Act4 「戻ってこい」と言われたくて意地を張った

「ああもう煩い上に目障りだ!!ここから出て行けッ!」
「そんなに怒る事はないだろう。何故癇癪を起こす」
「誰が癇癪を起こしてるかッ!人が真剣に仕事をしてるのにも関わらずベタベタベタベタと!!鬱陶しいわ!」
「お前が余りにもオレを構わないからだろう」
「何を偉そうに。毎晩あれだけ構ってやってまだ足りないのかこの馬鹿が!大体貴様のお陰で朝は遅いわ身体はダルいわ、仕事効率は下がる一方だ!少し反省しろ!」
「仕方ないだろう。お前がオレを置いて海外になど行くのが悪い。この一週間オレがどんなに寂しかったか想像出来ないのか」
「貴様など連れて行けるかッ!仕事は遊びではない!」
「貴様『など』とはなんだ瀬人。今の台詞は聞き捨てならないぞ」
「やかましい!いいから出て行け。オレの半径5メートル以内に近づくなこの駄犬がッ!」
「……そうか。良く分かった。ならばそうする」
「ああ、そうしろ!直ぐに帰ってくるなよ!」
「言われなくても帰ってなどこないから安心しろ」

 それは彼等の間では至極当たり前の、日常の些細な喧嘩から始まった。瀬人の海外への長期出張の間日本で待たされる事となった男は、一週間という今までに経験した事がない長い日々を一人で過ごし、かつてない寂しさを味わった。それは直ぐに態度や言葉で瀬人に伝わり、その事を理由に彼が帰国してから三日間片時も離れずに傍にいたのだが、今度はそれが瀬人の不興を買ったらしい。

 元々他人に必要以上に構われるのを嫌う彼は、最初のうちは多少の我慢をしていたものの、徐々に溜まって行くストレスや帰国してからの仕事量の多さに苛立ちを募らせ、ついには堪忍袋の緒をぶち切ってしまったらしい。相変わらずベタベタと瀬人の横に陣取っていた男の頭を思い切り叩き付け、鬱陶しいと叫んだのだ。そして、見事に言い争いの末、男が出て行く結果になってしまった。

 バンッ!と激しい音と共に閉ざされた扉を前に、男はふぅ、とあからさまな溜息を吐いてくるりとそれに背を向ける。特に変化のない表面の態度とは裏腹に、その内心は至極複雑で彼にしては珍しく少々本気で怒っていた。

 なんだあの態度は可愛くない。少々過剰なスキンシップをしただけなのにそんなに怒る事はないだろう。大体自分を置いて一人さっさと海外に行くなどという事をするのが悪い。何も仕事に同伴させろと言っているのではない、向こうに着いて例えホテルに一人放置されたとしても共に行く位いいのではないか。

 そんな事を思いつつ、沸々と湧き上がる怒りのままに男は海馬邸を後にする。勿論行く宛など何処にもないが出て行けと言われ、分かったと応えてしまった以上出て行かなくてはならないのだ。

 少し時間が経てばさすがの瀬人も心配はするだろうが、そんなもの勝手に心配でもなんでもしていればいい。たとえ犬だって何でも主人の言う事を聞いていると思うなよ。リードを離せば後ろなど振り向かず、どこまでだって走っていってしまう事を思い知ればいい。

 男の歩く足は止まらない。今はまだ昼で休日の街は沢山の人々で溢れ返っていた。天気もいいし、気候もいい今日は皆どこかに出かけるのか、あちらこちらで楽しそうな笑顔が見える。

 男はそれに、ほんの少しだけ……悲しくなった。
「あれ?兄サマ、カイは?」
「お前のところにいたのではないのか」
「え?ううん。今日はオレ、あいつの事見てないぜぃ。さっきまで友達んとこに遊びに行ってたし……あんなに四六時中べったりくっついてたのに、今日に限ってどうしたの?」
「別に、どうもしない。もう夕食の時間だ。勝手に戻ってくるだろう」
「?どうして怒ってるの?……あー兄サマ達喧嘩でもしたんでしょ。怒って怒鳴りでもした?」
「オ、オレは別に怒鳴ったりなどしていない」
「嘘ばっかり。兄サマ、超ふくれっつらしてるじゃん。もー痴話喧嘩なのかなんなのか知らないけどさぁ、仲良くしなよ。兄サマ折角アメリカから帰ってきたんだし。あいつ、兄サマがいない時不気味なほど大人しかったんだぜぃ。きっとすっごく寂しかったんだと思うなぁ」
「気色悪い事を言うなモクバ。何が寂しいだ。奴を幾つだと思っている」
「なんでさ。誰だって好きな人がいないと寂しいもんだぜぃ。勿論オレだって兄サマがいないと寂しいよ。寂しいのに、大人も子供もないってば」
「…………………」
「とにかく!喧嘩しちゃったものはしょうがないから、早く探して仲直りして。兄サマもあいつを連れてこないと夕食抜きだよ。おあずけ!」
「は?……おあずけ?モクバ、オレは犬ではないぞ」
「あいつだって犬じゃないよ。だから、ちゃんと人間の言葉で話をしないと駄目なんだよ。ごめんね、帰っておいでって言わないと」
「何故オレが謝るんだ」
「だって兄サマの所為で出て行ったんでしょ。兄サマがそういってあげないと。あいつ絶対に帰ってこないよ。だから、ね?ほら、早く早く。あいつ兄サマに似てるから間違えられて誘拐されちゃったり、兄サマに捨てられて悲しくてうっかり『あっち』に帰っちゃったりしたらどうするの?困るでしょ?」

 ほら、早く早く。そう言って思い切り背を押してくるモクバの腕に瀬人が逆らえるはずもなく、彼は渋々ポケットに忍ばせていた携帯を取り出して、余りかけたことのない男の番号を選んで通話ボタンを押してみた。長い長い呼び出し音が暫く続き、唐突に途切れる。

「おい」
『………………』

 途端に聞こえる車の音に、瀬人は大きな溜息を一つ吐いた。携帯の向こうの相手はじっと黙ったまま息を吸う事さえしない。全く、どうしようもない我侭な犬だ。自分のテリトリーから抜け出して、あまつさえこちらの電話に答える事すらしないとは。

「貴様、今何処にいる」
『何処だっていいだろう。お前が出て行けと言ったんだろうが』
「モクバが心配しているぞ。いいから戻って来い」
『モクバ?お前ではなく、モクバか』
「何故オレが!」
『じゃあ、帰らない。このまま旅に出る』
「何処へだ!」
『ふん、お前には関係ない事だろう。どうせオレなどいらないらしいしな』
「貴様っ!調子に乗るなよ!」
『さぁ、どうする?』
「何が」
『オレが旅に出るか否か、お前の次の一言に掛かっているぞ』
「………………」
『なぁ、瀬人』

 携帯の向こうで勝ち誇り、腕を組んでいるその姿が見えるようだ。犬の分際で今度は主人を挑発だと?ふざけた男だ。一発殴りつけてやらないと気がすまない。そう、今日起きた色々な事に対する怒りも含めて全て。

 瀬人は携帯を握る手に力を込めて少しだけ逡巡した挙句、深い深い溜息と共に一言、こう言った。
 

「戻って来い、馬鹿犬」
『仰せのままに、ご主人様。帰ったら頭をちゃんとなでてくれよ』
「その前にまず謝れ」
『お前もな』
 

 星空の下で、男の口元が綺麗な弧を描く。少し粘った甲斐があった。漸く聞きたいその一言を聞くことが出来た。散々な休日だったけれど、何となく幸せだ。

 そう思い彼は長い間座していた公園のベンチから立ち上がり、感覚で覚えている海馬邸への道に向かって歩き出した。
 

 後少ししたら温かな夕食と、優しい抱擁が待っている筈だから。