Act2 「取って来い」なんて使い走りもシアワセさ

「……確か扉側から三つ目の……上から二段目とか言っていたな。似たような背表紙で分からないぞ。おいモクバ。瀬人はどれだと言ったかな」
「えー?お前二回も聞いてまだ覚えられないのかよ。ちょっとオレを持ち上げて!」
「よし、こっちに来い。動くなよ」
「うわっ、高っ!兄サマ達ってこんな高い目線で生活してるのかー羨ましいなぁ。あーオレも早く大きくなりたいぜぃ」
「瀬人の弟なのだからきっとお前も大きくなるぞ。瀬人を抜かすかも知れないな」
「兄サマより大きくなったら、兄サマのこと抱っこしてあげるんだーオレ」
「抱っこ?……何故?」
「だって、兄サマはオレの事一杯抱っこしてくれたけど、兄サマは誰にもこういう事された事ないんだぜ。オレ、兄サマから抱っこされるの大好きだから、オレもしてあげたいなーって」
「なるほど」
「えぇっと……あ、あった。これだぜぃ!」

 直ぐ目の前にあったじゃん。何を探してるんだよ?!そういうと腕の中のモクバは数ある本の中からあっさりと瀬人に指示された一冊を選び出し、自らを抱えている男に掲げて見せた。現物を目の前にしてもそれが本当に瀬人から指示された本かどうかも分からずに、男は曖昧に頷いて見せると「おろして」の声に従って抱えたモクバを床に下ろす。温かな子供の体温が離れ行くその様にちょっとだけ惜しいな、とらしくなく思いながら、男は目の前ににこにこ笑って早く行こうと急かすモクバの顔を見下ろした。

 そして入った時から特に良く見もしなかった部屋の内部もぐるりと見渡す。

「何やってるんだよ。もう用は無いから行こうぜ」
「瀬人は何故この部屋には来たがらないんだ?」
「え?」
「この間も確か似たような事でここにモノを取りに来た事を思い出してな。部屋からさほど遠くもないし、特に何かあるわけでもない。が、瀬人自身はここに足を向ける様子が無い。何か理由があるのか」
「……そ、それは。オレにも分かんないけど」
「でも心当たりはあるんだろう?」
「あ、うん。何となく」
「教えてくれ。瀬人には言わないと約束する」
「……多分。本当に多分の話なんだけど……」
「ああ」
「この部屋は剛三郎……えっと、オレ達の父親でこの家の元々の持ち主だった男の部屋。あ、父親って言っても奴はオレ達をこの家に引き取って育ててくれた赤の他人だぜ。義理の父親って言うんだけど、血の繋がりは全然ない。あ、そこに写真があるけど、そいつの事だよ」
「その男に、何かあるのか。何の関係がある?」
「兄サマは剛三郎から凄く厳しい教育を受けたらしくって。その内容はオレにも分かんないんだけど、なんか思い出したくないほど辛かったんだと思う。その教育を受けた場所がちょうどこの部屋で、だから兄サマはここには絶対に入らないんだ。入りたく、ないんだって」
「…………………」
「でも、重要な資料とかはここにあるからそうも行かなくて、前はオレや磯野が本なんかを取りに来てあげてたんだぜ。今はお前がいるからお前に頼んでるみたいだけど。本当は、ここには他人は入っちゃいけないんだ。それだけ大事なものがあるんだろうね」

 それを許すどころかむしろ頼ってるんじゃー兄サマはお前の事をよっぽど信用しているのかな。そう言って複雑な表情で笑ったモクバは一瞬見せた悲しみを隠すように「先に行くぜ」と言って本を大事に両手に抱えてパタパタと走って行ってしまう。その後姿を視線で追いながら、男はもう一度改めて塵一つなく整えられた室内を凝視した。

 主のいない部屋は不気味な程静まり返り、その静寂が重い程だ。この空間で遠い昔に起きた事等男には知る術もないが、少し瞳を伏せて忌々しげにこの部屋を名指しし、資料を取ってきてくれと言った瀬人の顔がどこか沈んでいた事を思い出す。その時は意味が分からなかったが、こうして事情を知ってしまうとあの態度の裏に何があるのかなど分かり過ぎるほど分かってしまう。

 余程辛い思いをしたのだろうな。あんなに瞳を歪める程。

 その秘密を少し暴いてやりたいとも思ったが、詮索される事を酷く嫌う瀬人がそれを許すはずも無く、知ったところで今の自分にはどうにもならないという事にも直ぐに気づく。過去など振り返っても何も得られるものなど無い。常にそう言って過去を捨てつつ生きる瀬人の残骸を拾い集める事など無意味なのだ。

 今自分に出来る事は、そんな後ろ暗い事ではなく。

 そこまで考えた男は即座に踵を返して部屋を出ると直ぐ近くにある、瀬人が存在する彼の私室へと足を速める。バタン、と音を立てて扉を開けると、パソコンに向かい真剣な顔をしていた瀬人が驚いたように顔を上げた。そのすぐ横にはモクバが抱えていたあの本が開かれて置かれており、そのモクバの姿は何処にもなかった。

「貴様、何をやっていた。こんな簡単な使いすら出来ないとは使えない犬め!」
「モクバは?」
「モクバ?部屋に帰ったが」
「そうか」

 ならばオレが先に彼のやりたい事をしてやっても分からないだろう。そう思った男は無言のまま大股で瀬人の元へと歩み寄り、訝しげに見上げてくるその顔を無視して唐突に座ったままのその身体に手を伸ばす。驚いた瀬人が何事かと抵抗する前に、男は瀬人の背中とソファーに触れていた足の間に手を入れるとひょいとその身体を持ち上げて、直ぐ様座った自らの膝の上に乗せ上げた。俗に言うこれぞ「抱っこ」の形である。

「なっ?!……何をやっている?!」
「さっきモクバを抱き上げてやったのでな。お前もついでに抱いてやろうと思って」
「い、意味が分からん!」
「聞くところによると、お前は誰からもこうされた事はないというのでな、可哀相な主人の望みを犬のオレが叶えてやる」
「な、何が望みだ!誰も望んでないわこんな事!離せ!!」
「あの部屋で色々と収穫を得たぞ。使い走りもたまにはいいな。……失敗したから御褒美は貰えないだろうが」
「当たり前だ!」
「次の命令を、ご主人様?今度はきっちり要望にこたえてやろう」
「ならば離れろ」
「聞けないな。もう暫くこうしていたい」
「このっ!」
「嫌ではないだろう?モクバは喜んでいたぞ」

 な?そう言って笑いの含んだ吐息を近づいた耳元に吹き付けてやると、未だ逃れるように身を捩っていた瀬人はびくりとして大人しくなる。その様に急に愛しさがこみ上げて、男は最近よくやられていた頭を撫でる行為、というものを腕の中の彼にしてやった。勿論直ぐに「オレは犬じゃない!犬の分際で!」と抗議の声が上がったが、その行為の心地良さを知っている彼はすぐにまた大人しくなった。

「知ってるか、瀬人。今はアニマルセラピーとやらが流行なんだぞ。犬猫の存在に人間は酷く癒されるらしい」
「……無駄な知識をよく増やすな」
「お前に興味がない分野はオレが補ってやろうと思ってな。面白いだろう?」
「面白いわけがあるか!」
「まぁとにかく。オレはペットとしてお前の癒しになってやろうといいたかっただけだ」
「余計な世話だ。駄犬が」
「駄犬ほど可愛いとも言うだろうが」

 ゆるゆると瀬人の頭を撫で摩る大きな手。温かな体温。

 あの部屋にいただろう、幼い小さな瀬人には出来なかった事を、男は今の彼に存分にしてやろうと思った。
 

 例え犬と罵られても。