Act4 おててつないで

「……さて。これからどうするかな。瀬人、お前は何がしたい?」
「お散歩」
「は?散歩?外に出たいと言う事か?」
「うん」

 ホットミルクとジャムとバターをたっぷり塗ったロールパン、おまけに小さな皿に僅かに盛られたサラダという朝食を何とか与え終えた男は、すっかり懐いたらしい瀬人を抱えて当初の現場である瀬人の部屋へと戻って来た。元々余計な物など一切ない、広々としたシンプルな部屋は子供にとっては余り面白いものではないらしく、早くもつまらなそうな顔をしている瀬人に、男はモクバに言われた通り彼の意志を尊重するべく訊ねてみた。

 すると、帰って来たのは意外な言葉。

 元々瀬人はインドア派で休日でも余り屋敷を出たがらない事を知っている男は、思わずその可愛らしい要求を反復したが、彼はじっと男を見あげると大きく首を縦に振って「早く」と急かしてくる。

「外か……少し待て」

 とりあえずこれが通常の状態だったら出かけるのは大賛成なのだが、如何せん今は非常事態である。この状態の瀬人を連れ歩いて外で何かあったら事だと珍しく慎重に男は思い、とりあえずモクバに連絡を取ってみる事にした。

 勿論『何か』と言うのは物理的に、という意味ではない。普段も今も自分が傍にいる限りは瀬人に害が及ぶような事は決してしないつもりだし、させる訳もない。今までも何度かそういう事態に陥った事があったが、全て大事に至る事もなく解決した。その点では自信がある。

 ただ、それ以外の事。特に不測の事態に対する対応と言う事が全く出来ない自覚がある故に、男は少々心配だった。最近漸く使い方を覚えた瀬人の携帯を弄り、モクバへと電話をかける。時間が良かったのか然程待つ事もなく電話口に出たモクバにかくかくしかじかと用件を伝えると、モクバは意外にあっさりと「いいんじゃないの」とのたまった。

『お前さえ気を付ければその兄サマが海馬瀬人だなんて事分かんないし、普通にしてればいいじゃん。そう言えば昔はよく兄サマと公園で遊んだっけ。童実野公園にでも連れてってやれば?遊びたいんだろ』
「童実野公園?そんな所に連れて行って瀬人のお友達にでもバレたらどうするんだ」
『あいつらになんかバレてもいいだろ。後で兄サマが怒るかもしんないけど、特に問題はないぜぃ』
「まぁ、お前がそう言うのなら……」
『いいなーオレが代わりに連れてってやりたい位。んじゃ、宜しくな!』  携帯の向こうから聞こえてくるチャイムの音と共にぷつりと消えてしまったモクバの声に、男は溜息を吐きながら手にしたそれをポケットにしまいこむ。そして、いつの間にか足元にすり寄って、ジーンズをしっかりと握りしめてこちらを見上げている瀬人を見つめ、じゃあ行くか。と口にした。

「その前に少し支度をするからな。待っていろ」
「したく?」
「ああ。このままでは少し目立つ」

 そう言って男は瀬人を張りつかせたままクロゼットの前に行き、普段は余り触らないそこを開いて中の引き出しを探る。今の彼の格好は瀬人と同じ黒のタートルネックとジーンズという普通の出で立ちだ。ただ目元の布は少々目立つ為、外に行く時には極力代わりの物でそこを隠す事を常としていた。

 最近のお気に入りは瀬人自らがデザインして作ったらしい目元全体を隠す仕様のスクリーングラス。所謂サングラスの様な物だが見た目がいかにも瀬人が好みそうな近未来仕様で、彼が着るあの白コートにはよく似合う。元々は自分用に作ったらしいが殆ど使う事もないと言われた為、今は男が勝手に持ち出して使用していると言う状況だ。その事に対して、特に文句が出た事はない。

 そのグラスを手に取り、するすると目元の布を解いてしまう。その様を相変わらず足に貼りついたまま物珍しげに見ていた瀬人は、あっ、という短い声と共に目を輝かせて現れた顔を良く見ようと背伸びをした。

「カイ、こっち向いて」
「ん?ああ、顔を見せる約束だったな。ほら、どうだ?」
「うーん」
「……なんだその反応は。この顔は、お前の顔でもあるんだぞ?」
「僕の顔?どうして?……似てないよ」
「今はな。そのうち、お前もこういう顔になるんだぞ」
「なんで?」
「なんでって言われてもな。オレは、お前だからかもしれないな。お前と言うより、お前の一部だ」
「よく分かんない」
「では言い方を変える。お前はオレの大事なものだ。そしてオレもお前の大事なものだ。分かるか?」
「大事なもの?」
「そうだ。だからオレは顔を隠す。お前以外に見せないように」
「カイが、僕の、大事だから?」
「ああ。宝物はしまっておきたいだろう?」

 言いながら男はスクリーングラスを装着し、クロゼットの扉を閉めた。そして、最近は大分慣れて来た髪を括る作業に入る。一度このまま外に出て妙な視線を浴びてしまい、瀬人に呆れられながら「この町では長髪の男は目立つからな」と言われたのがきっかけだった。

 髪型に拘りがある訳ではないので切ろうかとも思ったが、それにも露骨に嫌な顔をされた為、結局は外出時には極力こうする様にしている。瀬人は決して口にはしないし指摘すれば絶対に違う!と大騒ぎをするだろうが、彼は案外この髪を気に入っているのだ。その証拠に気がつけば弄っていたりする。そんな無意識の行動が男に取っては何よりも可愛らしく見えるのだ。

 勿論それも口に出しては言えないが。

「これでよし。では行くか」
「うん」

 結いあげた髪をさらりと揺らし、男は瀬人を振り返る。
 そして抱きあげる為に手を伸ばすと、瀬人は一瞬その手を凝視して、そして直ぐに首を振った。
 どうした?と男が訊ねると、彼は不意に右手を持ち上げ「ん」と良く分からない声を発する。

「?……なんだ?」
「お散歩だから、歩く」
「え?」
「手、繋いで?」

 そう言って、背伸びまでして伸ばしてくる小さな手を、男は驚きのまま見返した。手を繋いで歩く。それは男が元の瀬人によく要求する行為だったからだ。

 手を繋いで歩きたい。
 今は人もいないからいいだろう?少しだけ。

 そう言って、嫌がりながら身を引く彼の腕を捕まえて、強引に指先を絡めてしまう。繋ぐには酷く頼りなく冷たくて余り気持ちのいい手とは言い難いが、繋がっているというその安心感が酷く好きで。絡んだ指先を強く握りしめながら途端に不機嫌になる彼を宥めすかすのだ。

 その瀬人が、自分から繋いで欲しいと手を伸ばす。あれだけその行為を嫌がっていたのだから、その実本当に嫌いなんだと思い始めた矢先のその出来事に男は密かに驚愕する。しかし、同時に安堵もした。

 少なくても、この幼い瀬人は手を繋ぐ事が嫌ではないのだ。と言う事はあの瀬人だって、本当は嫌いではない筈だ。何か理由があるのか、それとも常なる癖である単なる照れ隠しなのかは分からないが、強引に繋いでしまえば何が何でも振りほどく、などと言う真似はしない。

 と言う事は、やはり照れ隠しの可能性が大分高いという事で。

(ならば今後は遠慮などする必要はないのだな)

 嫌がられても、罵られても、もう身を引く必要はない。「幼いお前はあんなにオレと手を繋ぎたがっていたのにな」そう一言言ってやれば、多分顔を真っ赤にして睨みつけて来るだけになるだろう。なんだか楽しみになって来た。自然と浮かぶ笑みを隠しもせずに、男はゆっくりと左手を下に伸ばす。

「ほら」

 ほんの少しだけ指先が触れた瞬間、まるで縋りつく様にぎゅっと強く握りしめて来るその細い指先を、男は優しく握り返して、歩幅が大分違う為に全く持って進みの遅い散歩を楽しむべくその部屋を後にした。

 繋いだ幼い掌は、酷く温かかった。