Act3 中身はやっぱりお前だ

「何食べる?なんでもあるけど」
「……うーん」
「兄サマ、小さい時何食べてたかなぁ。思い出せないよ」
「味覚なんて早々変わらないんじゃないのか。コーヒーでも飲ませてみろ。瀬人は良く飲むじゃないか」
「ダメだよ。相手は兄サマでも子供なんだから。コーヒーは子供の飲み物じゃないから飲ませちゃダメだぜぃ」
「では何ならいいんだ」
「うーんと、ミルクかな?ホットミルク」
「ホットミルク?」
「今頼んでやるよ。あ、それはそうとオレ、これから学校に行くから。帰ってくるまでお前が面倒見るんだぜぃ」
「……何?ちょっと待て。今日ぐらい休めないのか?」
「無理。だって今日テストだもん」
「なんだそれは」
「説明すると面倒臭いけど、絶対休めないものなんだ。だから行かなくちゃ」
「め、面倒を見ろというが、何をどうすればいいのだ」
「うん?特に何かしなくても、兄サマがしたい事をさせてあげればいいんじゃないかな」
「瀬人がしたい事?」
「とにかく、オレ遅れそうだからもう行くよ。後は頼んだぜぃ。何かあったら周りの奴等に聞けばいいからさ」
「おい、モクバ。お前本当に学校に行くのか?!おいっ!」
「じゃ、行って来まーす。兄サ……瀬人、また後でねー?」

 帰って来たら遊ぼうね!と笑顔でそう瀬人に言うと、モクバは何時の間にかメイドに用意させていたらしい通学鞄を手にすると、さっさと部屋を出て行ってしまう。遠くから聞こえてくる「いってらっしゃいませ」の声と共に遠ざかっていく足音に、男は途方に暮れて、残されてしまった瀬人と二人、その場に呆然と立ち尽くした。

「……置いて行かれたな」
「モクバお兄ちゃん、どこに行ったの?」
「学校だそうだ。おい、瀬人。モクバはモクバだ。お兄ちゃんはいらないぞ」
「どうして?」
「オレにも付けないのだからあいつにも付けなくていい」
「……ふーん」
「ところで、朝食はどうする?何を食べる」
「いらない」
「いらなくはないだろう。ちゃんと食べろ。大きくなれないぞ」

 まぁ、今そんな努力をしなくてもお前は人よりも大分大きく育つのだが、と心の中で呟いて、男は「な?」と言って瀬人の顔を覗き込む。すると彼は少し頬を膨らませて拗ねてみせた。その仕草はとても可愛らしいものだったが、人の言う事にいちいち反応する事や、朝食を食べる事を嫌がる所はどこからどうみても瀬人そのものだ。

 この分だとしつこくすると怒りだしたり、自分が気に入らない事があると無視をしたりもするかもしれない。自分には今の所余り愛想のいい所を見せてはいないが、モクバに対してはきっちりと笑顔で受け答えをしていた所からして既に『海馬瀬人』の片鱗は見えている。

 外見がどんなに可愛らしくても、子供でも、お前はお前か。瀬人からやや顔を反らしてそう独りごちると、男はやれやれと肩を竦めながらとりあえずは瀬人を席に座らせようとひょいとその身体を持ち上げて、目の前の椅子へと座らせた。そして自分はその直ぐ横に座る。

「カイ、これ、高い」

 が、やはり、決して子供用のサイズではない椅子とテーブルは彼には少々大き過ぎるようだった。テーブルすれすれの位置に顎が来るその様を半ば呆れて見下ろして、男は少し考えた後、仕方なく隣の瀬人を自分の席へと移動させた。正確に言えば、席に座った自分の膝の上に、だ。

「これなら丁度いいだろう」
「うん」

 丁度太ももから下腹にかけて感じる余りにも軽く温かな子供の身体。常日頃は抱き締めると細くて冷たい印象しかないそれの鮮やかな変化に、男は思わず両手でぎゅっと抱きしめてしまう。途端に苦しい、と文句が出るが嫌そうな声ではなかったので少しの間その感触を堪能した。目の前にある柔らかな髪に鼻先を近づけると、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いがした。けれど、やはり『いつも』とは違う気がする。

 何が違うのだろうと男はそのままの体勢で考えていたが、不意に目の前のテーブルに小さな音と共に仄かな湯気が立つカップが二つ置かれたのに気が付いた。はっとして手が伸びて来た方向を見ると、馴染みのメイドが含み笑いを漏らしながら口を開いた。

「これを瀬人様に。モクバ様がお持ちするようにと……」
「あぁ、『ホットミルク』とやらか」
「はい。お熱いので気をつけて差し上げて下さい」
「だそうだ。瀬人、これはお前の分だぞ。何も食べないなどと言わずにこれを飲め」
「カイは?」
「オレはこっちだ。普段ならお前も同じモノを飲むんだが、子供は飲んではいけないそうなのでな」
「美味しいの?」
「どうかな。オレは不味いとは思わないが。……持てるか?」

 言いながら、男は自分用に用意されたコーヒーを一口飲んで、朝から無駄に乾いてしまった喉を少しだけ潤した。普段は瀬人に付き合って飲んでいるというだけの代物だが、こういう場合に口にすると案外美味いものだと思った。しかし、やはり一人で飲むのはなんだか味気ない気がする。

 朝食の前に起きぬけの状態で着替えもしないままリビングで共にコーヒーを飲み、瀬人の機嫌がいいとそのままおはようのキスをする(機嫌が悪いと殴られる為、見極めが大事である)。その時のキスの味は決まってこのほろ苦いコーヒーの味なのだ。

 そんな事を考えて、カップの中身をこくりと全部嚥下する。常と同じ味の筈なのに、今日は妙に苦く感じた。きっとキスをしない所為だ。目の前の小さな身体を眺め見ながら男はぽつりとそう口にする。別に瀬人本人が消えたわけではなくただ変化を遂げただけなのに、それでもなんとなく寂しい気がした。自分が意外にも随分な寂しがり屋だとという事に男は初めて気付いた気がした。

「カイ、熱い」

 不意に眼下でカップを引き寄せたまま微動だにしていなかった瀬人が、やや顰め面をして男を見あげる。何だ?と尋ねてやると、彼はカップを指し示し至極端的にそう言った。どうやらカップが熱すぎて持てない、という事らしい。

 そういえば、瀬人は極度の猫舌で常日頃から「それは殆ど冷めてるんじゃないのか?」と言いたくなるような状態にまでカップを放置し、生温くなった飲み物を好んで飲んでいた事を思い出し、それはやはり昔からだったのかと妙な具合で感心した男は、どことなくこみ上げてくる笑いを押し殺しつつ瀬人のカップを取りあげると、息を吹きかけて冷ましてやる。

 これは大きな瀬人にもたまにやってやるのだが、漏れなく「子供扱いするな!」と盛大に嫌がられるのだ。けれど目の前の瀬人は今は小さな子供で。だからなのか、男のその仕草を嫌がるどころか何処となく楽しそうに眺めている。

「ほら、冷めたぞ。少しずつ飲めよ」
「まだ熱い。もっとして」
「オレがしてもいいのか?それとも、自分でするか?」
「して?」

 普段なら絶対に言わないだろうその言葉を臆面もなく口にするところはやはり子供たる所以なのだ。早く!とばかりにずいっとカップを押しつけて来る所はやっぱり瀬人らしいけれど、目をキラキラさせて自分の動向を眺めている姿はなかなか……いや、かなり新鮮だった。

「いつものお前も、こうやって素直に何でも口にして要求してくれれば少しは可愛げがあるんだがな」
「?」
「いや、何でもない。零すなよ」

 既に湯気も殆ど立たなくなったカップを渡してやり、落とさないように指先を添えて飲み込むのをアシストしてやる。瀬人がコクリコクリと小さな音を立ててミルクを飲み込む度に、ふわりと男の鼻腔に甘い香りが漂った。

 ああ、この匂いか。

 先程慣れていると思っていた瀬人の香りが微妙に違うと思っていたのは、この香りの所為なのだ。コーヒーの香ばしい匂いに反して、柔らかなミルクの香り。思わずその薄ピンク色に染まった頬に口づけてやりたくなるような甘い匂い。

「美味しかった」
「そうか。良かったな」

 カップの中身を全部飲み干して満足そうにそう言って笑顔を見せるその顔も、最初は元の瀬人の顔とは程遠いと思ったけれど、こうして見るとやはり同じ人間なのだと思う。大きな瀬人がごく稀に瞬間的に見せる貴重な笑顔。それと、この目の前の笑顔が確かに重なっている気がした。だから自分は瀬人に対して「可愛い」という形容詞を使うのだと、男は今更ながらにその想いの出所を理解した気がした。

(まぁ、元のお前にそんな事を言ったら、一気に仏頂面になるんだろうが)

 その様を頭の中で思い描いて、男は一人でなんとも言えない幸せな気分に浸った。

 直ぐに退屈を持て余した瀬人に、再び髪を強く引かれるまで。