Act3 「お手」ならいつでも繋ぎたいくらい

「散歩に行かないか」
「はぁ?」
「だから、散歩だ。お前、ここのところずっと会社と屋敷以外の場所に行っていないだろう。それでは健康に悪い」
「何が健康だ。そんなものどうでもいいわ」
「お前が良くてもオレはよくない。だから散歩に行こう。何も遠くじゃなくていい。そうだな、童実野海岸あたりはどうだ」
「……どうでもいいんだが、一つ、言わせろ」
「うん?」
「今、何時だと思う?」
「さぁ、夜中の二時か」
「そんな時間に散歩とか貴様は阿呆か」
「別に時間などどうでもいいだろう。夜中ならば人気もなくて好都合だ」
「行かないぞ」
「散歩もしてくれないような主人は主人失格だ。早くしろ」
「ちょ、服を銜えるな!引っ張るな!馬鹿が!」
「どうしても行かないというのならベッドの上での運動に切り替えるが……」
「たわけ!わかった!行けばいいのだろう行けばっ!」
「その格好だと少し寒い。上着を着ていけよ」
「偉そうに命令するな!」

 草木も眠る丑三つ時。世の中では誰もが眠りつくその時刻に今が夜だという事も忘れていたかの如く、煌々とした明かりがついていた瀬人の部屋で勝手に一眠りをしてすっかり元気になった彼の犬……と勝手に主張している男は、無い尻尾を振りながらつれない主人にじゃれついていた。

 ここ数日、新しい企画の立ち上げで寝る間も惜しんで机に向かう瀬人の少しやつれた青い顔色を眺める度に幾度となく休めと口にした男だったが、おいそれと受け入れるような瀬人ではなく、仕方なく手法を変えて休息ではなく気分転換をさせる事に切り替えた彼は、少々強引なやり口で瀬人を机の前から引き剥がす事に成功した。その手段が何故散歩なのかというと、少しでも身体を動かせば必然的に疲労し、本人の意思とは関係無しに睡眠を取らざるを得ない状況に持っていく事が出来るからだ。

 そんな男の考えを知ってか知らずか、半ば呆れた様に大きく溜息を吐いた瀬人は、煩く横から口を挟む彼の言葉を聞き流しながらクロゼットから薄手のコートを取り出して羽織り、まさに散歩直前のはしゃぐ犬のような顔でこちらを見る男を一瞥してくるりと踵を返して部屋を出る。

 ギィ、と音を立てて開かれた扉の向こうには大分明度が落とされた静かな回廊があり、使用人すらも皆寝ている邸内は不気味に沈黙している。それを特に気にも留めず靴音を響かせながら闊歩し、すぐ後ろをついてくる男を振り返りもせずに瀬人は常に開かれているエントランスとは対極の位置にある夜用の出入り口から外に出た。

 冷やりと湿った夜の空気がコートを羽織った身体に纏わりつく。夜中の割りに意外に明るい屋外に自然と目線を頭上へと向ければ、そこには綺麗な満月が浮かんでいた。雲ひとつ無い夜空に浮かぶ黄金色の真円の光。

「綺麗だな」
「たかが月だろう。どうでもいい。で、何処へ行くって?童実野海岸だか埠頭だか知らんがアレは車でなければ無理な距離だ」
「そうか。ならば別に何処でも構わない。お前が疲れない程度に歩けばいい。散歩のコースは主人が決めるものだろう」
「フン、貴様のテリトリーはどこまでだ」
「オレの?この間は高校に行ってみたぞ。遊戯に連れられてな、放課後の部活動とやらを眺めてきた。なかなか面白かったぞ」
「?!その格好でか!」
「いや。お前の制服を借りて。丈はちょうどいいんだが幅が足りないぞ。ボタンが上まで嵌らなか……」
「借りるな!!何を考えている?!」
「いいじゃないか。オレにもお前の世界というのを堪能させろ」
「良くないわ、馬鹿が!……もういいっ、とっとと行くぞ!」

 背後の男があの青の学ランを着ている所を想像し余りの似合わなさに絶句しつつあきれ返ると、瀬人はポケットに手を突っ込んで恐るべきスピードで歩き出す。それは散歩といえるような歩みでなく、まさに競歩だ。夜中にいかめしい顔をしてコートに手を突っ込んだ男が猛スピードで歩いている様など通行人に見られでもしたら通報されてしまうかもしれない。それほどまでに瀬人の様子は異様だった。

「待て、瀬人!早すぎる!」
「煩いな。貴様は歩けと言ったんだろうが!なんの文句がある?!」
「大声を出すな。響く」
「ではどうしろと言うのだ!」
「まあそう怒るな。お気に入りの制服を勝手に着てしまったのは悪かったが」
「違うわ!何がお気に入りの制服だ!オレの怒りはそこではな……っ!!」

 ここが外という事も今が深夜という事も忘れて、常と同じ調子で喚き散らす瀬人に、男は即座にその身体を捕まえて騒音被害も甚だしいその口を塞いでしまう。身体ごと腕の中に閉じ込めて思い切り唇を合わせてくるその様に、瀬人はまさかそう来るとは思わずに瞠目し、抵抗も忘れて相手の思うがままにされてしまう。

 さすが犬と豪語するだけあって、男の舌技はなかなかのものだ。巧みに瀬人の口内のを嘗め回し、舌を絡め、唾液を吸い取る。淫靡な音が、遠くを走るバイクの音に混じって耳をくすぐる。

 どこかで、犬が遠吠えする声が聞こえた。

「!……っ、はっ……き、貴様、いきなり何をする……っ!」
「余りにも煩いから口を塞いでやったのだ。今は夜中だぞ。お前がそう言ったんだろうが。吠える主人なぞ聞いた事が無い」
「だ、だからといって」
「手を繋ごう、瀬人。リードの代わりに、手を繋いで散歩しよう」
「……は?」
「海馬邸の周りを一周するだけでいい。それでも結構な距離があるからな」
「………………」
「なんだ、急に黙り込んで。もう疲れたのか?」
「……貴様の存在に疲れたわ」
「そうか。途中でへたり込んだら喜んでベッドまで運んでやる。その後添い寝もしてやろう」
「余計な世話だ。オレはペットをベッドには入れない主義だ」
「入れてくれなくても入るから気にするな」
「気にするわ!!」

 そんな事を言い合いつつ、結局手を握り合った彼等は、それから月を背にぐるりと短い散歩を楽しんだ。早くしろと言いながらぐいぐいと瀬人の手を引く男の仕草はまるで犬そのもので。
 

 ふわりと風に揺れる長い髪はまるで大きな尻尾の如く瀬人の視界にちらついて、離れなかった。