Act4 うさぎリンゴ

「何か食べるか」
「……いらない」
「駄目だ。今日一日何も食べていないだろう」
「……だから、駄目と言うなら最初から聞くな……」
「では、質問を変えよう。何なら食べられる」
「……思いつかない」
「そうか。じゃあこちらで勝手に決める」
「変なものを持ってくるなよ」
「失礼だな。モクバに協力を仰ぐから大丈夫だ。少し待っていろ」

 未だ熱い額に触れていた指先がさらりと湿った前髪をかき上げて離れていく。少し汗の滲むそこに氷水に浸した冷たいタオルを乗せ上げながら、男は大きく息を吐いた瀬人を一瞥し、席を立つ。

 時刻は既に夕方を回っていた。

 少し前に目を覚ました瀬人は相変わらず熱が下がらず、時折衝動的に訪れる咳に苦しんでいた。けれど今朝の薬が効いたのか、顔を顰める程の酷い頭痛は何時の間にか消えているらしい。しかし、まだ到底傍を離れられない状況なのには代わりがなかった。

 そんな彼に男が再び話しかけ始めたのは、今から5分前の事。うっすらと開いた瞳を見るなり、矢継ぎ早にあれこれと口にする男に、瀬人は心底うんざりした顔を見せ、再び眠りに付こうとする。だがそれは許されず、朝の薬同様ほぼ強引に食事を口にする嵌めになったのだ。
 

「……とは言っても、あの調子では何も食べそうにないが」
「別にご飯じゃなくてもいいんだぜぃ。果物とかさ。風邪にはビタミンCがいいって、昔よくリンゴとかイチゴとか食べさせられたよ」
「誰にだ」
「施設の先生。オレ、昔よく風邪引いてたから」
「……果物か」
「調理室に何かあるかも知れないな。オレ、見て来てやるよ」
 

 瀬人の部屋から出た直後その言葉通りモクバの元へと直行し瀬人に何を与えたらいいかと文字通り『相談』した男は、元気な声と共に直ぐに室外に消えていく小さな背中を見送った後、やや手持ち無沙汰にその場に立ち尽くしていた。程なくして、手にリンゴ入りのバスケットの様な網篭を持った彼が身体でドアを押し開けて入ってくる。そして男の前で立ち止まり、その篭ごと「はい」と差し出して来た。

「リンゴ、あったぜぃ。料理長いなかったけど、包丁も勝手に持って来た!」
「……持って来たのはいいが、これをどうするんだ?」
「どうって?皮を剥いて、一口大の大きさに切ればいいと思うけど。お前、やった事ある?」
「いや?」
「えー!ないのかよ。じゃあ仕方ないなぁ。オレがお手本、みせてやるよ」
「お手本?というか、オレがやるのか?」
「だってお前が兄サマの看病してるんじゃん。この位出来ないと、これから困るぜ?じゃ、よっく見てろよ」
「………………」

 そう言うとモクバは篭の中からリンゴを一つ取り出すと、携帯用の小さなまな板の上で皮を剥かないまま器用に八等分に切り、その一つを取り上げて皮を分厚く半分だけ剥き、それに独特の切り込みを入れる。

 その様をじっと見ていた男は、どうもその形態が己の記憶しているリンゴの姿と些か異なる事に疑問を持ち、それを素直にモクバに訊ねてみた。

「……なんか、変じゃないか?」
「ん?何が?」
「皮がついたままだろう」
「ああ、これ?うさぎリンゴ」
「?うさぎリンゴ?」
「見た目がうさぎみたいだろ。リンゴってさ、皮と身の間に特に栄養があるんだって。だから風邪引いた時とかは皮ごと擦ったりするのがいいんだぜぃ。うさぎだと、見た目も可愛いし、いいだろ?」
「お前は物知りだな」
「まぁね。じゃーやってみろよ。包丁はこう持って……リンゴはこうで……」
 

 ……というやりとりを二人が初めてから数十分後。
 

「………………」

 強引に身を起こされた瀬人に真っ白な小皿に乗せられた、リンゴ……らしき物体が突きつけられた。『らしき』というのは既に原型を留めていないものがいくつか混じっていたからである。その一つに添えられたフォークを突き刺して、引き攣った笑顔で差し出してくる男の顔を、瀬人は訝しげに見あげる。
 

「……なんだこれは」
「うさぎリンゴ、というものだ」
「……どこが?」
「の、つもりだ。いいから食べろ」
「貴様が切ったのか」
「ああ。モクバにお前がやるべきだと言われて」
「……頑張ったな」
「……褒められる事なのかこれは」
 

 皮の赤とは明らかに異なる赤色が微妙に付着した『うさぎリンゴ』付きのフォークを受け取りながら、瀬人は目線を男の傷ついた指先に向けながら口に入れた。甘酸っぱい果汁と、微妙な鉄分の味がするそれを、複雑奇怪な顔をしてそれでもしっかり飲み込んでしまう。

「……なんか、血の味がするんだが」
「指を切ったからな」
「……何故洗わない」
「別にいいだろう、オレの血だ。美味いか?」
「……普通のリンゴだな。それで、指は大丈夫なのか」
「なんだ舐めて治してくれるのか」
「誰が舐めるかッ!」

 そんな軽口を交わしながら結局全てのリンゴは無事瀬人の中へと収まり、白い皿の上は空になる。それを満足そうに見返して、瀬人を再び寝かしつけた男は二箇所ほど切り傷がある指先で、その頬を撫でて「もう一度寝ろ」と声をかけた。

 その声に瀬人は瞳を閉ざしつつも、離れ行こうとする男の指先を捕まえて、既に血が止まっている傷口に無言のまま唇を寄せた。

 感謝の言葉はついぞ紡がれなかったけれど。それでも男の口元は小さな笑みを刷き、こう言った。
 

「次はもう少し、うさぎらしい形になるように努力する」