Act3 昼休みは憂鬱ランチ(Side.海馬)

「……あっ、ごめん……!つい!!」

 殆ど悲鳴のような声が目の前の口から鋭く上がって、オレは一瞬びくりと身を竦めてしまった。当然だろう、まさかこんな事態が起きるとは想像だにしていなかったのだから。大体、それまではともすれば階下やグラウンドから響いてくる煩い騒ぎ声に紛れてよく聞き取れもしなかった相手の声が、大音量で耳元で響けば誰だって驚いてしまう。だから、これは不可抗力だ。仕方がない。

 そう可笑しな程必死に、誰にするでもない言い訳を他でもないオレ自身に延々と言い聞かせていたオレは、その事に夢中で眼前で顔を真っ赤に染めて口を開閉させる相手に頓着している暇はなかった。驚いてびくついてしまうという失態を犯した所為で、思わず反らしてしまった目線を元通りに上向ける事すら出来ない。

 そんなオレの態度を相手はどう取ったのかは知らないが、何故か泣きそうな声で遊戯は「ごめん」を繰り返した。……おい、今の事件は貴様が加害者でオレが被害者だろう。何故、貴様が泣きそうな顔をしているのだ。

 だが、結果的にこうなったのは間違いなく遊戯の所為だ。だからコイツが謝るのは筋違いではない。けれどそんなに必死に、決してしてはいけない失敗をしてしまったと言わんばかりの表情で言い募られても違和感が増すばかりだ。大体貴様はやる気でやったのではないのか。本当にただの弾みだったのか。

 それはそれで、非常に複雑な気分になる。
 

 オレを心の底から驚愕させ、遊戯が必死に謝り倒す原因となった『それ』は、本当に一瞬の出来事だった。
 

 その数秒前までは、遊戯はいつものあの満面の笑みを浮かべながら、立ち膝の状態で手にビタミンCの塊を持ってオレに機嫌よく差し出して来たのだ。そこまでは良かった。けれど、それが何故こんな事態に陥ってしまったのだろう。考えれば考えるほど、計画的犯行としか思えない。

 だが、目前の奴の慌てぶりからみて、これは本当に偶然の出来事だったのだと分かる。ただし……ただしこれだけは言わせて貰いたい。こいつは偶然を『モノにした』のだと。
 

『あ、海馬くん、唇にコンデンスミルクがついたままだよ?』
 

 そう言いながら逆光で影になり表情がよく見えない遊戯の顔が、酷く近づいてきたと思ったら、唇に違和感を感じたのだ。柔らかく湿った何かが……多分舌か何かだったんだろうが……下唇に触れて、離れていく。そこまでは、決して良くはないがまあやりたい事は分かった。

 だが、次の瞬間、確かな意図を持って同じ行為を。否、今度は先程の湿った柔らかいものではなく、オレの唇と同じもの……所謂、唇同士を触れ合わせて来たのには驚いた。驚いて、思わず両手で眼前の肩を強く弾いてしまった位に。
 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
 

 当たり前だ。まさか昨日今日始めてまともに話をした相手と、ただ普通に昼食を食べているという状況で……キス、をされるとは普通思わないだろう。違うか?!
 

「あっ!」
 

 オレが余りにも強く肩を弾いた所為か、遊戯は小さな声を上げて一瞬後方にぐらりと身体を傾がせる。そのまま後ろに倒れても事だと思ったオレは、今度は即座に腕を捕まえて不安定なその姿勢を引き留めてやった。春の風がオレ達の間に出来た僅かな隙間を吹き抜ける。

 そのまま両者とも暫し沈黙した。
 ……何を言えというのだ。この状況で。

 互いにきっかけが掴めず随分と長い間続いてしまった無言の時に、仕方なくオレが何か言ってやろうと口を開きかけた刹那、オレをびくつかせたあの遊戯の悲鳴が上がったのだ。ここで悲鳴をあげるのがオレではなく何故遊戯なのか小一時間程問い詰めたい気分だったが、余りにも無様なその大声にオレの勢いはどこかに消え失せてしまう。

 そして、今。泣きそうな遊戯の顔をオレが術もなく見つめているという現状に至るのである。
 奴の口車になど乗るのではなかった。

 一昨日の晩、モクバに必死で言い訳をしながら、オレは心の底からそう思い、己の迂闊さを悔やんだ。その思いは昨日一日で嫌という程知る事になり、些細な失策だった筈のこの約束は、いつしか人生最大の失敗へと変わりそうだった。

 もう死んでもこいつの相手などしてやるものか、空気以下の扱いにしてやる!と心に決めたものの、朝顔を合わせた時点でそれはあっさりと覆され、結局共に教室に入る嵌めになり、一度目の休み時間には、朝オレ相手に下らない真似をして一人落ち込んでいた筈の奴の姿はもう何処にもなかった。

 そしてそれは時間と共に徐々に勢いを増して行き、昼になる頃には以前よりもパワーアップしていたのだ。全くこいつの脳の構造はどうなっているのか真剣に知りたい。今度実験材料にしてやる、と密かに心に決めたオレは、とりあえず適当にあしらっていた。が、どんなに冷たく接しようとも、それは全て逆効果となった。

 ……一体どうすればいいのか分からない。なんなんだこいつは。
 

『ねぇ海馬くん。一緒にお昼ご飯食べようよ。今日お弁当持って来た?』
 

 4時限終了後の昼休み。遊戯は既に当たり前のようにオレの側に寄ってきて、ごく普通にそう言った。オレは、まさか昼にまで付きまとわれるとは思わなかったので、とりあえず即座に「昼食は食べない」と突っぱねた。

 実際、それは嘘ではなくただの事実で、オレは平素から昼に何かを食べるという習慣がなかった。勿論他会社との昼食を挟んでの会議や、付き合いで外食をしなければならない時は別だったが、それ以外は必要性を感じなかった。

 食べても食べなくても、体調に変化はない。むしろ最近は食べると調子が狂う場合がある。人間の順応性とは恐ろしいものだ。モクバ辺りからはきつく叱られたりするのだが、体がそうなってしまったのだから仕様がない。

 上記の事を長々と説明するのも面倒で、それらを集約した意味でのその一言だったが、奴には当然それが伝わる筈もなく、即座に「そんなのダメだよ。体に悪いよ」と逆に切り捨てられた。そして突然数日後の身体測定の話を持ち出し、それ以上痩せると男として格好が悪い、などとよく分からない説教まで付加された。

 ……何故オレが遊戯に説教をされなければならないのか、全く腹立たしい。

 結局昨日はその後一昨日嫌と言う程聞いた、既にオレにとっては呪いの言葉である『恋人のいう事を聞け』の一言で、オレは渋々……本当に渋々遊戯に付き合って、入学してから一度たりとも足を踏み入れた事のない学食へと拉致されたのだ。
 

 そこでの時間はまさに最悪だった。

 ただでさえ校内で悪目立ちしているオレが学食になどやって来たものだから、好奇の視線が集中し、とても昼食どころの騒ぎではなかった。遊戯も遊戯でその空気に気づけばいいもののそれには全くの無関心で、一人大好きだと言うハンバーグ定食を頬張り、同じものを食べさせようというのをオレは頑なに拒否し、サンドイッチ一つとコーヒーでその時間をやり過ごした。

 ……もう二度とこの空間には足を踏み入れまい。オレは心の底からそう思い遊戯にもきっぱりとその旨を些かキツイ口調で告げてやった。すると奴は「じゃあ明日は人がいない所で食べようね」と言ってきた。

 ……その瞬間、オレはもうこいつに何かを期待する事も、粗雑に扱って遠ざけようとする事も諦めた。
 

 そして今日、既に憂鬱な時間になりつつある昼休み。

 遊戯のごり押しにやはり負けて、オレは奴の導かれるままに屋上に連れて来られた。生徒が集う教室の上にある屋上ではなく、そこから少し離れた別棟にある、音楽室や美術室そして職員室などが集結している管理棟の屋上だったから、確かに人はいなかった。今思えばそれは少し迂闊だったかもしれない。その時点ではまさかこんな事になる等とは思わなかったから、仕方のない事だったが。
 

「今日はね、友達にも少し分けてあげるんだって、母さんに余計に作って貰ったんだよ。だから海馬くんも食べてよね」

 そう言いながら、昨日と同じくサンドイッチ一つだけを申し訳程度に食べたオレに、殆ど無理矢理あれこれと押し付けながら、遊戯は終始笑顔を絶やさずにいた。……何がそんなに楽しいのかオレにはさっぱり理解が出来なかったが、能天気なその顔を見ているのはさほど不快ではない。次々と差し出される奴の母親の手作りだという物品の中から玉子焼きだけを受け取って口に入れた。

 なんとなく、懐かしいと思える味だった。
 

「もう、海馬くん全然食べないじゃない。美味しくない?」
「そうではない。だから、昼は食べないのだ」
「食べないのになんでそんなに背が高いのさ。不公平でしょ」
「知るかそんな事」
「じゃあご飯はいいから、果物は食べて。はい、苺。海馬くん気づいてないかも知れないけど、ほっぺたに一個だけニキビ出来てるよ。ビタミンCが足りないんじゃない?」
「貴様には関係ないだろうが」
「関係あるの。恋人の体調管理もしっかりしなきゃ!……あ、そういえば母さん思いっきりコンデンスミルクかけちゃってるけど……甘いの大丈夫?」
 

 オレがいいとも嫌だとも言う前に勝手に話を進め、モノを眼前に突きつけてくる様子に逆らえるはずもなく、仕方なく……本当に仕方なく、それだけは食べてやった。結局三つほど強引に押し付けられて、後はいらないと突っぱねれば、数の少なさに多少の不満を示したもののそれ以上無理強いをする気もなかったのか、遊戯は一応頷いて残りは自分で食べてしまう。

 これで漸く憂鬱な時間も終わりを告げる、オレがそう思い、腕時計で時間を確認したその時だった。苺を食べさせるために大分至近距離にいた遊戯が、ふとオレの顔を凝視して、こう言ったのだ。
 

「あ、海馬くん、唇にコンデンスミルクがついたままだよ?」
「ごめんっ、本当にごめんっ」

 遠くで午後の授業開始のチャイムが鳴った。けれどオレ達はその場から動けもせず、相変わらず向かいあったままだった。遊戯の既にうんざりするほど聞き飽きた謝罪の言葉に、オレはいい加減辟易して、深い溜息と共に目の前で下がりっぱなしのその頭を掴んで強引に引き上げた。

「煩い。分かった。もういい」
「えっ、キスした事、怒ってないの?」
「やはりするつもりでしたのか貴様!」
「ち、違うよ!……あ、でも、そうかな?」
「どっちだ!はっきりせんか!」
「うーん。最初はするつもりがなかったけど、弾みで唇を舐めちゃったらしたくなった、かな?」
「…………その前段階で既におかしいだろう」
「だって海馬くんの唇、苺みたいで美味しそうだったんだもん。仕方がないよ」
「仕方がないではない!」
「うん。仕方がない。だってしょうがないよね?恋人なんだもん」
「開き直るな!!」
「海馬くんが怒ってないって分かったら、なんかほっとしちゃった」
「人の話を聞かんか!」

 先程までの泣きそうな顔は一体どうした?!本当にどうなっているんだこの馬鹿は!

 オレは腸が煮えくり返るかと思ったが、その意思に反して目の前で再び笑ったその顔を殴り飛ばしてやろうとか、更に怒鳴りつけてやろうとか、そう言った気持ちはついぞ沸いてこなかった。

 ……今度はオレがおかしくなってきた。全くどうかしている。し過ぎている!
 

「ね、明日もまたここでお弁当食べようね。海馬くんは何が食べたい?」
 

 貴様、オレに毎日この憂鬱な時間を繰り返させるつもりか。いい度胸だな。

 そう思いつつ、オレは少しだけ顔を上げ、立ち上がって手を差し伸べてくるその小憎らしい笑顔を眺めてしまう。その姿に今はもうここにはいない誰かの顔を思い出して、オレは僅かに目を細めた。その男に特別な感情を抱いたわけでも何でもなかったが、唯一のライバルとして認めた相手だっただけに、消えてしまったのは惜しいと思った。

 ……ただ、それだけだったが。
 

「海馬くん?」
 

 呼ばれる声にはっとして、奴に重なった幻影を消してしまうと、オレは漸く立ち上がる為にコンクリートの上に手をついた。冷やりとしたその感覚に、オレの心も僅かに冷える。目の前の『武藤遊戯』に対して少しだけ、ほんの少しだけ罪悪感を感じた。何にそう思ったのか、オレ自身にも分からなかったが。

 今度こそ真っ直ぐに『武藤遊戯』を眺めやる。

 オレの視線に奴は心底優しい笑みを見せて「さぁ、行こう」と口にした。
 先を行くその背を追うように、オレもゆっくりと歩き出す。
 

 唇に、未だ感覚が残っていた。

 ……甘い、コンデンスミルクの味と共に。