ラッキー・ホラーショー

「そ、そんなに早く歩くなよ……怖いじゃねぇか」
「オレは何時も通りだ。貴様が遅いんだろうが。と言うか立ち止まるな!」
「だ、だって足が竦んじまって。……ぎゃあ!今なんか聞こえたっ!!」
「守衛だろう。オレ達が余り遅いと様子を見に来るだろうからな。……というか、よく考えたら守衛がいるのだからそいつに付き合って貰えば良かったではないか」
「守衛室に行くまでが怖いっていう想像はお前には無いわけ?!」
「………………はぁ」
「何今のでっかい溜息。わ、悪かったな、オレはお化けとカミナリは嫌いなんだよ!!訳分かんねぇじゃねぇか!」
「非科学的なモノと気象現象を一緒くたに語るな」
「ちょ、そこじゃねぇよ!!オレが言いたいのはっ!!……ひっ!なんか聞こえた!」
「……貴様の怒鳴り声が反響しているだけだ」
「あ、そ、そうなん?」
「もういい。オレ一人で行く」
「ちょ、それはもっと駄目だ!!ここまで来たらお前とオレは一蓮托生!永遠の愛を誓い合った仲じゃねぇか!」
「勝手に誓うな!死ね!……というか暑っ苦しいわ!!」
「オレは寒いの!」
「嘘を吐けっ!!」
 

 全く忌々しいッ!!

 そう言って、殆ど抱きつく様に己の右半身を占領していた城之内を腕を振ってふり解き、ついでに繰り出した蹴りで引き剥がすと、海馬は上がる悲鳴を無視してさっさと先に進んでしまう。しんと静まり返った深夜の童実野高校の二階通路。埃っぽい廊下を嫌々ながら歩く海馬のローファーが立てる音だけが大きく辺りに響いている。その背後では殆ど泣きべそをかいているような情けない城之内の声が聞こえているが勿論立ち止まってやるつもりなどなかった。持参したLEDハンディライトの明るい光が暗闇を真っ直ぐ照らし出す。
 

『明日まで絶対に提出しなきゃならないプリントを学校に置いて来た!頼む、取りに行くのに付き合ってくれ!』
『はぁ?何故オレが付き合う必要がある。一人で行ってくればいいだろうが』
『お前、オレが暗くて怖いの駄目だって知ってんだろ?!なのにあの恐怖の夜の学校に一人で行けとか、どんだけ人でなしだよ!死んだらどうすんだよ!』
『安心しろ。骨位は拾ってやる』
『だあああそうじゃなくってぇ!!』
『やかましい!オレの貴重な時間をそんな下らない事で浪費出来るか!お友達に付き添って貰えばいいだろうが!』
『ダチに言えるかよ、こんな事!カッコ悪いだろ!』
『ならばオレにも言うな!』
『お前はいいの!今更じゃん!!』
『開き直るな、馬鹿が!』
『じゃあ真面目に頼む!神様仏様海馬様、一生のお願いですから学校に付き合って下さい。どうかこの通りッ!』
『………………』
 

 それは今から約1時間前の、午後11時頃の出来事だった。

 夏季休暇に入り連日ほぼ丸一日バイトに精を出している城之内が、今日は珍しく日付の変わる前に海馬邸に姿を現したと思ったら、いきなり飛びかかる様に主の身体を拘束し、いかにも面倒な頼みごとを口にした。

 内容は会話の通り至極単純なものだったが、いかんせん暑苦しい夏の夜である上にほぼ深夜の事だ。誰がどう聞いても厄介な事この上ない願い事に、海馬も勿論例に漏れず最大級の渋面と共に嫌だと即答したが、そこで食い下がる城之内では無かった。

 何せ月末一週間の補習を回避出来る大切な課題プリントである。このチャンスをフイにしてしまった場合のバイト時間減少における損害額を考えれば、海馬の怒りなどたかが知れている。故にどれほど言葉と態度で拒絶されても諦める事はせず、ついぞ海馬を夜の学校に連れ出す事に成功したのだ。
 

 そして、現在に至る。
 

「絶対に腕離すなよ!たまに声出せよ!返事は?!」
「鬱陶しい!貴様は小学生か!」
「なぁ、磯野にも付き合って貰おうぜ。つか、モクバも連れてくれば良かったな」
「大人数で押し掛ける様な所か!本当に情けない男だな!」
「だって絶対こえぇよ〜知ってっか?うちの学校の七不思議!」
「音楽室のピアノが勝手に鳴り、壁に掛けてある肖像画の表情が変わるのから始まって、理科室の人体模型に追いかけられたり、トイレの花子さんとやらに一緒に遊ぼうと誘われたり、西校舎の階段が何故か13段に変わって、二宮金次郎が校庭を走り回った揚句、体育館ではバスケットボールが勝手に跳ねているのだろう。知っている」
「……詳しいな、お前」
「誰でも知っているだろうがこんな事。ちなみに小中高全ての学校共通だぞそれは。全部作り話だ、実に下らん。……それに一つ言っておくが童実野高校に二宮金次郎の銅像はない。では一体何が走り回るのだろうな」
「えっ、そうだっけ?!あ、そういやもう一個あったよな、うちの学校には霊安室があって……」
「霊安室ではない『暗室』だ、馬鹿め。暗室が何かも分からんで怯えるとは馬鹿にも程がある」
「この学校が建つ前は……」
「墓場・戦場・処刑場・病院・研究所、好きなものを選べ。歴史上人が全く死んでいない所などどこにもないわ。馬鹿が」
「そ、そんなに頭ごなしにバカバカ言う事ないだろ!」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。いいからさっさと済ませるぞ」

 学校前に着けた車から降りた途端、汗でかなり湿っている褐色の腕を涼しげな白の長袖シャツを纏っている腕に巻きつけて、二人は片方はおどおど、もう片方はイライラしながら無人の校舎へと入り込む。勿論無許可で、という訳には行かないので側にある守衛室から職員玄関の鍵を借り、ある種堂々と人気の無い廊下を進んで行こうとしたのだが、いかんせん恐怖心に凝り固まった城之内の歩みが遅く、なかなか先に進む事が出来なかった。

 通常なら10分もあれば職員玄関から三階の隅にある自分達の教室まで行って帰って来る事が出来るのだが、このままでは辿り着くのが何時になるかすら分からない。そうこうしている内に時刻は既に12時を周り、その事で更に恐怖心を煽られた城之内が完全に立ち止まってしまった事についに堪忍袋の緒をブチ切った海馬が、臆病者の彼を置き去りにして先に行ったとしても、余り責められはしないだろう。尤も彼も本気で置いて行こうと思った訳ではなく、一応少し行った先で呆れた溜息を吐きつつ待ってはいたのだが。

「凡骨!早くせんか!」

 窓を全て締め切った真夏の校舎の中は暑い。さしもの海馬も額から伝い落ちる汗を拭いながら淀んだ空気を切り裂く様な声をあげる。幾重にも木霊する己の声。確かに、こんな暗闇に包まれた場所で響くそれは余り気持ちのいいものじゃない。

「ったく、何をやっているのだあの駄犬は!」

 よもやあの場で蹲っているのではないだろうな、と内心舌打ちをしながら殆ど走る様に元来たルートを戻って行く。しかし、彼を置き去りにした場所に辿り着いても、城之内の姿は見えなかった。ハンディライトの青い光が、傷だらけのリノリウムを無機質に照らし出す。階すら変えていないのだから、すぐ見つかる筈なのに全く何処へ消えてしまったと言うのだろう。

「………………」

 その場に立ち止まり、今度ははっきりと舌打ちしながら、海馬はポケットから携帯を取り出した。そして殆ど叩き壊す様な勢いで通話ボタンを押して耳に当てる。すると、何故か『電波が届かない所にいる』との答えが返って来た。見ればディスプレイに『圏外』の文字が表示されている。

「圏外だと?どういう事だ」

 普段は校内でも普通に携帯は使える筈だ。勿論全てを締め切っている真冬であっても通信になんの影響も無い。故に今この場で圏外になる事など有り得ないのだ。それを思った瞬間、少しだけ、ほんの少しだけ海馬の背筋に寒いものが走ったが、余り気にしない事にした。どちらにしてもあの怖がりが一人で校内を歩き回るというのは考えにくい。課題を取らずに逃げ出す事もないだろう。という事は、先に教室に行っている可能性しか残されてはいない筈なのだ。

 海馬は即座に踵を返し、今度は猛ダッシュで廊下を走り、階段を駆け上がって己のクラスである三階東側の教室へと向かった。最後の段を踏み締めて顔をそちらに向けると、全て締め切ってある大きなスライドドア群の中で一つだけ開いているものがあった。言わずと知れた自分の教室のそれである。やっぱりか!と沸き立つ怒りを堪えて飛びつく様にそれに手を掛けて中を覗くと、案の定見慣れた金髪頭が自席前に腰を屈めて机の中を漁っている所だった。

「凡骨!貴様ぁ!」

 ダン!と腹立ち紛れにドアを思い切り叩き付けて、その音に飛び上がった相手を睨んで声をあげる。全くなんなのだこの男はッ!一人でさっさと行動出来るのなら最初からそうせんか!!そう心の中で絶叫しながら、海馬がずんずんと城之内の元まで歩いて行くと、彼は酷く驚いた様な顔をしてこちらを見つめていた瞳を歪ませて、逆に大声をあげる。

「海馬ッ!!お前何処行ってたんだよ!!オレを置き去りにしてさっさと行っちまうなんて最低だっ、この薄情者!!」
「なんだと?!貴様が先に消えたんだろうが!!オレは途中で待っていたのだぞ!」
「嘘吐け!オレ、直ぐに後を追ったけど何処にもいなかったじゃねぇか!」
「直ぐに後を追った?!それこそ嘘だろうが!足音も何も聞こえなかったわ!」
「お前の耳が悪いんじゃねぇのか?!ちゃんと名前も呼んだのに!」
「オレも呼んだ!」
「嘘吐け!」
「貴様こそ嘘を吐くな!!」

 互いの声の余韻と、感情の高ぶりの所為で荒くなった呼吸音が静か過ぎる教室の空気を震わせる。そんな微かな音すらやけに大きく聞こえるのだ、気付かなかったは有り得ない。それに、この城之内の態度はどうだ。先程までは何でもない事にすら怯えを見せて小さく縮こまっていた癖に、やけに居丈高な態度で人を睨みつけてくる。意味が分からない、イライラする。とにかく、こんな場所からは一刻も早く帰りたい。馬鹿馬鹿しい。

「……もういい。とにかく、目当ての物は見つかったのだろう?帰るぞ」
「おう」
「やけに素直だな……気持ち悪い」
「お前こそ、もう怒ってねぇのかよ」
「怒っているに決まってるだろうが。しかし、それよりもこんな所からは早く帰りたい。帰宅が最優先事項だ」
「そうだな、お化けとか出たら死ぬもんな。絶対死ぬ」
「馬鹿な事を言ってないで早くしろ」
「はいはい」

 件のプリントを軽く纏め、持参していた薄い布製のショルダーバッグに詰め込むと、城之内は直ぐに海馬の元にやって来て先程と同じ様にべったりと纏わりつく様に腕を組む。邪魔だ鬱陶しいと文句を言っても勿論聞く様子はない。仕方なくそのままの状態で歩き出したが、彼も大分慣れて来たのか最初よりは幾分スムーズな歩みになった。広い廊下に二人分の足音が一つになって反響する。

「……暑い!いい加減離れろ!」
「嫌だ。離れたらさっきみたいになっちまうだろ。絶対離さねぇ」
「フン、その割に一人で教室まで行けたではないか」
「その『一人でおトイレ偉いねぇ』みたいな言い方やめろよ。だって待っててもお前来ねぇし、じっとしてても怖いし、教室行ったら落ち合えるかなって思ったんだよ!」
「そう言えば、携帯で貴様を呼びだそうとしたら圏外だったな。ここは、たまに圏外にもなるのか?」
「え、マジ?なった事ねぇけど。つーかオレ携帯持って来てねぇし。どっちにしても無駄だったんじゃね」
「なんだと?!」
「や、だって、いらねーと思ってお前の部屋に……」
「常に携帯だけは所持する貴様が……っ!くそっ、これだから馬鹿と一緒に出掛けるのは嫌なのだ!携帯を携帯しないでどうするのだ!」
「洒落が上手いね、海馬くん」
「黙れ!洒落ではない!」

 付き合ってられんわ!

 そう言って、普通の歩みからやや早歩きになった海馬に城之内は何故か小さな笑いを漏らした。そして、ごめんごめんと口先だけの謝罪をしながら、宥める様に海馬の腕に縋り付いていた手を肩に回す。

「邪魔だ!」
「なんで怒ってんだよ。ごめんって言ってるじゃん。なぁ、もしかして、お前もオレとはぐれてちょっと心細かったりしたのか?」
「何?」
「だから怒ってんだろ?」
「フン、馬鹿を言うな。心細いだと?本当は貴様など見捨ててとっとと帰ってやる所だったんだ。それを踏み留まったオレに感謝して欲しいものだな!」
「ふーん」
「……なんだ」
「ま、そういう事にしておいてあげましょうか。それにしてもお前いつの間にか汗びっしょりだなーここ暑いもんな」
「誰の所為だと思っているのだ」
「はい、オレの所為です。……あ、目に入りそう」

 つう、と海馬の隠された額から滲み出た汗が肌を伝って、目元に向かって流れていく。それをこの暗闇の中でも見る事が出来たらしい城之内は、少しだけ身体をずらして海馬の正面に回り込むと、手でそっとそれを拭ってやる。立ち止まった所為で止まる空気。訪れる妙な沈黙。その雰囲気に僅かに飲まれた海馬は、だからこんな暑苦しい所はごめんだと言おうとして言えなかった。いつの間にか城之内の顔がやけに近くにあったからだ。

「じょ……んっ……!」

 驚いてその名を呼ぶ前に唇を塞がれた、少しカサついた薄いそれは海馬の唇を食む様に覆い被さり、直ぐに合わせを割って、舌を入れて来る。自分の身体が熱いからか、はたまた夜だからなのか、何故かその唇や舌は少しだけ冷たかった。ほんの一瞬、快楽とは違った震えが走る位に。

 少しの間、二人はそのまま体勢で長いキスを続けていた。否、正確には城之内が一方的に貪る形だったが、とにかく抱き合う様にして吐息を絡ませていた。静かな分やはり大きく聞こえる息遣いが妙な高揚感を連れて来るようで、ついには汗で濡れて肌に張り付いたシャツの裾から手を入れて来る。勿論そんなつもりはさらさらない海馬は、先程同様、大きく腕を振って城之内を遠ざけた。口の端から零れる唾液を服の裾で拭って睨みつける。

「……貴様っ!」
「な。ここってすっごく怖いけど、ドキドキしねぇ?」
「するか!馬鹿馬鹿しい、付き合ってられん!帰る!!貴様は化け物とでも戯れていろ!」
「またオレを置いていくのかよ」
「置き去りにされたくなければさっさと来い!」
「可愛くねぇなぁ」
「何とでも言え!」

 腹が立つ。本っっ当に腹が立つ!!

 余りの自分勝手さにいい加減怒るのすら馬鹿馬鹿しくなった海馬は、今度こそ本当に見捨てるつもりでさっさと先に歩き出した。そんな自分に次はどう出るのかと密かに城之内の方を伺っていると、今回は即座に後を付いて来て元通り腕を絡めて来る。そこに一言の言葉も無い。海馬も敢えて自分から話しかけてやる事はせずに、二人は無言のまま無事校舎から外に出た。

 途中守衛に鍵を返し、漸く車の元までやってくる。やはりここでも城之内は口を開かなかった。彼はさっと海馬から離れるといきなり駆け出して車の向こう側に消え、続いてバタン、と反対側のドアが閉まる音がする。その様を眺めながら海馬はせめて礼の一つでも言え、と思ったが、特に期待などしていないので自分も車に乗るべく目の前のドアを引き開けた。

 ……その時だった。
 

「海馬お前っ!!何やってんだよッ!!遅いじゃねぇかっ!!」
 

 いきなり車内から大きな物体が飛び出して来たと思った瞬間、暑苦しい身体が思い切りぶつかってくる。勢いの余り額をぶつけ、海馬が顔を顰める間もなく、その物体……先に車に乗っていた城之内は、殆ど涙目で噛みつく様にこう言った。

「オレ、お前が急に居なくなったから、腹立てて帰っちまったんじゃないかと思って、慌てて車に戻って来たんだ。そしたら磯野が帰って来てないって言うし、人影も見てないって言うから、すっげー焦って。しかたねーから守衛さんに頼んで一緒に校内見て貰ってさ、ついでにプリントも取って来て、お前の事探したんだけど全然見当たんなくって……!」
「……は?」
「もうどうしようもねぇからここに戻って待ってたんだ!ったく、2時間も何処ほっつき歩いてたんだよ!嫌がらせするにも程があるだろ?!何かあったかと思ったじゃねぇか!!馬鹿野郎!」
「……は?」
「携帯鳴らしてもぜんっぜん出ねぇし!お前、携帯持ってただろ?!何で出ないんだ!」
「……いや、凡骨、ちょっと待て」
「死ぬほど心配したんだからな!……って、なんだよ!!」
「オレを、探した?待ってた?2時間?」
「そうだよ!」
「……オレは、つい今しがたまで、貴様と行動を共にしていたんだが?」
「はぁ?!何言ってんだよ、オレはずーーっとここに居たぜ。磯野に聞いてみろよ!」
「いや、嘘では無い。はぐれた後教室で落ち合って、そこから普通に共に帰って来ただろうが」
「来てねぇって!お前、誰と一緒に居たんだよ!?」
「携帯もかけてみたが圏外で、しかも貴様は忘れて来たと言った」
「こんな都会の学校内で圏外になる訳ないだろ!それに、オレが携帯忘れるかよ?財布忘れたって携帯は忘れねぇよ!お前も知ってるだろ?!」
「………………」
「お前、嘘吐くにしてももっと面白い嘘を……」
「………………」
「ちょ、ちょっと待って海馬くん。もしかしてそれ、本当の話?」
「……少なくても、オレに取っては……」
「………………」
「………………」
 

 数秒後、広い車内に大絶叫が響き渡ったのは言うまでも無い。
 

 その後海馬邸に戻り、余りにも遅かった二人を出迎えたモクバはぎょっとして海馬に駆け寄って一言、こう口にした。
 

「兄サマのシャツ、右側になんか変な沁みが付いてるけど、これ、何?」
 

 それから暫く、海馬が城之内の怖がりを馬鹿にする事はなかったという。
 

 ── 真夏の夜に起こった、至極不思議な出来事である。