Act5 お大事に

「兄サマ、どこか苦しくない?」
「……ああ、今の所は」
「水とかは?」
「水分は先程取った。食べ物も……妙な味がするリンゴを食べたから問題ない」
「ちょっと血がついてたもんね、あれ。でも頑張ってただろ?こいつすっごく不器用でさー見ていられなかったぜぃ。手の器用さは兄サマには似てないんだね」
「この男とオレを一緒にするな」
「だって。どう思う?」
「心配するなモクバ。瀬人は照れているだけだ」
「……誰が照れているかッ!」

 夕飯も入浴も終え、すっかり寝るだけとなったモクバが瀬人の元に訪れたのは、夜も10時を廻った頃だった。相変わらず瀬人の傍から離れない男の膝によじ登り、彼は大分表情が穏やかになった瀬人の顔を覗き込み、安心したように笑いながら軽口を叩いていた。勿論手は自然と眼下の指先を握り締めている。

 その小さな手を今度は自らの意思で握り返しながら瀬人もまた、合間に咳を交えながらもその言葉に答えている。そんな兄弟のやりとりを先程とは違ってどこか微笑ましい気持ちで眺めながら、男は邪魔にならない程度に茶々を入れる。それに過敏に反応する瀬人に「大分元気が出たな」と男は密かに喜んでいた。

 今日は男にとって至極貴重で忙しい一日だった。瀬人の異変から始まったそれは、全て未知の経験だった看病というものに翻弄され、あっという間に過ぎて行った。

 その甲斐もあってか、今は瀬人の熱も微熱になり、頭痛や倦怠感も大分取れたと言っていた。この調子だと明日の朝には起き上がれる位には回復しているだろう。

 大事に至らなくて良かった。その責任の一端を担っていた男は心底そう思う。

「じゃー、オレもう寝るよ。風邪は治りかけが怖いって言うんだから、無理しちゃダメだぜぃ。お前、兄サマをしっかり見張っててくれよ?」
「任せておけモクバ」
「……むしろこいつを側に置いておく方が問題があるのだが」
「えっ、なんで?」
「……そもそもの原因はこの男の……んぐっ!」
「なんでもないぞモクバ。お前こそ長居して風邪がうつると悪いからな。早く寝ろ」
「??……なんかよくわかんないけど……じゃあ、おやすみなさい、二人共」
「ああ、おやすみ。また明日な」

 がっちりと口元を男の掌で覆われてしまった瀬人の変わりに、本人よりも大分愛想のいい同じ声が優しく答える。それににこりと笑みを見せて、モクバは瀬人の寝室を後にした。

 遠ざかる足音に男はゆっくりと瀬人の口から手を外す。すると途端に酷い咳が部屋の空気を振るわせた。

「……っ!……く、口を塞ぐな!馬鹿が!」
「ああ、すまない。お前が余計な事を言いそうだったんでな。つい」

 突然振って沸いた久しぶりの咳の衝動に涙目になりながら瀬人が抗議すると、男は一応悪いと思ったのか、至極親切にその背をさすってやりつつ謝罪の言葉を口にした。ただし、ちっとも心が篭っていない声でだったが。

「しかし、大分熱も下がったな。これならもう大丈夫だろう。もう苦しくはないな?」
「……ああ、大分な」

 ひとしきり瀬人の咳が落ち着いた頃、男はふと思いついたようにそう言いながら、背に回していた掌を瀬人の額へと伸ばし、軽くあてがう。白く秀でたそこは既に汗もなくほんのりと暖かい程度で問題はなかった。その事に安心感と共に少し残念な気持ちも覚えながら、男は不謹慎なその考えに苦笑する。

「……?何を笑っている」
「いや、残念だと思ってな。弱っているお前はなかなか可愛かった」
「……貴様、殴られたいのか?誰の所為で!」
「それは素直に反省している。正直な気持ちを言ったまでだ」
「フン。確かに、熱が出ている間は貴様に不埒な真似をされなくていい」
「不埒……とはどういう事だ?」
「自分の胸に聞いてみろ!」
「そう怒るな。悪かったと言っているだろう。安心しろ、今日は何もしない。何もしないが……キスはしていいか?」
「ふざけるなよ。反省していないではないか!」
「風邪は人にうつすと早く治ると言うだろう。オレにうつせ」
「……調子のいい事を……っん……!」

 そう言うと男は額の掌を瀬人の頬に滑り落し、空いたもう一方の手も添える形で薄紅に染まったそこを包み込み、柔らかく口付けた。呼吸を妨げないよう慎重に、けれど常のそれと同じ様に舌を絡ませ、熱い口内を舐る。

 静寂の中に響く鼻にかかった妙な声や呼吸音、そして濡れた粘膜同士が絡み合う淫靡な音が響いては、消えていく。

 やや暫くの後、長く執拗なキスの所為ですっかり息を弾ませながら濡れた目で睨みつけてくる瀬人にもう一度だけ口付けて、男は満足気に微笑みながらこう言った。
 

「お大事に」
 

 直後、瀬人の罵声が飛んできたのは、言うまでもない。