケースに収められた一本の革紐だった。細い皮同士を一本に編み上げた見るからに丈夫そうなそれを海馬は思わず手に取り、まじまじと眺めてしまう。

 ここまで来てもまだ意味が分からない様で眉を顰めながら首を傾げるその様子に、城之内は今度は先程とは違う溜息を吐いて、つい、と投げ出していた指を持ち上げてついさっき視界に入ったもの……というよりは「場所」をトン、と軽く突いてやった。

 彼が指先で触れたのは、今は珍しく何も下がってはいない海馬の胸元だった。いつもはそこに下がっているカードを模したロケットは海馬のポケットの中に収められている。つい先日ちょっとした不注意から紐を切ってしまい、代わりの物を調達する暇がなかった故にそのままになっていたのだ。

 その事を本人でさえもすっかり忘れていた海馬は、驚愕に目を見開いて眼前の顔を凝視する。

「それ、この間切れたって言ってたじゃん?ふつーに買って贈るってのもなんだか恥ずかしいから、バレンタインにかこつけてやろうと思って。お前、チョコ嫌いだし、丁度いいじゃん。でもオレ、ピアスとかネックレスにあんま興味ねぇからどこで売ってんのか知らなかったし、一人で買いに行くのも恥ずかしくてさぁ。昨日たまたまチョコくれたバイトの子に教えて貰うついでに付き合って貰ったんだ」
「……それで、あそこにいたのか」
「うん。あそこ、チョーカー専門店だっつーから。一番丈夫そうなの買ったんだぜ」
「………………」
「これで疑問は解消したでしょうか?早とちりで嫉妬しまくりのカワイイ海馬くん?」
「……な!」
「お前の愛情のお陰で口ひんまがった責任とってくれるんでしょーか?まぁ、自分から跨ってくれる位だから?ヤる気は十分にあるんでしょうけど」
「?!ち、違う!これは!」
「ちなみに昨日はあの後直ぐに帰りまして、一人で貰った義理チョコ食べてカップラーメンをすすりながら寂しーく過ごしたんですけどねー海馬くんが一言電話かメールをくれれば昨日のうちに上げられたんだけど。誤解もされなかったし。なーんか損したって感じ?」
「…………う」
「まぁでも、いっか。去年も似た様なもんだったし。次の日に埋め合わせできるだけ幸せです。な?」
「………………」
「うん、て言えよ。可愛くねぇなぁ」

 言いながら、急に元気を取り戻した城之内は、未だ驚きの表情のまま固まっている海馬の首に素早く手を回し、強引に抱き寄せた。拍子に海馬の手から既に空になったアクセサリーケースが転がり落ち、小さな音を立てて視界から消えてしまう。

 はっとしてそちらの方を見るより早く、両頬を捕らわれた。近づく、つい先程までは憎らしいと思っていた城之内の顔。仄かに漂うチョコレートの香りが頭の芯を甘く痺れさせる。

「じゃあ、とりあえず、一日遅れたけどハッピーバレンタイン」
「……どこがハッピーだ!」
「ハッピーじゃないのはお前の所為だろ。このままキスしてやっからな。味塩チョコレートを嫌って程味わえよ!」
「何?!ちょ……待て!」
「待てと言われて待つ犬はいませんねぇ」
「………………っ?!」
 

 その言葉と共に強く押し付けられた唇からは、確かにとんでもないチョコレートの味がした。甘くてからい、表現の仕様がない奇妙なその味は確かに酷く不味かったけれど、それだけでも無い様な気がした。
 

 多分、色々な意味で、一生忘れる事はないだろう。
 

「……うわ、やっぱりまっず!」
「……最悪だ」
「お前の愛だよ。強烈な」
 

 後で口直しに甘いチョコレート寄越せよな。
 そう言って、城之内はもう一度緩やかに顔を近づける。
 

 その日二度目の口付けも、やはり甘さとは程遠い複雑奇怪な味がした。