Beautiful face

「……ひっ」

 その映像を見た瞬間、海馬は思わずその場に硬直し、上がりそうになる悲鳴を口元を手できつく抑える事で必死に堪えた。常には細く鋭い切れ長の瞳は、これでもかと言う程大きく見開き、少し離れた場所にある最近漸く買い換えたばかりだと言っていた小型液晶テレビの画面に釘付けになる。

 同じくその画面に魅入っている……と言うよりも惰性で眺めているような態度で居る、この部屋の主でもあり海馬の恋人でもある城之内はリモコンを片手にDVDデッキとしきりに格闘しているようだった。その所為か、背後の海馬に気づく様子も無い。海馬もこの家に無言のまま入るのはいつもの事だったので自分が来たという自己主張を特にしないでいた。

 よって、この状況は必然的に作られたものなのだ。
 

『──あっ!……ん…っ、ぁ…んぁ……』
 

 静かな室内に断続的に響いているのは、どこをどう聞いても淫猥な喘ぎ声とそれに付随するいやらしい音。この部屋に尋ねてきた当初、また安物のAVでも見ているのかと呆れた気持ちで一杯になった海馬だったが、よくよく聞いてみるとその喘ぎ声はどこかで聞いた事のあるもので、一体何処でだったかと考えを巡らせつつ城之内がいる部屋に入ろうとした瞬間、テレビに映る映像に己の全てが凍りつくのを感じたのだ。
 

『な、海馬。今日さ、こっそり特別な事してるんだぜ?』
『と、特別、とは、何だ?』
『お前に知られると絶対に怒られるから言わないけど。ちょっとこっち向いて。そうそう』
『……ちょ……何っ……はぁ…んぁ!く…っ』
 

 通常のテレビ番組よりは些か不鮮明な映像の中で会話しているのは、紛れも無く今ここに存在する海馬と城之内で。何時やったものか分からないプライベートセックスが延々と流れている。画面の中の城之内が口にした通り、これは撮る気で撮った映像なのだろう。その証拠に映像栄えするアングルに対する拘りのようなものが時折言葉として発せられ、その度に海馬を上手く誘導する。
 

 ── こんなもの、いつ、撮られた?!
 

 映像から察するに場所はどこをどう見てもこの部屋で。この部屋という事は仕かけたのは勿論城之内で。それを何に使用するのかは考えたくないが、嫌がらせでない事を願うばかりだ。そんな事を何時の間にか嫌悪の為に震え出した身体を扉の前で必死に支えながら、海馬は比較的冷静にそう考えていた。

 しかし。思考は冷静でも、それ以外の面は余りの衝撃に大混乱を起こしていた。その映像を撮られた事に対するものではない、その映像に写っている己の姿にショックを受けたのだ。

 勿論海馬は普通の人間であるから、通常自分の事など鏡を通して以外に見る術は無い。だから自分が常にどんな顔をしているか、どういう振る舞いをしているか、意識でもしない限りは気付かないのだ。

 ましてやセックスのようにそのものに夢中になり意識すら何処かに行ってしまうような事をしているとあれば、そんな余裕など一欠片も無くなってしまう。よってこれまで『その時の自分がどんな状態にあるのか』など考えすらしなかったものを、いきなり生々しい映像と共に眼前に突きつけられて、その余りの惨状に海馬は驚愕したのだ。

 元々余り好きではない己の顔が、きつく閉じられた瞼からはぼろぼろと涙を零し口の端からは途切れる事無く涎を垂れ流して、大きく醜く歪んで喘いでいる。殆ど必死に城之内の肩を掴む爪先は彼の日に焼けた肌を掻き毟り、幾筋かの赤い痕を付けていた。中には薄く血が滲んでいるものもある。

 城之内に抱えられ、大きく広げられた足はがくがくと揺さぶれる動きに引き連れるように痙攣し、既に幾度か達しているのかどちらのものかは分からない白い精液がところどころに飛び散って滑っていた。断続的に響く悲鳴のような気持ち悪い己の喘ぎ、泣きじゃくる声、時たま面白そうにそれを揶揄する城之内、響く粘着質な水音、軋むベッド。

 そのどれもに強烈な嫌悪を感じた。醜い、汚い、気持ち悪い、怖気が走る。そんな負の感情で埋め尽くされた心に身体も呼応し、強烈な吐き気が海馬を襲った。

「── うっ……ぐっ……!!」

 慌てて口元を押さえる手はそのままにバスルームに駆け込んでトイレに屈み込み思い切り吐いた。夕食を食べたばかりで余り消化されなかった何料理だか忘れてしまったそれの残骸が胃液と共に吐き出され、震える手で引いたレバーによって水と共に流されていく。

 幸い嘔吐感は持続せず、一度吐いただけで留まった。のろのろと身体を持ち上げ、直ぐ横にある洗面台で口を神経質に幾度も漱ぐ。それでも、全身の震えは収まらず、ついにはずるずるとそこに座り込んでしまった。身体に力が入らず、立ち上がる気力も無い。

 知らなかった。自分が、あんな風になるなんて。セックスとはあんなに汚いものなのだと。

 勿論頭の片隅では理解していた。行為そのものの事を考えれば普段は決して触れる事の無い不浄の箇所を舐めたり噛んだり、結合させたりする行為。もともと潔癖症の気がある海馬は普段から常に清潔を心がけていた。自ら触れるもの視界に入るものの汚れを厭い、何処を触ったか分からない他人と接触するのを酷く嫌う節があった。今でもそれは変わらない。

 けれど、城之内と付き合うようになってからは多少は改善されてきた。尤も、そうでないと清潔など二の次三の次と豪語するこの男とは共に居られないからだ。最初は胃が痛くなる程ストレスを感じたりしたものだが、今は大分慣れてきた。セックスもそれと同じで、夢中になってしまえばそれがどんな行為かを忘れられた。自分のしている事さえ分からなくなった。僅かな嫌悪より快楽を追う事に必死になった。そう、変えられて来た。他でもない城之内に。

 だが、現実を見せ付けられてしまった今、それまで意識しないようにと封印していた何かがものの見事に解かれてしまったのだ。
 

 もう、駄目だ。二度とあんな事は出来ない。したくない。汚い姿を、見られたくない。
 

 他の人間が聞けば「今まで散々見せておいて何を今更」と呆れ返る事柄だったが、海馬は至極真剣だった。一刻も早くここから出て行かなければ。殆ど恐怖めいたそれに囚われて、未だ良く動かない身体で必死に立ち上がろうとしたその時だった。
 

「海馬?!お前、来てたのかよ?」
 

 鍵をかけるのを忘れた扉の向こうから、内部を覗くようにひょいと顔を出した城之内が暢気にそんな声をあげる。

「来てたんなら何で声かけねーんだよ。トイレで何やってんの?真っ青な顔して、どっか具合悪い?」
「………………」
「とにかく、もう用ないんなら部屋行こうぜ。風呂入りたいんなら、そのまま入ってもいいけど。今の時間ここに来たって事は泊まりに来たんだろ?会社からまっすぐ来たの?」
「………………」
「なんだよ。何か言えよ」

 もー、と余り困った風ではない声を出しながら、城之内が狭い室内に入り込み、洗面台の下に殆ど座り込んでいる海馬の前に膝を着く。そして少し俯き加減のその頬に手を伸ばそうとした瞬間、それは鋭く翻された海馬の手によって思い切り弾かれた。小気味いい衝撃音が、バスルームに木霊する。

「痛っ……何だよ?!」
「オレに触るな!」
「はぁ?お前どーしちゃったの?今日会社でなんかあった?」
「会社では何も無いッ」
「え、じゃあ帰宅途中にでも何かあった?」
「それも違う!」
「じゃあ何だよ。言ってみ?」

 弾かれた右手をゆるゆると撫で摩りながら、それでも怒った様子はまるで無い城之内に、逆に海馬は苛立ちを感じる。

 何が言ってみ?だ。あんな悪趣味なものを人に黙って撮影して。まるで普通のテレビ番組を見るようにだらりとした態度でつまらなそうに眺めていて。大方、こいつ変な顔、とかこんなになって気持ち悪いとか、その逆で面白いとか、そんな事を思っているのだろうが。

 その内それを、お前こんなになってるんだぜ、なんて嫌がらせの為にオレに見せるつもりだったのか。そして後生大事にそれを取っておいて何かの時に脅しの材料にでもするつもりか。大体オレをそうしたのは貴様だろうが!ふざけるな!最低だ。最低すぎる!!

 大半が思い込みで構成されたそれを幾度も頭の中で再生して、沸々とした怒りに顔を強張らせながら、海馬は相変わらず暢気に己を見つめている城之内をキッ!と睨みつけ、怒りの為に震える声でこう言った。

「あの、悪趣味な映像はなんだ!」
「えっ」
「貴様がさっき見ていた、最低最悪な映像の事だ!」
「ゲッ、ヤバ……見られた?あっちゃー」
「見られた、ではない!貴様、あんなもの何時撮った!何故撮った!どうするつもりだった!!」
「わ、ご、ごめん。あれはその……まあ、なんだ……」

 寂しい時の一人上手用にと思って……とか何とかぼそぼそと言い訳する城之内の顔をその台詞は全く耳に入れず心底激怒して見つめながら、海馬はぐっと唇を噛締めると自分自身の思考に自分で酷く傷ついて、結果じわりと熱くなる瞳に気付かないフリをして、思い切り叫んだ。

「オレはもう、二度と貴様とはセックスはしない!絶対だ!」
「……え?ちょ、ちょっと待って。なんでそうなんの?マジどうした?こっそり盗撮した事、そんなに怒ってんの?」
「当たり前だ!……だが、問題はそこではない!」
「……盗撮以上に問題があるのって、どこでしょうか、海馬くん。って!えぇ?!なんで泣くんだよー訳分かんねぇよ」
「………………」
「オレがやっちゃった事は謝るからさ、何でセックスしたくないとかいうの?何が嫌だった?嫌なとこ直すから、そんな事言うなよ」
「………………」
「もー。海馬ぁ」

 城之内の声に、止まるどころかますます溢れてくる涙を拭いもせず、海馬は今度は涙を流した所為で顔をあげる事が出来なくなった。ああ、あの映像の中の自分の様にまた汚い顔をしている。それが悲しみだろうが快楽だろうが、自分の歪む顔は至極醜いのだ。分かってる。だから、もう城之内とはセックスをしたくないのだ。好きだから、見せたくない。

 頭上から降ってくる困り果てた声に応える事も出来ずに海馬はただ勝手に漏れ出てしまう嗚咽を堪える事もせずに吐き出しながら、ゆるゆると首を振った。そんな相手の様子に処置無し、と頭を抱えた城之内はとりあえず落ち着かせようと目の前の肩を抱く、そして俯いたまま決して上げようとしない顔を上向かせる為に顎を掴んだ。その手に海馬は目一杯反抗する。

「顔上げて」
「嫌だ」
「何で」
「見せたくない」
「泣いてるから?」
「………………」
「じゃー泣き止んで。何回でも謝るから機嫌直せよ。そいで、セックスしよ」
「嫌だ。しない」
「オレが嫌いになったのかよ。さっきのアレ……えっと、メモリアル映像は……その、なんていうか、下手なAVよりも興奮するから……撮って置いてお前に会えない時それ見て過ごそうかなーって思って……まあぶっちゃけて言えばオナニー用のオカズなんだけど」
「嘘吐け。嫌がらせの癖に」
「嘘じゃないって!……って、嫌がらせ?なんでアレが嫌がらせ?」
「あんなものに興奮するものか。汚いし、醜いし、おかしい!最悪だ!吐き気がする!」
「えっ」
「今だって汚い。こっちを見るな!オレから離れろ!」
「海馬」
「もう嫌だ!全部……っんぅ!」

 そう勝手に次々と吐き出される海馬の叫びを封じる様に、城之内の唇が半開きのそれを塞ぐ。突然のキスに一瞬何が起きたか分からない海馬だったが、状況を即座に判断し渾身の力で逃れようとするが、それより先に彼にきつく抱き締められてしまい、それは上手く行かなかった。

 結局されるがままに口内を蹂躙され、頬を伝い顎を流れていく涙に唾液が混ざる事態となり、酷い有様になっていく。それでも、城之内は全く気にせずキスを続け、最後にはその唾液と涙まで舐めとった。

 信じられないと、青の瞳が驚愕する。

「なーんだ。お前、そんな事気にしてたの?自分の顔が汚いって?」
「か、顔だけじゃなくて」
「オレさー自分で言うのもなんだけど……つーか言っても信じて貰えないけど。結構好みにはうるさいんだぜ?女でもブスは嫌だし、男なんて問題外。ダチ以外触るのも嫌だね。だって男なんて汚ねぇだろ」
「…………は?」
「でも、お前は全く別。全部好き。どこも汚いなんて思わねぇよ。顔なんてむしろもっとぐちゃぐちゃにしてやりたいって思う位。気持ちよく鳴いてる声と顔見てるだけでイける自信あるねオレは。だから、正常位とか座位とか騎乗位に拘るだろ?全部お前の顔がみたいからなんだぜ?」
「!!……そんっ……」
「オレがあのDVD何回みたか知ってんの?アレで何回抜いたと思う?大体オレ、お前の体の中まで知ってるんだぜ?今更そんな事言われても笑えるだけなんだけど」
「城之内!」
「だから、しよ?セックス。あっちの部屋で。このまま」
「ちょ、ちょっと待て!オレは!……そ、それにするのならシャワーを」
「どーせ『汚く』なるんだろ、そんなんいいじゃん。それにオレ、『清潔は二の次』だし?」
「だが……っ」
「お前、もうちょっとその思い込み激しい性格直した方がいいよ。後、自分の事も良く知った方がいいと思う。一体どれだけの人間が海馬コーポレーションの若社長を欲しがってると思ってんだ。お前が嫌がる『汚い顔』を思い描いて悦に浸ってる人間なんて腐る程いるんだぜ」

 オレも勿論その一人だけど。オレってすげー幸せもの、そう思わねぇ?

 殴りつけてやりたい程清清しい笑顔でそんな事を言いながら、城之内は立ち上がり眼下の海馬に手を差し出す。その手に右手を預けると、酷く熱く湿った感触が伝わった。その手が齎す様々な快感を思うだけで、海馬の身体が細かく震える。口内に、唾液が滲む。
 

「今日は何しよっか。手でも縛る?」
 

 そう言って強く引く手に、海馬は抗う事を忘れてしまった。これからするセックスに対する数多の嫌悪や汚辱感と共に。
 

「今夜一杯見せてくれよな。お前の『綺麗ないい顔』を」
 

 その囁きと共に城之内が海馬の肩を、きつく抱く。
 

 そしていつもの夜が……淀みなく始まるのだ。