「なあ遊戯、このレースゲームやろうよ。兄サマ相手とだと強すぎて全然勝てないんだ」
「うん、いいよモクバくん。でも僕これ初めてなんだけど、やり方教えてくれる?」
「うんうん。えっとー……」
手にした雑誌の紙面が大部分の視界の中に入る見慣れた二つの頭頂部。片方は弟モクバのもので、もう片方は本当にこの部屋にやって来た遊戯のものだ。二人は先程から柔らかいカーペットの上に直に座ってゲームに夢中になっている。オレは少し離れたソファーでコーヒー片手に雑誌を読みながら時折その様子を眺めていた。
新学期が始まった4月の第二週の日曜日。
その日は朝からすっきりと晴れ渡った青空で、兼ねてからのモクバとの約束で丸一日休暇を取ったオレは、朝から比較的優雅な時間を過ごしていた。オレもモクバも幾ら夜遅くまで起きていても、次の日午前中寝倒すなどという真似はしない。今朝も8時には共に朝食を取り終え、さて今日は何をする、という話になったその時だった。
二人で寛いでいた部屋にメイドから一本の電話が入り「武藤遊戯様がお見えになっています」と知らせて来たのだ。
武藤遊戯。つい一日前まで、ただのクラスメートだったこの男。
こいつは一体何を血迷ったのか、昨日の昼間人を屋上に連れ出して、好きだから付き合え、という訳のわからん事を言って来た。ここ最近急に陽気がよくなった所為でついに頭でも沸いたのかと思いつつ即座に断ってみれば、意外にも根気強く食い下がって来た。
予想外の展開にオレもどう対処をしたらいいか思案しながら相手をしていたが、こいつの口にする事は一々理解するに難しく反応がどうしても鈍ってしまう。大体オレはもう一人の遊戯とは対峙する機会が多かったが、『この』遊戯とまともに会話をした事など殆どなかった。
勿論どちらも遊戯には変わりなく、本体はこいつの方なのだから結果的にみればこいつとも長い付き合いという事になるのだろうが、感覚的な観点からみればとてもそうは思えなかった。むしろ、全くの他人の様な気さえする。
しかし遊戯にとってはその真逆の感覚で、もう一人の遊戯=自分でもある、と主張して来た。だから、あの屋上のやり取りの後、何故突然そんな事を言い出した、と問うオレに「突然じゃない。ずっと前からだよ」とはっきりきっぱり言ってのけたのだ。
……そんな事、オレが知るか。
そう吐き捨てても既に後の祭りだった。何故ならその少し前にオレは奴の口車に乗せられる形で、奴の『お願い』に了承の意を示してしまったからだ。
『一週間でいいから、僕と恋人になってくれない?』
今思えば、本当に意味不明な提案だ。そこに限定の意味はあるのか?そもそも一週間やそこらで何か変わるとでもいうのだろうか。元々なんらかの関係を築きあった間柄ならまだしも、オレに至ってはまともに目を見て話したのは初めてという状態だ。大体おかしいだろう、普通は『友達から』となるべきではないのか。何故いきなり恋人なんだ。訳が分からん。
思い切り根本的な事を言えば、オレは男だぞ?
『だって海馬くん、友達なんていらない、友達ごっこには反吐が出るっていったじゃん。だから僕、恋人がいいかなぁって。恋人なら嫌じゃないんでしょ?……え?男?そんなの関係ないよ』
一体どういう理屈なんだそれは。ますます訳が分からない。というか貴様それでいいのか?
……けれど一度いいと言ってしまった事を覆すというのもオレの主義に反するので、後悔はしているがまあ仕方ない。遊戯とも特にそれ以降接触する事も無く、教室に帰った途端凡骨共と騒いでいたから、そんなに真剣な話ではなかったのだと解釈して帰ったのだが。
奴は見事に自らの宣言を守って、オレの家にやって来たのだ。
「うーんやっぱり難しいなぁ、操作が覚えられないよ、これ」
「そんな事ないぜ、お前、初めてにしてはすげーいい記録出してるし。このゲーム貸してやるから家で練習してこいよ。今度また勝負しようぜぃ」
「本当?じゃあそうさせて貰うよ」
「他にもオレがもう飽きちゃったのとかあるから、持って行く?」
「うん。モクバくんがよければ」
「オッケー。じゃあオレ、部屋に行って取ってくる。ついでに飲み物も持ってきてやるよ。何飲む?兄サマ!兄サマはコーヒーのお代わりでいい?」
何時の間にか時計の針は一時間進んでいて、奇声を上げながらゲームに熱中していた二人がコントローラーを投げ出すと同時にくるりとこちらに向けられた視線に、オレは一瞬身を引いてモクバの声に頷くことで応えてやった。するとモクバは即座に立ち上がり、今しがた言った言葉を行動に移すべく、軽い足音を立てつつ部屋を出て行ってしまう。当然、残されたオレ達は二人きりだ。
……気まずい。今までずっとモクバがいた分余計に気まずい。
モクバと一緒にオレに視線を送ったまま動かない遊戯の目から逃れようと、オレは再び雑誌に目線を落そうとして、失敗する。何故なら、座って床に足を投げ出したままだった遊戯が、徐に立ち上がりオレに近づいて来たからだ。
何故、側に寄って来る必要がある!貴様はそこから動くな!……そう言おうとしても、奴の背後に繰り返し大音量で流れるレースゲームのオープニング音が邪魔をして、なかなかタイミングが掴めない。昨日の屋上の時とは違う、妙な緊張に捕らわれて、オレは思わず近づく遊戯の顔を凝視した。すると、奴は心底楽しそうな笑みを見せてこう言ったのだ。
「海馬くんも一緒にやろうよ、ゲーム」
「オレはいい」
「なんで?僕が弱いから?」
「テレビゲームをする気分ではない」
「じゃ、何のゲームならしてくれる?デュエルしよっか?」
「しない。大体デッキは部屋に置いてきた。ここにはない。……貴様はモクバとそれで遊んでいればいいだろう」
「うん。それも楽しいんだけど。僕は海馬くんと遊びに来たんだ。海馬くんも一緒にやろうよ」
「やらないと言っている」
「えー。そんなの、全然『恋人』らしくないんだけど。同じ部屋にいるのに離れてるって変だよね。そうでしょ?」
「貴様本気でそう思ってこの場に来ているのか」
「勿論だよ。海馬くんは僕の言う事これっぽっちも信用してないみたいだけど、僕は本気だよ。海馬くんだって一回うんって言ったんだから、今更ナシなんて言わないよね?」
「まあ……約束は、約束だが」
「じゃ、『恋人』の僕のいう事を聞いてくれる?こっちに来て、一緒にいて。ね?」
そう言いながら、奴は躊躇もなしに未だ雑誌を乗せたままのオレの腕を掴んで有無を言わせず引いてくる。抵抗してみたものの「あ、早速約束を破るの?」と切り返されて、どうする事も出来なかった。
結果的に、オレはモクバを膝に乗せる事で最後の抵抗を示したものの、一応奴の言う通り微妙な距離を空けてだが隣に座って、暫く再び始まったゲームを眺めていた。ただそれだけの事なのに、奴は至極満足そうだった。
……恋人の意義がイマイチ分からない。
この日は特にそれ以上は何も無く、「夕飯を食べていけ」と言うモクバの言葉をもやんわりと断って、遊戯はさっさと帰り支度をして部屋を出て行こうとした。……ともあれ、一日目は無難に終わったのだ。オレは訳も無くほっと胸を撫で下ろした。
── が!
奴は最後にとんでもない台詞を残して言ったのだ。
「なあ遊戯。お前なんだって急に兄サマのところに遊びに来たんだよ?」
「うん?ああ、それはね。僕と海馬くんは、今恋人同士だからだよ」
「えっ?」
「とりあえず一週間のお試し期間中だけどね〜。じゃ、二人ともまたね!」
それだけを実に明るい笑顔と共に口にすると、遊戯は殆ど鼻歌交じりで扉を閉めた。
き、貴様はモクバに何を恐ろしい事を口走っているのだ!!しかも言い逃げか!!最低だ、あの紅葉頭!!
そう憤った所でどうしようもない。オレはこれでもかという程冷ややかな視線を眼下のモクバから感じ、俯く事すら出来なかった。一体どうしたら……し、仕方ない。ここは一先ず何事もなかったように無反応でやり過ごすしかない。……そう心に決めたものの、強張った顔で扉を凝視している不自然な状態から、何気なさを装って最初に腰を落ち着けていたソファーに戻る為の『自然な動作』がオレには思い浮かばなかった。
それでも、動かない事にはこの微妙に凍ってしまった部屋の空気をかき乱す事は出来ない。オレは密かに腹を決めて、多少のぎこちなさは覚悟の上でその場から立ち去ろうとした。
しかし、それはモクバの非情な問いかけに失敗に終わってしまう。
「……ねぇ、兄サマ?……今の、どういう意味か説明してくれる?」
そんな事知るか!オレが聞きたいわ!
と吐き捨ててしまいたかったが、モクバ相手に勿論そんな事が出来るはずも無く。……オレは貴重な休日の残り時間を、しなくてもいい弁明に費やし、心底疲れ果てた。
おのれ遊戯!貴様絶対に許さんぞ、覚えていろ!
と心の中で叫んだオレは、明日から奴を完全無視する事に決めた。
── 約束なんてくそ食らえだ!
そう声に出して吐き捨てて。