Blue eyes dear

「やはり、耳につけて欲しかったんだがな」
「……何をだ」
「これだ」
「……嫌だと言っている」
「痛くなかったぞ」
「煩いな。嫌なものは嫌だ。何を思い出したように突然そんな事を言う」
「いや。特に理由はないんだがな……」
「なら口にするな」
 

 白いシーツの上で、普段はその白に負けない程色素の薄い肌が上気して薄紅色に変わる様を上から見下ろしながら、男は指先で髪を梳く。

 その男の下に組み敷かれ優しい指を受け入れる瀬人の薄茶色の柔らかな髪は、今の行為の余韻にしっとりと水分を含んで僅かに重い。幾本かの後れ毛を絡ませながら男の手は頭頂部から右へ、そして髪の合間から覗くその身体と同じく僅かに染まった耳へと辿りつく。

 男のその愛撫にも似た緩やかな仕種に、瀬人は甘い微酔みに誘われ、そのまま軽い寝息を立て始める。その姿を溜息混じりに眺めながら男は薄い耳朶に触れ、傷一つ無いそこに軽い口付けを落とした。

 そのまま唇は軽く閉ざされている薄い瞼へと移り、僅かに滲む液体を舐め取り、深い溜息を吐く。

 男が何よりも好ましいと思っている二つの青い至玉は、行為の最中ずっと隠されたままで、それが男に僅かな不満を与えていた。そして、それが男が瀬人にラピスラズリのピアスを贈ろうとした理由の一つだった。

 所詮宝石など鉱物に過ぎないが、揃いのものを身につける事、そして常にその青を視界の端に留めていたいという小さな願望。本人に告げてしまえば「下らない」と一蹴されてしまうそれは、男にとっては至極重要なものだった。

 自身の存在は不変なものでも、そして普通の人間ほど確かなものではない。それはいつ消えてしまうか分からない命よりも更に儚い物で。瞬間が、いつ訪れてもいいように何らかの証をその身に刻みつけてやりたいと思ったのだ。それに何故ピアスというものを選んだのかは、男にしか知り得ない謎なのだが。

 でも、と男は密かに呟く。

 完璧な造形、そして染み一つない白い肌に、例え小さなピアスホール一つでも己の身勝手で傷を付ける事はやはりよくないと思い返す。本人の要望であるならまだしも嫌がっているのを無理矢理、などと。

 さらりと男の髪が零れ落ち、瀬人の頬を撫でる。その感触がくすぐったいのか、眉を寄せて払おうとしたその指先を捕まえて口付ける。否、それだけでは飽き足らず、口に含んで吸いあげる。それでも、彼は起きもせずに夢の中だ。小さく呟かれた言葉にならない声に、なんの夢を見ているのかと訊ねてみる。

「瀬人」

 ゆるりと背けられた顔。その所為で露になった首筋に残る紅い痕。行為の度に体中に刻み付けるそれさえも、日が経てば全て消えてしまう。過去もまた、同じものだ。今この瞬間も、直ぐに遠い過去になる。他愛も無い日常故に、記憶には残らずに消えてしまうだろう。

 大切に、何よりも大切にしているのに。消えてしまえば忘れ去られる。人間の脳とは残酷なものだ。

 緩やかに触れる暖かな吐息を唇で感じながら、男は「埒もない事を」と呟き、苦笑する。あの美しい青が見えないだけで、こんなにも寂しく思う自分が酷く馬鹿馬鹿しい。そしてふと思うのだ。

 仮に瀬人の耳朶にラピスラズリの青が輝いていたとしても、結局は、寂しく思うのだろうと。

 ふう、と小さな溜息を一つ付き、当分目覚めないだろう相手の顔を見ているのも空しく、男は漸く彼から身を起こしその隣へ横たわると、素肌のままのその身体をしっかりと胸に抱き、目を閉じる。暖かな体温と呼吸に合わせて緩やかに上下する胸の、その微かな動きに、何故か小さな安堵を感じ、手放したくないと抱きしめる腕に力を込めた。

 どうやら余計な事を考えた所為で、本格的に寂しくなってしまったらしい。らしくもないと思いつつ、こんな夜もたまにはいいと、男はその切なさを拒絶はせずに受け入れる。眠れば、こんな気持ちは忘れてしまうだろう。明日になればまた何時ものように軽口を叩きながら彼に笑みを向ける事が出来る。寂しいなんて、切ないなんて、欠片も思い出さなくなるはずだ。今だけだ。

 そう自分に言い聞かせながら眠りにつこうと集中し始めた思考に、ふと、ある言葉が甦る。常に無い、か細い声で紡がれたそれは、男の記憶の奥底から鮮やかに浮かびあがった。
 

『それを取れ』
『何故だ』
『……たまには見せろ。なんとなく、落ち着かない』
『別に不都合はないだろう。取っても、お前と似たような顔があるだけだぞ』
『それでも』
『それでも、なんだ』
『見たいのだ』
『……なんだ。寂しくなったのか?』
『煩いな。そうではない。いいから、オレが取れと言ったら取れ』
 

 そのままふわりと抱きしめられて、有無を言わせず剥ぎ取られた青い布。……そう、あれは何時だったか。確か瀬人が仕事か何かで酷く疲れていて、珍しく鬱々としていた時に不意に言われた言葉だった。機嫌が良くない彼に無闇に触れると神経を逆撫でしかねないのを知っている為、男は敢えて側に寄る事はせず、少し距離を置いてその様子を見ていたのだ。そんな最中の、突然の要求だった。

 寂しい。

 その単語を勿論瀬人は使う事は無かったが、言葉よりも雄弁なあの瞳は、確かに寂しいと言っていたのだ。疲れ故の精神的な寂しさから、布一枚の隔てすら遠いと感じたのだろう。……あの時の彼は、多分今の自分と同じ気持ちだったのだろう。今更ながら男はそう気づいたのだ。
 

 ……全く、似ているのは何も顔だけではないのだな。
 

 男はそう心の中で一人ごち、腕の中にいる宝石よりも綺麗な青を持つ彼の、その全てを隠している薄い瞼にキスをする。眠る前に、もう一度拝みたいとは思ったけれど、明日になればまた存分に見る事が出来るのだ。寂しいなんて思う暇がないくらいに、見つめてやればいい。

 そして自身の青も、隠さずに見せてやればいいのだ。その身体に傷をつけて残さなくても、記憶の底にいつまでも煌くように。

 不確かな未来を嘆くよりも、確かな今を大切に生きればいい。埋もれ行く過去の輝きを忘れずにいればいい。

 そんな事を言葉にしたら、多分思い切り小馬鹿にされてしまうだろうが。
 

 その声すらも……今は酷く愛しいのだ。


-- End --