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「喧嘩、したんだ。友達と」
「喧嘩か、珍しいな」
「もうすっごく頭にきて、そいつ置いて帰ってきちゃった」
「そうか」
「そうかって、兄サマ酷い。オレの話聞いてないでしょ」
「聞いている」
「嘘。オレの事みてないじゃん。何かあった?」
「別に。とりあえず、鞄は中身を回収してソファーの上にでも戻しておけ。携帯はその程度ならデータは破損してないだろう。短気を起こしてモノに当たるな。後で後悔する羽目になる」
「経験者みたいな言い方だね」
「ああ。ただし、オレの場合はもっと派手で取り返しのつかない事になるから……自粛しようと……今思った」
「?……今って何?……それにしても携帯投げたのはやりすぎたなぁ。ブルーアイズのストラップ壊れちゃったよ」
「オレの部屋にまだいくつかあるぞ。勝手に持っていけ。試作段階のものしかないがな」
「えっ、ほんと?ラッキー!あれもう売ってないからちょっと悲しかったんだ」
 

 先程までの怒り顔は何処へやら、上機嫌で部屋中に散乱した鞄の中身を一つ一つ拾いながら、モクバはにっこりと笑って瀬人を見る。

 その様子を些か呆れて眺めると、瀬人は小さな溜息を吐いて手にした本に視線を落とし、モクバが部屋に入ってくるまで一人静かに行っていた……白い紙面をびっしりと埋め尽くす文字の羅列を再び追い始める。しかし常ならば即座にすらすらと頭に入っていくそれは、今日に限ってなかなか次の頁へ進む事が出来なかった。その事に瀬人は僅かな苛立ちを覚える。

 原因は、分かっていた。
 ほんの数時間前の喧嘩が今でも尾を引いている。本気で怒った相手の顔が、眼前にチラついて離れなかった。
 

『結局さ、お前はオレの事なんかどーでもいいんだ?優先順位で考えたら最後から数えた方が早いだろ?』

『ふざけんなよ!!オレが何時までも我慢してると思ったら大間違いだぞ。もう限界だから我慢なんてしねぇ!』

『お前がちゃんと謝るまで絶対に口きかねぇから!たまには反省しやがれ馬鹿野郎!』
 

 切欠は普段と同じ様にきちんとアポを取って城之内がやって来たのにも関わらず、なかなか仕事から手を離さない瀬人に対して彼がキレた事から始まった。今日はたまたま仕事でトラブルが相次いで疲れていたし、苛立ってもいた。だからとは言わないが瀬人も虫の居所が悪く、いつもよりも少々刺々しくあしらってしまった。それが、悪かったらしい。

 瀬人の抑揚のない一言が終わる前に思い切りそれを遮った城之内は、まるで駄々を捏ねる子供のように癇癪を起こし、上記の台詞を続けざまに吐き捨てると勢い良く部屋を飛び出して行った。それっきり、音沙汰はない。

 その様子をただ驚いたように眺めるだけだった瀬人は、一人残された部屋の中で暫し今しがた起きた騒ぎの事を考えてみたが、どう考えても自分に落ち度はなく、勝手に怒って出て行った城之内に問題があると結論づけて、釈然としない気持ちを抱えて仕事を続けていたのだが、時間が経つにつれて沸々と怒りが湧き上がり、まるで集中できなくなった。

 仕方なく仕事を諦めて、彼が読む本の中でも最も難しくつまらない本……それを読むと余計な事を考えずに済み、徐々に気持ちが落ち着いてくる代物……を抱えてソファーに座り込み黙読していたのだが、今日に限って気持ちはおさまるどころか逆上し、あわやA4サイズ厚さ20センチの本が凶器よろしく脆い硝子戸棚に激突か?!という事件が起きる寸前だった。

 瀬人の腕が振り上がるより早く、物凄い勢いで部屋に入ってきたモクバが、自分の鞄と携帯を思い切り床に投げ捨てて、「馬鹿野郎ッ!」と叫んだのは。

 その余りの剣幕に、瀬人の怒りが見事に消し飛んだのは言うまでもない。
 そして話は、冒頭の会話に繋がっていく。
 

 
 

「非売品だー!カッコいいじゃん!ありがとう兄サマ!」
「お前、本当に怒っていたのか?」

 瀬人の言葉に早速兄の部屋へと向かったモクバは、瀬人が指定した通りの場所から件のストラップを持って来て、大事そうに握り締めていた。そんな彼の事を読むのを諦めた本を側に投げ捨てながら瀬人はまじまじと見つめ、何気なく先程は聞けなかった理由を聞いてみようと声をかけた。すると笑顔から一転して元の怒り顔に戻ったモクバがキッ、とこちらを睨んで、勢い込んで口を開く。
 

「怒ってるよ今でも。すっごく。だってあいつオレの言うこと全然聞いてないんだ。落ち込んでるみたいだったから一生懸命慰めてやったのに『煩い』『構うな』って言うんだぜ?酷くない?!」
「………………」
「オレはただ、あいつに元気になって貰いたかっただけなのに……」
 

 でもやっぱり、怒鳴って置いてきちゃったのは悪かったかな。最後にそんな言葉を付け足してそう『理由』を口にしたモクバの声を聞きながら、瀬人は胸に少しだけ痛みを感じた。今のモクバの話に、先程出て行った城之内の事を思い出す。目の前で溜息を吐くその姿がまるで彼の様に見えたからだ。

 勿論城之内が同じ事を思って自分へあれこれ話しかけて来たとは限らない。けれどよく考えれば普段よりも大分口数も多かったし、かけられる言葉もこちらを気遣う内容が殆どの優しいものばかりだったのだ。
 

 それを素っ気無く跳ね除けてしまった。怒るのは当然だ。
 

「……そうか」
「……謝ったほうがいいかな。あいつに」
 

 硬い床に投げつけた所為で半分に折れてしまった携帯を眺めながら、モクバは小さな声でそう呟く。

 温厚なモクバがここまで怒りを露にしたのだ。きっと城之内も何処かで同じ事をしているのかも知れない。自分への暴言を吐きながらモノに当たって、後に後悔をしているのかもしれない。それを思うと、瀬人は妙にいたたまれない気分になった。

 項垂れるモクバの横顔をじっと見つめ、瀬人は不意に席を立って携帯を拾いあげる。二つに分かれてしまったそれをそっと両手で包み込み、モクバへと向き直る。
 

「いや、相手の言葉を待った方がいい。きっと、向こうもお前に謝りたいと思っているはずだ」
「え?」
「お前の誠意を解する余裕がなかった相手が悪いのだ。放っておけ。この携帯は、オレが新しいものに取り替えてやる。とりあえず、部屋に戻って着替えて来い」
 

 瀬人のその言葉にモクバは少しだけほっとした様な顔を見せると、素直に兄の言う事に従い部屋を出て行く。その足音を遠くに聞きながら、瀬人は手にした携帯を先程まで座っていた机の上に置き磯野へと連絡すると、代わりに自分の携帯を手に取った。そして、城之内の名前を探すと、通話ボタンに手をかける。
 

 今の言葉は、その実自分に言い聞かせた言葉だった。
 悪いのは自分だ。そう、思ったから。
 

 なかなか出ない相手の声を待ちながら、瀬人は頭の中で最初にどういう言葉をかけようかと考えていた。

 きっと今頃モクバの喧嘩相手も同じ様な言葉を探して頭を悩めている事だろう。早くこの携帯を直してやらなければ。眼下の無残なそれを眺めつつそんな事を考える。

 数秒後、携帯の向こうの呼び出し音がふっと消えて、背後の雑音と共に沈黙が訪れた。それに瀬人はふっと小さな笑みを見せると、出来るだけ真摯な声ではっきりと……謝罪の言葉を口にした。
 

 その言葉に、相手である彼は数分後……再びこの屋敷に訪れる事になり、二人で壊れた携帯を眺めながら、少し落ち込んでいるモクバを励ましつつ、いつもの夜を迎える事となるのだ。
 

 ── ありふれた日常における、ほんの些細なシンクロナイズ。