Act7 そういう処が酷いよ(Side.海馬)

「酷いよ海馬くんっ。僕は……僕は、本気だったのに!」
 

 そう言って、有無を言わせず人の頬を殴りつけた張本人は何故か瞳から大粒の涙を流してしゃくりあげた。

 ……最後の最後まで意味が分からない。オレは貴様が望んでいたから行動を起こしただけで、それ以上の気持ちもそれ以下の気持ちも無い。なのに何故、殴られなくてはいけないのか。泣き出さなくてはいけないのか。全く持って不可解としかいい様がない。

「……ごめん」

 暫しの沈黙の後、今度は一転して謝罪の言葉だ。……貴様一体何をどうしたいのか。そしてオレに何を求めているのか。はっきりと説明する事もせずにただ感情的に言葉だけを投げつけられてもこちらとしては対処の仕様が無いというのに。どうしろと……。

「僕は……ただ、君が好きで……。本当に、本当に恋人になりたいな、って思ってて。でも海馬くんは僕の事なんか全然眼中にもないって分かってたんだ。海馬くんが見ていたのは、もう一人の僕だったから。あ、好きっていう意味でじゃなくてね。唯一のライバルデュエリストとして、なんだろうけど」

 オレが何も言えずに黙っていると、突然遊戯は思いもかけない言葉を紡ぎ始めた。前半部分はこの一週間毎日聞かされていた事だったから今更何も思う事はないが、後半部分はまるで初耳だった。何故、そこでもう一人の遊戯の話が出てくるのだろう。オレはただの一度も、それを匂わす話はしていない筈だ。当然だ。オレが今週ずっと向き合っていたのは『奴』ではなく『武藤遊戯』の方なのだから。

 なのに、遊戯はいきなりそれは違うと言い出した。視線が違うと。そんな馬鹿馬鹿しい言い訳をつけて、折角最後だからとやる気になってオレから近づいてやろうとしたらこの様だ。本当に意味不明で腹立たしい。

「海馬くんは気づいてないかもしれないけど、さっき、僕をじっと見てた眼差し。あれは僕に向けられているものじゃなかったよ。僕の背後にある『何か』をじっと見つめてた。僕の後ろにはいつももう一人の僕が居た。君は、無意識に彼を探してたんじゃないの?」
「何を一人で勝手な事を言っている。オレがいつそんな事を口にした。態度に出した?」
「今、出ているよ。君はちゃんと僕を見てる?」
「当たり前だ。この部屋にオレと貴様以外に誰がいると言うのだ!……大体、大体貴様が勝手に言い出したんだろう!好きだから一週間付き合えと。限定でいいから恋人になれと!オレはその約束を不本意だが結んでしまった。だからこうして……!」
「だから、我慢して付き合ってくれたんでしょ?最後だからって無理してキスしてくれようとして!」
「勝手に決めるな!」
「勝手じゃないよ!僕にはそうにしか思えない!」
「貴様!」
「じゃあ、僕のことが好き?!本気でキスとか、エッチとかしたいって思える?!」
「……なッ……それは!」
「ほら、やっぱりそうじゃないんじゃない!」
「貴様は即物的過ぎるのだ!何故直ぐにしたいだのしたくないだのになる!」
「僕を何だと思ってるんだよ!君と同じ高三だよ?!当然でしょ!」

 ……そこを当然、と押し切られても価値観の違いというものが個人間には存在し、貴様がそう思ってもオレはそうは思わない、という事は多々ある。ここで個人の貞操観念を述べるのも間抜けな話だが、オレには元々好き嫌いの概念というモノは存在せず、人に対する感情は特に希薄だった。

 散々に苦渋を舐めさせらた義父の事すら、今では特にどうとも思わない。腹立たしい、憎いと時折思い出す事はあるが、それが嫌い、という感情なのかどうかはわからなかった。故にその対極にある『好き』の感情に付随してくる、恋愛だのキスだのセックスだのにはまるで興味が無い。

 そしてもっとはっきり言えばモクバ以外の人間はどうでもいいと、本気でそう思った時期もある位他人には興味がなかった。今も余りその考えに変化はないが、この一週間目の前の男に付きまとわれて様々な『体験』をさせられてからというもの、少しではあるが変わってきたように思えたのだ。

 少なくても、この男……遊戯には興味を持ったのだ。最初は苦痛だった共にいる時間も、今ではそれが当たり前になっていて、特にどうとも思わなくなった。煩いと思っていた話し声も、鬱陶しい程突きつけられる笑顔も、聞き飽きた「好き」という言葉も、突然思い出したように触れてくる指先も、今思えば考えられないほど強引で身勝手なキス、のようなものも、いいとも思わなかったが嫌悪を感じるまでは至らなかった。それなのに。
 

 オレから手を伸ばしたら、身体を引かれた。キス、をしたら、殴られた。

 これで混乱するなという方が無理なのではないだろうか?
 

 今日は約束の一週間の最終日で、「今日で最後なんだね」と呟いて遊戯が余りにも悲しそうな顔でオレを見るから、ああ、本当に限定にするつもりだったのだな、とオレも理解して。最後ならば一度位オレから何か恋人らしい事をしてやったほうがいいのかと、そう思って。
 

 素直にそう口にして、行動に移しただけだったのに。

 それが酷い、と言われるなど、想像だにしなかった。
 

「……ごめん、海馬くん」
 

 謝罪の言葉はどうでもいい。
 問題は、何故貴様がそんな事を口走り、オレを殴ったか……だ。
 

 何でもいいから話せ遊戯。
 オレには何も分からない。
「今日、学校お休みでしょ?仕事の邪魔をしちゃ悪いかな、と思ったんだけど……やっぱり会いたくなったから、押しかけちゃった。ごめんね?」
 

 そう言って奴がKC本社に姿を現したのは丁度仕事も一段落し、軽い朝食を取った直ぐ後の10時過ぎの事だった。フロントからの連絡で遊戯の来訪を知らされたオレは、直接社長室まで連れて来いと指示をし、側で控えていた秘書その他を全て退け、奴を自室へと招いた。

 数分後、奴は物珍しげな顔を隠しもせずに、恐る恐る扉を超えてオレが指し示したソファーへと腰を下ろした。高級な皮ソファーの感触が慣れないのか、しきりに座り位置をずらしながら、伺うようにオレを見る。

 昨日は突然舞い込んだ緊急の仕事に追われて学校に行く事が出来なかったから、こうして顔を合わせるのは一昨日以来になる。こいつの顔など今まで気にした事もなかったが、さすがに毎日顔を突き合わせていると、視界にそれがあるのが馴染んでしまうようになり、昨日一日は少しだけ違和感を感じていた。今こうして視界に奴の顔を入れてみて、始めてその違和感に気づいたという有様だ。

 ……重症だ。密かにオレはそう思った。

「何か飲むか?」
「ああ、うん。なんでもいいけど……気にしないで。仕事もしてていいし。海馬くん忙しいと思って、僕もちゃんと暇つぶしを持って来たんだ。ほら」

 座ったきり何も言わない遊戯に、オレが一応気をきかせてそんな言葉をかけてやると、奴はにこりと笑ってオレに多数の参考書と問題集を掲げてみせた。どうやらオレが仕事をするだろうと見込んで、自前で時間つぶしを用意してきたらしい。感心な事だ。

「……どういう風の吹き回しだ?昨日から天気が荒れているのは貴様のその行いの所為か」
「酷いなぁ。僕が勉強するの、そんなに珍しい?これでも受験生なんだよ?」
「本気で行くつもりなのか、大学に」
「勿論だよ。……ここに持って来たのは、わかんない時は海馬くんに聞けるかなぁって思ったからなんだけどね」
「なんだそれは、結局邪魔になるのではないか」
「極力邪魔しないようにするから。ね?」
「まぁ、なんでもいいが……好きにしろ」

 真っ白なノートを目の前に広げ、シャープペンを片手に本気で勉強をするつもりらしいその姿を眺めながら、オレは小さな溜息を一つ吐くと、内線で飲み物を持ってくるように指示し、中断していた作業を再開する。程なくして、オレの元にはコーヒーが、遊戯の元には何故かココアが用意された。それに奴は頬を膨らませて抗議した。

「ねぇ、今の人、僕の年齢勘違いしてない?」
「どうだろうな。オレと制服が同じなのだから、学校の種類を間違えるという事はないだろうが」
「……童実野中学も同じ制服なんだけど」
「ならばわからん。間違えたのだろう」
「社員教育がなってないよ、海馬くん」
「貴様がもう少し年相応になればいいのだ」
「えー。海馬くんだって、そうしてると高校生になんか見えないよ」
「オレはそのほうが都合がいい。年齢で判断されるのは気に食わないからな」
「もうっ、笑わないでよ。意地悪なんだから」

 そんな風にあからさまに感情を顔に出すから、貴様は他人から正確な年齢を測って貰えないのだ。そう口にしようとして、さすがにそれは気の毒だろうと思い、言葉を喉奥に押し込める。変わりに忍び笑いが漏れそうになり、慌てて口を固く引き結んだ。

 全く、こいつがいるだけでこんなにも部屋の空気が変わってしまう。何時もは静かで多少の機械音と、時たま響く電話の音だけしか聞こえない硬い空気の流れる社長室が、一転して和やかな空間になる。目の前で問題に取り組むその姿は、同じ年齢の男に対しては酷く不適切な表現だが何故か酷く可愛らしい。
 

 ……可愛らしい?
 

 至極自然に頭に浮かんだその単語に、オレは一瞬動揺した。どちらかと言えば好意的なその単語をまさか目の前の男に対して思い浮かべるなどとは思わなかったから。
 

 
 

 何時の間にか作業をする手は止まっていた。直ぐに処理しなければならない案件がいくつか残っているのに、指が動かない。データを凝視しなければならない視線は、気づけばディスプレイを飛び越えて、懸命に手を動かす遊戯の顔を見つめてしまう。おかしい。気が散ってしょうがない。いつもなら、誰かが側にいるのは当たり前で、全く意識すらしないのに。
 

『一週間でいいから、僕と恋人になってくれない?』

『お試し期間として、ね?』
 

 そうして遊戯の顔を見ていたら、不意に一週間前のあの日の台詞が頭に過ぎった。そう言えば今日は約束の7日目だ。今日で奴との約束も終わる。お試しとかなんとか言ってはいたが、期限延長を口にしない事から、本当に最終日なのだろう。

 恋人と言っても、特にそれらしい事は何もなかった。まあ、奴が強引にキスまがいの事をしては来たが、それもただの一度きりだ。……屋上のあれは事故だから、数には数えない。だから、本当に恋人だったのかどうかすら曖昧で、今でもよく分からない。別にオレはだからどうしたとか、これからどうなりたいとか確固たる思いは無かったが。ただ、なんとなく妙な感慨を持ってしまったのだ。
 

 ああ、これで、こんな時間も最後なのだろうな、と。
 

 酷く真剣なその横顔。少し難しい問題を解いているのか、普段には余り見られない眉を少し寄せて深く集中しているその顔を見ていると、ふっと既視感を覚える気がする。

 それはそう……『武藤遊戯』ではなく、『もう一人の遊戯』がよく見せていた横顔だ。鋭い眼差しでカードを手にオレを初めとする様々な敵に挑んでいくその姿を、オレはずっと間近で視ていた。時折見せる形容しがたい複雑な表情や、光の中に消える直前の笑顔すら勝手に脳裏にちらついて、オレは思わず緩く首を振った。そして止まってしまった指先を握り締める。

 あの『事故』のあった日。屋上で感じた、なんとも言えない僅かな罪悪感が胸に満ちる。何故、今ここで奴の事を思い出さなければならないのか。奴はもういない。消えてしまった。当たり前だ。元からこの世の者ではなかったのだ。あるべきものはあるべき場所へ還る。世の中の通りだ。何も不思議な事は無い。

 奴がこの世から消えてから、遊戯は奴の事をオレの前では一切口にしなかった。オレも特に口にしようとは思わなかった。何故なら、口にしたいほど何か思い入れがあるわけでもなかったからだ。それ以上に、そんな感慨に浸る前に『武藤遊戯』がその存在をオレに主張してきたのだ。奴の事を考える暇などあるわけがない。……これからも。状況によっては暇など、在る筈も無いのだ。
 

「海馬くん?」
 

 不意に、遊戯がオレを呼ぶ声が耳に届く。はっとして視点が定まらなかった瞳を奴に向けると、何故か酷く悲しそうな顔をする。……一体なんだ?何があった?そう訊ねようとオレが口を開く前に、奴はペンをテーブルの上に置き、大きな溜息を吐く。

「ごめん、手が止まってるね。僕、邪魔してるのかな」
「!……いや、そんな事は」
「なんか、寂しいな」
「何がだ」
「今日で最後なんだなぁ、って思うとさ」
「………………」
「でも、凄く楽しかったよ。本当に、思い切って海馬くんに言ってみて良かった!」

 そう言って、僅かに顔を歪めながらも笑う遊戯を見つめながら、オレはなんだかそうしなければならないような気になって、思わず座っていた自席から立ち上がり、ゆっくりと遊戯の元へと歩んで行く。一歩一歩まるで踏みしめるように足を進めながら、オレはついに、手を伸ばせば目の前の肩に指先が触れるという所まで近づいて、上から奴を見下ろす形で留まった。

「何?どうしたの?」
「今日で、最後か」
「……う、うん。だって一週間って約束だったし……ね」

 オレが確認するように口にした言葉に、遊戯は多少の戸惑いを見せながらもはっきりと頷いた。これが、オレにとっての期限延長宣言の最終ラインだった。今ここでそれを言い出さないという事は、これで終わりにするという事なのだろう。……そうに違いない。

「そうか」
「そうだよ」

 あっさりと肯定するが如く頷くその仕草に、何故か小さな痛みを感じた。……なんだ、結構オレもこの状況を楽しんでいたのではないか。そんな思いに今更気付いて馬鹿馬鹿しさで一杯になる。最初から言われていただろう、一週間と。ただ互いを良く知るために、お試しの……一週間だと。

 最初はそれをどう乗り切るか、どうやって奴の勘違いを正すかに躍起になるはずだったのに、何時の間にか主導権は奴にとって変わられ、ペースも何もかも向こうの意のままになってしまった。そして、それに反発を覚える気さえ無くしてしまった。今はもう当たり前にすらなっていた。

 たった一週間で何が出来るのかと思っていた。何もできまい、とタカを括っていた。けれど実際は、こんなにも大きく変わってしまった。変えられてしまったのだ。遊戯に。

 変えられてしまったのに、これで、終わりなのだという。

 それは無責任だろうと怒鳴りつけてやりたい気持ちになる。だが、初めから『契約』だったのだから、何も言えない。オレが言うべきでは無いような気がした。
 

 だったら、残された手段は、これしかない。
 

「……ならば最後位、オレも『恋人』らしい事をしてやろう」
「え?」
「目を閉じろ」
「えぇ?!海馬くんまさかっ……」
「いいから言う事を聞けッ!」
「かっ……んっ……!」
 

 そう言うが早いが、オレは遊戯が目を閉ざしたのを確認する間もなく、上からその頬を両手で押さえつけ、その口を塞いでやった。一瞬逃げる素振りをしたのが腹立たしく、些か手に力を込めてしまう。やり方など良く分からないので、先日遊戯からされたその通りに僅かに空いた隙間から舌を差し入れ、そこにあった柔らかなそれに触れて絡ませる。

 始めての奇妙なその感覚に、ぞくりと背に悪寒が走ったが気にせず、息が上がるまで繰り返した。どちらのものとも言えない唾液が互いの顎を伝い、糸を引いて下に落ちる。気色が悪いと思った。けれど、不快でもなかった。

「……っ、はぁっ……海馬くんっ……、ちょっ……と待って!」
「……っん、何だ!」

 長い時間を要して、漸く離れた互いの唇から、唾液と共に妙な息遣いが漏れて、思わず赤面しつつ、いきなり上がった声に動きを止める。緩やかに上下する肩に何時の間にか置かれた指先は強く力が込められていて痛い位だった。それは、縋るというよりも、押しのける形に近い。先日、オレが遊戯にした仕草と酷く似ていると思った。

「どうしてこんな事をするの?」
「何?」
「だから、どうして僕にキスするの?」
「どうしてって……」
「『恋人』だから?『最後』に、『仕方なく』してくれてるの?」
「………………」
「そうなんだ?!」

 瞬間、頬に小さな痛みが走った。本当に、ただ指先が掠めただけの些細な衝撃だったから、それが遊戯がオレを平手で殴ったものだとは、暫くは気付かなかった。オレはただ呆然と、じわじわと熱と痛みが広がる頬の感覚を追い、目の前で顔を歪めてオレを睨む遊戯の視線を見返していた。

 何が起ったのか、わからかなった。

 それを把握しようとする前に、遊戯はありったけの声を出して、オレに怒鳴ったのだ。
 

「酷いよ海馬くんっ。僕は……僕は、本気だったのに!」
 何が本気とか、本気じゃないとか。そんなのはよく分からない。

 けれど貴様が本気だというのであれば、今のオレも本気だったのだ。
 

 大体貴様はオレの言葉を聞きもしないで、勝手に決め付けて、怒って、泣いている。それは余りにも理不尽だろう。違うか?
 

 だが、奴が言う事は、大半が誤解だが一部合っていた事に今は気づいた。
 

 オレは先程、その横顔を見ていたあの数秒、確かに『奴』の事を考えていた。考えてはいたが、それは別に奴に何か思い入れがあるとか、そういう意味では決して無いのだ。ただ漠然と、ああ似ているな。と思っただけだ。

 それは例えば貴様がオレとモクバを交互に見て、「やっぱり兄弟だね。似てるところがあるよ」という感覚と同じものだ。一つの身体を共有していた貴様等だからこそ、どこか似ていると感じたのだ。ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 けれど貴様はそれを『奴』への思慕だと言うのだろう。……その思慕に浸る暇さえ与えなかった貴様が何を言う。ふざけるな。そう、言いたかった。

「……遊戯、オレは」
「ごめん、海馬くん。もういいんだ」
「何がいいんだ」
「僕は、この一週間で十分だったから。もう我侭は言わないよ。最後にキスまでしてくれたのに、叩いちゃってごめんね。痛くなかった?」
「遊戯!」
「帰るよ。もう、邪魔しないから。仕事、頑張ってね」

 オレの言葉になど耳を貸しもせずに、一方的にそう言い放ち、テーブルの上に広げていた荷物を一纏めにして鞄に放り込むと、遊戯はそれ以上何も言わずに、本当に逃げるように部屋から飛び出して行ってしまった。その一分にも満たない間。オレは幾度か自分の気持ちを言葉にしようと試みたが、険しい顔で下を向くその様子にどうしても口を開く事が出来なかった。

 一人残された部屋の中で、オレは暫しその場に佇んだまま、この数時間の間この部屋で起きた出来事を考えていた。けれど、幾ら考えたところで、導かれる答えは『終わり』の三文字だけで、それ以外の結論が出よう筈もなかった。

 そう、これでもう終わりなのだ。何もかも。明日からはこれまでと変わらない日々が繰り返されるだけだ。仕事中心の、目の廻るほど忙しい日々が、絶え間なく。そこに遊戯など存在しない。元々存在などしていなかったのだ。
 

 大きな溜息が吐き出される。

 無意識に視線を巡らせた秒針が音を立てる壁時計を凝視して、オレは生まれて始めて時間を戻すことが出来れば、という録でもない事を考えた。

 そして、今更ながらある一つの単語を思い出し、それを一言、奴に言ってやれば良かったのだと……気づいたのだ。

 奴が何度もオレに向けて繰り返した、あの言葉。
 

『好きだよ』
 

 けれどもう、その言葉を聞くことも、言う機会も、訪れないのだ。

 約束の日は、終わってしまったのだから。