Act2 並んだ二人、微妙な距離(Side.遊戯)

「……あれ?海馬くん?」

 月曜日の朝。いつもよりも少し遅れて学校に向かうと、校門から大分離れた住宅街の曲がり角の所に、偶然……本当に偶然、黒塗りの高級車から降りてくる海馬くんの後姿を見つけた。去年もそうだったけど、新学期に入ると最初の一週間位は毎日登校してくる海馬くんは、今学期も変わらずに殆ど毎日来る、とそう言えば一昨日言ってたっけ。

 その間に、僕等が二週間後にやる実力テストや、今年はもう三年生になったから定期的にやる全国模試なんかも全部前倒しで受けてしまうらしい。

 ……海馬くんはいつでも全校どころか全国で一番だったりするし、もう自分の会社があるんだから就職活動も、ましてや大学進学なんかも関係ないだろうし、本当は学校に来る理由なんてこれっぽっちも無いんだけど、一応高校を卒業しておかないと実力があっても「中卒」のレッテルを貼られてしまうから、仕方なく顔だけ出してるんだって言ってた。それもそうだよね。

 それにしたって、何も地元で下から数えて5本の指に入るレベルの公立高校に入らなくったっていいと思うんだ。中学校はそれこそ超のつくお金持ちしか入れないエスカレーター式の私立中学だった筈なのに(城之内くんなんかはそこの学校のトレードマークの白ランを見ると「ぶん殴った上で蹴り飛ばしてやりたくなる」って昔言ってたけどね)なんでそこをやめてこっちに来ちゃったのかな。

 僕としては、童実野高校に来てくれたお陰でこうして一緒にいる事が出来るから凄く良かったけどさ。
 

「海馬くん!ねぇ、海馬くんってば!」
 

 僕は思わずドアを閉めて走り出す車を見もせずに歩き出した海馬くんの背中に向かって声をかけた。僕達の前後にぽつぽつと登校時間が重なった同じ童実野高校の生徒がいたけれど、この道はぐるっと回らないと校門に辿りつけない不便な裏道だから、表通りよりは人が少ない。不便だけど万が一遅刻した時にこっそり入れる秘密の入り口もあるから、僕は遅刻しそうな時だけ使うんだけどね。

 海馬くん、いつもどこから来てるんだろうって思ってたけど、こっちから来てたんだ。ここから校門まで5分位は掛かるから、5分だけでも一緒にいられる!……そう思った僕は、呼びかけた声に振り向いてもくれない身体に向かって駆け出した。

 そんなに距離も離れてなかったから直ぐにもうちょっとで触れられる所まで近づいて、歩くスピードにしては早く動く背中に思いっきり手を伸ばした。

 けれど、後ちょっとの所で海馬くんの身体が横に反れて、僕の指先は空しく空を引っ掻いてカッコ悪く前につんのめった。「うわっ!」と情けない声が出る。

 寸での所で踏みとどまってなんとか転ぶまでは行かなかったけど、先を急いでさっさと歩いていく周囲の人達の中で、僕だけが一人片足飛びみたいになっちゃって凄く恥ずかしい。

 その原因となった海馬くんは、僕を気にも留めないで完全に他人のフリをして歩いて行ってる。……幾ら何でもそれはちょっと酷いんじゃないかなぁ。

 慌てて後を追って、次は避けられない様に左手で少しだけ後ろに振れた右手を捕まえようとした。まさか左手を伸ばしてくるなんて海馬くんも予想できなかったのか今度はギリギリだったけど、学ランの袖を辛うじて捕まえる事が出来た。海馬くんの腕が、びくりと反応して、腕を取り返そうと力を込めてくる。

「……腕を離せ!」
「もうっ、何で避けるのさ。もうちょっとで転ぶ所だったじゃん」
「オレの知った事ではないわ」
「おはよう海馬くん。こんな所で会うなんて偶然だね」
「何事も無かったように会話を進めるな!そしてオレに近づくな!」
「なんで?なんか怒ってる?」
「なんか怒ってる……だと?!自分の胸に聞いてみろ!」
「?……あっ、ちょっと待ってよ!」

 そう言うと海馬くんは思いっきり僕の手を振り解いて、またさっさと先に行こうとする。でも僕も粘り強さでは誰にも負けない自信があるから、直ぐに後を追いかけて行って、今度は後ろから学ランの裾を捕まえた。そして全体重をかけて踏み止まる。

 これにはさすがの海馬くんも僕を引きずってまで歩こうとまではしなくって、本当に嫌々ながらって顔で立ち止まった。そして顔だけ後ろにいる僕を振り返り、凄く怖い表情で睨みつけてくる。……あれ、昨日は初日にしては仲良くなったかな、なんて思ったのに。なんで海馬くんの顔がこんなに怖いんだろう。僕何かやっちゃったっけ?

 一生懸命考えたけれど考えても全然分からなかったから、僕は仕方なく素直に海馬くんに聞いてみる事にした。だって思い当たる事がないんだもん、しょうがないよね。

「あの……僕、海馬くんを怒らせるような事、したつもりないんだけど。本当に全然分からないんだ。だから、理由を教えてくれる?そうしたら手を離すから」
「貴様、偉そうに交換条件を持ち出せる立場か」
「だって、本当の事だもん」
「……ほんっとうに、分からないのか。自分が昨日何をしたか」
「うん」
「…………最悪だ」
「え?何?」
「最悪だと言ったのだ!貴様!帰り際にモクバに向かってなんと言った?!『海馬くんと僕は恋人同士』と言っただろう!お陰でモクバが思い切り誤解して、オレは!」

 海馬くんの声がワントーン上がって、急に堰を切ったように言葉が上から降ってくる。その内容を聞いて、僕はやっと海馬くんが何に怒っていたのか知る事が出来た。そう言えばモクバくんにそんな事を言ったっけ。昨日は凄く楽しかったから最後の最後に調子に乗っちゃってつい口を滑らしちゃったんだけど、モクバくんは小学生だし別に気にしないよね、なんて軽く考えてたんだ。

 ……でも海馬くんがこんな顔をするって事はよっぽど大変な思いをしたんだろうね。後半殆ど金切り声だよ?

「ああ!あれかぁ!」
「あれかぁ、ではない!ふざけるな!!」
「だって、事実でしょ?」
「何?!」
「嘘じゃないよ。事実だもん。僕はモクバくんに正直に答えただけだよ。別に悪い事はしてないし、言ってない」
「馬鹿者!十分悪い事だわ!」
「えーどうして?将来的にもしかしたら本当にそうなる可能性だってあるんだし、別にいつバレたっていいじゃん」
「なるわけがないだろう!万が一にもありえない!」
「それはどうかな、海馬。何事にも絶対って言葉はないんだぜ!」
「……はっ?」
「ってもう一人の僕なら言うと思うよ?」

 にっこりと、本当ににっこりとした笑みを作って、僕はまるでマシンガンのように止まらない海馬くんの言葉を封じるために、一回試してみたかったこの悪戯をしかけてみた。海馬くんはもう一人の僕とは特に気兼ねなく話してるみたいだったから、その真似をしたらどういう反応をするかなって試してみたいと思ってたんだ。

 そしたら、案の定吃驚しちゃったみたいで、海馬くんは滅多に見せない驚いた表情のまま固まっちゃった。……もう一人の僕効果って結構凄い。

 でも。余りにも効果がありすぎて、直ぐに海馬くんはきゅっと口を結んで黙り込む。あれ、そんなつもりはなかったんだけど。使いどころを間違えちゃったかな。
 

「……あの、海馬くん?今のは冗談だけど」
 

 こうなっちゃうと僕も流石に笑ってる余裕なんかなくて、真面目な顔に戻すと恐る恐るそう言ってみた。けれど、海馬くんはもう何も言わなかった。

「制服を離せ。後数分で授業が始まる」
「えっ、あ!ほんとだ。遅刻しちゃうね」

 一転して静かになってしまった声に今度は僕が吃驚して、思わず制服を掴んだ手を離してしまう。すると海馬くんは一言も口をきかないまま、直ぐにさっさと歩き出した。確かに時間が押してるから僕もそれ以上海馬くんを引き止めるわけにも行かなくて、黙ってその後をついていく。

 海馬くんは普通の顔で普通に歩いてるみたいだけど、僕にとってはそのスピードは小走りだ。どうせ小走りになるなら並んで歩きたいなぁと思って、何気なく海馬くんの後ろじゃなくって横に並べるようにスピードを調整した。

 丁度人一人分位の隙間を空けて横並びになる僕達。

 昨日と今日、僕が余計な事を言わなければ、もっと近づく事が出来たのかな。

 海馬くんはもう僕が横にいる事すら忘れてるみたいに真っ直ぐに前を向いて、ぴんと背筋を伸ばして歩いている。やっぱり、凄くカッコいい。

「ねぇ、海馬くん」

 僕は返事を最初から期待しないで、もう一度海馬くんの名前を呼んだ。やっぱり振り向いてくれないけれど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ歩くスピードが緩やかになる。

 それに少し嬉しくなって、僕は本当に真剣に……一言だけ謝ったんだ。
 

「ごめんね」
 

 そうしたら海馬くんは一瞬だけこっちを見て、「フン」と小さく答えてくれた。
 

 そのまま僕達はこの微妙な距離のまま……教室まで歩いて行った。