恋人繋ぎ

 耳の横で割れる酒瓶の破片を除けながら、オレは握りしめた携帯に向かって、特に焦りもしないで声をあげる。

「ごめん、ちょっと避難させて」

 すると、相手は素気なく『だろうと思った。音が聞こえるからな』と答えると、少し優しい声で『くればいい』と言ってくれた。サンキュー。こんな事態なのにやけに間延びした声でそう言うと、オレは未だ赤い顔をしてこっちを睨みつけて来るオヤジに「ちょっと出てくる。片づけておけよ」とだけ言うと、破片を踏まない様に気を付けながら玄関へと向かい、逃げるように外へ出た。

 外側から鍵をしっかりかけて、これまた外からかけるタイプのロックをがっちりかける。こんな市営の安い団地型マンションにそんな備えは普通しないけれど、オレん家のこれは家の中の物を守るためのものではなく、家の外にいる近所の人達を守る為だ。酒乱の大男を外に出すわけにはいかねぇからな。

 中でまだ暴れている音がしたけれど、それに背を向けて、オレは数歩歩いて今連絡を取った相手の家のインターフォンを鳴らした。聞き慣れた安っぽい機械音が鳴り響き、ドアはすぐに開けられる。

「よ、毎度悪いな」
「今日は怪我はしなかったんだな」
「最近避けるの上手くなってよ。8割超えたぜ」
「残りの2割で致命傷を負わない様に気を付けるんだな」
「はいはい」
「では入れ。こちらも少し取り込んでいるから構ってはやれんがな」
「あれ、どしたの?」
「モクバが熱を出した」
「あー昨日すげぇ雨降ったもんなぁ。夏風邪か」
「多分な」

 そう言いながら開いたドアを内側に引きながら手招きをする隣人の男……海馬瀬人は、オレが中に入るのを見届けるとさっさと踵を返して部屋の奥へと引っこんでいく。その後を特に気兼ねなくついて行きながら、オレは毎度の事ながら同じマンションに住んでいるとは思えないほど綺麗に整った室内を眺めつつ、薄いガラス扉の向こうから聞こえてくる会話に耳を傾けた。確かに、小さな咳が聞こえている。

 構わず扉を開けて中に入ると、なるほど少し薄暗い奥の部屋で布団に横になっているらしいモクバとその傍に膝をついている瀬人の姿が目に入った。オレが遠慮がちに顔だけを出すと、すぐにそれに気づいたモクバが熱で少し赤くなった目をこっちに向けてにこりと笑った。

「……あ、城之内じゃん。また避難?」
「よぉ、モクバ。具合の悪いとこ邪魔して悪いな。おさまったら帰るからよ」
「いいよ別に。煩くしなければ」
「……努力します。ってあれ、海馬何所行くの」
「家に何もないからな。買いに行く」
「あ、オレも一緒に行く!」
「お前はモクバについていてくれ」
「いいよ兄サマ。オレ一人で寝てる方が楽だから」
「……そうか?では早めに帰ってくる」
「うん」
「そうと決まればさっさと行こうぜ。駅前のドラッグストア、確かチラシ入ってた気がする」

 さ、早く早く。次の行動が決まると動くのが早いのはオレの方で、未だモクバの横でぐずぐずしている海馬の腕を引っ張って立ち上がらせて、ズボンの後ろのポケットを触って財布が入っている事を確認すると、そのままさっさとその狭い部屋を後にした。今日は土曜日で学校は休みだからあちこちでガキのはしゃぐ声が聞こえる。ひょいと玄関前の廊下から下を覗くと、団地内の小さな公園のショボイ遊具に群がっている小さな頭が一杯見えた。

「お前、今日バイトは?」
「休んだ。放っておけないしな」
「大丈夫なのかよ」
「代わりに明日のシフトが倍だ。ほぼ一日だな」
「大変だなー」
「お前はどうなのだ」
「オレは元から今日は休み。だからゆっくりしようと思ったのに朝から帰って来やがってあのクソオヤジ」
「そう言えば一週間ぶり位だったな」
「そうかも。どこ行ってたんだろな」

 あーあ。知らず口から洩れる声に、隣に並んで歩いていた海馬がさりげなく手を差し出してくる。当然すぐに握り絞めて指と指をぎゅっと絡める恋人繋ぎを仕かけると、オレは特に凹んでない事を示すために軽く鼻歌を歌い始めた。安っぽいコンクリートの階段を降りる二つの足音が、へたくそな鼻歌と交じって消えて行く。

 隣の海馬と知り合ったのは確か高校の入学式の前日だった。弟と二人きりでこの団地に越してきたこいつは、聞けば親はとっくの昔に死んじゃって、親戚をたらい回しにされた揚句孤児院に放り込まれ、その後金持ちの社長の養子になったけれど、その親も死んじゃって会社は倒産、結局はまた弟と二人になって、義務教育を修了したのを切っかけにこのマンションで二人暮しを始めたらしい。

 それだけでも結構壮絶な人生だけれど、それに加えてこいつの肩には養い親が経営していた会社の借金が圧し掛かっているらしい。そんなん養子なら関係ねーじゃん、ってオレが言ったら元々その会社を継ぐ為に引き取られたっつー経緯があるとかで、結局のところ負の遺産をも全て引き継いでしまったらしい。

 若い16のみそらで親も無く、あるのは庇護しなければならない弟と借金だけとかどんだけなんだ。オレも小さい頃に親が離婚して、妹とは離れ離れになり、酒乱の父親の面倒を見つつこいつがギャンブルで作って来る借金の返済に追われてたりする訳だけど、海馬の事を考えるとそんなん別に大した事ないんじゃないか、なんて思えてくる。少なくてもオレには親はいる訳だしな。けれど、海馬に言わせればオレの方が大変だと思ってるらしい。そんな事で争ってもしょーがないから、じゃあお互い大変だなって事にした。

 そう口にすると、不思議とあまり大変だと思わなくなった。

 オレらはたまたま『県下で一番学費の安い公立』って事で選んだ所為か高校も一緒で、何故かクラスまで一緒。席は隣!……なんていうほとんど奇跡的な運命の巡り合わせで朝から晩まで顔を突き合わせていたら、いつの間にか好きになって、いつの間にか恋人になっていた。

 何がどうなって時間が合えば同じ布団に寝るようになったのか、余りはっきりした事は覚えていないけれど、とにかく、気がつけばそうなっていた。その点に関しては余り深くは考えてない。こいつとは最初からこうなる予定だったのかなって思えば、それで気持ち的に解決したからだ。我ながらお気楽な事で、と思ったけれど、その位の楽観さがないとこんな人生やってられない。

 でも『こんな人生』で良かったと思える瞬間が最近は増えてきた。こうして場所には問題があるけれど休日に二人一緒に出かけたり、手を繋いだり出来る事が単純に嬉しい。近頃はオレも海馬もバイトバイトでなかなか顔を合わせる事も出来ないから余計にだ。

 オレは主に体力勝負出来る肉体労働系、海馬はめちゃくちゃ頭がいいから年齢を偽って塾の講師と家庭教師(あとから聞いたら高校も入学金・授業料免除の特待生扱いらしい。ありえねぇ)それぞれ全然畑は違うけど、ハードさは似たり寄ったりで、たまの休みと言えば家でぐったり。そんな毎日が続いている。だからこそ、こんな些細な事でも幸せを感じたりして。まぁ、家では親父が暴れていたり、弟が熱を出したりしてる訳だけど。それはそれ。
 

 

「あ、冷えピタやっすいじゃん。オレも買ってこうかなー。って……財布家だし」
「三千円までなら貸してやってもいい」
「いいや。オレの財布の中身、それより少ねぇもん。給料日まできついなーやっぱ日雇いがいいよな。即現金手に入るし」
「お前は金を手にするとすぐ使おうとするから給料日制が丁度いいんだ」
「そーだけどー。あーたまには豪華な焼肉とか食ってみたいなー。駅裏に出来た焼き肉食べ放題、二時間で1500円だって。安くね?」
「お前の何日分の食費だ?それは」
「……えーと」
「小市民的な贅沢は後で空しくなるだけだぞ。下らない事を考えてないで自分の食いぶちの事を考えろ」
「寂しい話」

 ドラッグストアの狭い通路の真ん中で、『特売品!』と書かれたポップの前に立ちながら、生活費需品を手に取ってそんな話をする高校生二人。傍から見るとすげぇ異様な光景だけど、これがオレ等の日常だから気にしない。相変わらず片手は繋いだまま離れがたくて、その所為で何かと不便だけれど気にならなかった。

 明日も、明後日も、色んな意味で綱渡りのオレ達だけど、今までなんとかやって来れたんだから、これからだってやって行ける。例え給料日前のご飯が一日一食でも、壊れたシャープペンを自力で直しつつ使っていても、なんとかなってる、大丈夫。

「今日家に帰れるかなー」
「帰れなかったら泊って行けばいいだろうが」
「お前んち予備の布団ねーじゃん。お前もモクバにあれ占領されてたら寝る場所ないくせに」
「まぁなんとかなる」
「ほんとかぁ?」
「毛布一枚あればどこでだって寝れるだろうが」
「そういう『なんとか』ね。そうですね。逞しいやつ」
「お互い様だ」

 うん、確かに。オレもそういうの慣れてるけどね。

 今日は夕食は皆で雑炊で我慢して、モクバの為にちょっと高い栄養ドリンクを一本買ってやろう。

 そう言って、オレの二日分の食費とほぼ同じ値段の某有名メーカーのドリンクを一本かごに入れた海馬の顔を呆れたように眺めながら、オレはやっぱり幸せだなぁと改めて思った。
 

 例え金がなくても、優しさと愛情に満ちているから。

 それじゃあ、満腹にはならないけれど、仕方がない。
 

「雑炊ねー。玉子ある?」
「ないな」
「悲しすぎる」
「文句を言うな、避難民」
 

 はいはいそうですね。所持金ゼロの避難民に発言権はありませんよ。そう言って口を尖らせたオレを何気なく見返して、海馬は一瞬目を細めて笑った。

 そして、繋いでいた指に、少しだけ力を込めて握りしめて来た。