Act3 君が好き

「海馬くん」
「何だ」
「あの……そんなにじっと僕の事を見て、何か面白い?」
「別に」
「じゃあどうして、視線を反らさないの?」
「貴様は人と話をする時は目を見ろと教えられなかったのか」
「教えられたけど……」
「では、何も可笑しな事ではないだろうが」
 

 そう言って、一瞬だけ手元の書類に目線を落とした彼は、またゆっくりと顔をあげる。そこまで自分の行動の正当性を主張されてしまうと、僕はもう何も言えなくなる。そろそろ夕方に近い、午後五時の社長室。僕がアポイントもなしに押しかけて行ったにも関わらず、特に嫌な顔をしなかった彼の何処までもクリアな青空よりもまだ青い瞳が、そんな僕の姿をはっきりと映し出す。

 そこにいる僕は、どこからどうみても武藤遊戯だ。高校生らしくない幼い顔立ちに、おどおどした自信のない顔。自分で見てもうんざりするほど情けなく目に映る。それでも、彼は視線を外さない。

 海馬くんは僕と話をする時、真っ直ぐに目を見つめてくる。最初それは挑んでいるとか、探っているとか、そういう意図があるんだと思っていたけれど、最近はそうじゃないって気がついた。彼はいつも真剣で真っ直ぐで、そして自分の真剣さと同じだけのものを相手にも求めてくる。僕は、それが密かに重荷だった。

 ほんの少し前まで僕の中にはもう一人の僕がいて、海馬くんの瞳はいつも『彼』を見ていたから。『彼』の宿らない僕を真剣に見る眼差しが、前よりももっといたたまれなく感じたんだ。
 

 そんなに見つめたって『彼』はもう居ないんだよ。
 

 そう、声に出して言いたかったけれど、それを言ってしまったら、自分がもっと惨めになるだけだから、それだけはどうしても言えなかった。けれど、もやもやは溜まっていく。

 僕は君の事が好きなのに、君は多分『彼』の事が好きで、一方通行の恋は行き場を失って、一体何処へ行くんだろう。

 ついに僕は海馬くんのその視線から逃げるように、目線を大きくて立派な社長椅子からその背後に広がる青空に向けた。完璧に磨かれた窓硝子は曇りは勿論傷一つなくて、よく目を凝らさないとそこに窓があるという事すら忘れてしまう。君はいつも手を伸ばせば届きそうなこの青を眺めながら何を考えているんだろうと、そんな余計な事を考えて、この居心地の悪さを誤魔化そうとした。

 沈黙が耳に痛い。それでも、話す事も浮かばない。

 考えてみると、海馬くんと僕の間では共通の話が余り無い。僕は『彼』ほどデュエルに強いわけでも無いし、海馬くんの仕事の事は全然分からないから大変だね、の一言で終わってしまう。城之内くん達と良く盛り上がる、流行りのアニメや漫画は多分海馬くんは観も読みもしないだろうからから、「低俗だ」と一蹴されるのが怖くて話を振る勇気も無い。

 最後の手段として好きな子の話とか恋愛関係の事ならある程度は通用するかもしれないけれど、その話をする事によって敢えて僕も海馬くんも避けているだろう『彼』の事に辿り着いてしまうのが怖かった。勿論それは全部僕の憶測で、海馬くんがそんな話をした事も素振りさえも見せた事はないけれど。なんとなく、分かってしまう。

 ああ、なんで僕はここにいるんだろう。

 学校の帰りにふと思い立って勝手に持って来た海馬くんのプリントを渡しがてら、お互いの近況を少しだけ話すつもりだった。でもその本来の用事はこの部屋に入って数秒で終わってしまって、今はもう僕がここにいる必要なんてまるでない。海馬くんは手にした仕事を処理しなければならないのに、僕が出て行かないから視線を反らせずにいるみたいだし、これじゃあ何処をどうみたって単なるお邪魔虫だ。

 本当はもっと、君と色んな話がしたいのに。何を話せばいいのか分からないなんて情けない。……やっぱり駄目だ。仕切りなおそう。

 僕がそう思って海馬くんに「帰るね」と言う為に小さな深呼吸をしようとしたその時だった。
 

「遊戯」
 

 海馬くんの声が、凄く近くから聞こえる。まるでそう、頭の上から降って来るみたいに。僕は慌てて、微妙に反らしていた海馬くんがいた場所へ視線を向けると、そこは既にただの椅子だけが揺れていて、僕の直ぐ傍…丁度ナナメ前の位置に、海馬くんは立っていた。いつの間にこんな所まで近づいていたんだろう。それよりも何故、彼が僕になんか近寄ってくるんだろう。わけが分からない。そう思って、僕は反射的に一歩後ずさろうとしたその瞬間、再び海馬くんの声が聞こえた。

「オレを見ろ、遊戯。視線を反らすな」
「か、海馬くん」
「貴様、先程からだんまりを続けて一体何の真似だ?オレに何か話があるんじゃなかったのか」
「……あ、あの。ええと」
「何故、視線を反らす。話をする時は人の顔をきちんと見ろ。それとも何か。オレの顔が見られない理由でもあるのか」
「そんな事は、ない、けど」
「ならば何故顔を上げない。近づくと逃げるのだ」
「………………」
「……オレのことが嫌なら、わざわざ一人でこんな場所まで乗り込んで来るな。そんなどうでもいいプリントなど社の誰かに預けておけばいい」
「え?」
「貴様の行動は意味不明なのだ」

 そういうと、海馬くんは僕が後ずさろうとした一歩分、自分で身を引いて距離を取る。僕の上に淡い影が落ちる。それは考えなくても僕の正面に立つ海馬くんの影で、その位置から海馬くんがじっと上から僕をちゃんと見つめているのが分かる。あの真剣で真っ直ぐで純粋な、綺麗な青い瞳が映す挙動不審な僕の姿は、きっと凄くみっともなく映っている筈なのに、海馬くんの声は怒ってはいなかった。それどころか、少しだけ、悲しそうな声に聞こえた。

 今、顔を上げたらどんな表情の君が見れるんだろう。けれど、やっぱり僕にそんな勇気はない。本当はこのまま、逃げ出してしまいたかった。

「……僕は」

 ぎゅ、と両手で今はもう何もなくなってしまった制服の胸の部分を手で掴んで、何を言うか決めないまま口を開く。君は僕が君の事を嫌っている、なんて言ったけれど、そんな事あるわけないじゃない。何の為にわざわざ先生の所までいって、この役目を買って出ていると思ってるの?ここに来て、凄く場違いな事に緊張しながら受付のお姉さんに、海馬くんの部屋まで通して貰ったと思ってるんだよ。全部、君に会いたかったからなんだよ?

 でも、そんな事言えない。言ってどうなるとも思えない。僕がそれを君に告げた後に、素っ気無くあしらわれる事を考えると、辛くって悲しくなるから。

 お願いだから、今日だけは帰らせて。自分から押しかけておいて、随分勝手な言い草だけど、次こそは君の目を見てちゃんと話が出来るように心の準備をしてくるから。ああ、でも、そんな事を幾ら心で思ったって、海馬くんには伝わらない。きっとこのまま、俯いたまま話をしても聞いてなんて貰えない。怖いけれど、どうしようもなく苦しいけれど、君の目を見て言わなくちゃ。

 そう思いながら、僕は意を決してゆるゆると顔を上げた。一センチ、また一センチと視線が上がる。一気に行かないのはやっぱり怖気づいてるからで、いきなり見慣れたあの怖い顔とかち合ったらきっと反射的に逃げてしまうかもしれないと、そう思ったから。

 漸く、僕の視界に君の顔が映りこむ。そして、僕の目と、君の瞳がぴったりと重なった。

 そこにあったのは、さっきと、ううん、今までと全然変わらない真摯な眼差し。『武藤遊戯』だけになった僕を、はっきりと映している。……君はいつまで経ってもそんな目で『彼』を見るような視線で僕を見る。どうして?僕の方こそ君が分からない。意味不明だよ。そう思うと、なんだかちょっとだけイライラする。そのイライラは、今この瞬間に感じた多大な緊張感に圧迫されて、つい口に出てしまった。

「そんなに見つめても、ここには僕しかいないんだよ?」
「何を言っている。そんな事、当たり前だろうが」
「海馬くんが見ていたのは、僕じゃないでしょ?」
「何故、断定口調で言う」
「だって、分かるもん。君が誰を見ていたかなんて。分かって、悲しくて、切なくて」
「遊戯」
「僕……ううん。なんでもない。もう用事も済んだから、帰るね。また、学校で!」
「遊戯!」

 自分でも思わず出てしまった言葉に、内心凄く焦ったけれど、言わずにはいられなかった事も本当だから、僕は叩きつける等に吐き出してしまった言葉を掻き消す事はあきらめて、この場から逃げる事を選択した。僕がこんな事を言っても相変わらずじっと見つめてくる海馬くんの視線を振り切るように、急いで後ろを振り向いて、駆け出そうとする。けれど、鞄をソファーに置いていた事を思い出して、僕は一瞬戸惑った。その戸惑いを、海馬くんは見逃さなかった。

 海馬くんがちょっと身を乗り出せば、その長い手足で僕を捕まえることは簡単で、案の定ほんの僅かに動いた彼の白い手に僕の腕は敢え無く捕らえられてしまう。駆け出そうと前に行く力と、引きとめようと後ろに引く力が同時に僕の身体で鬩ぎ合い、あっさりと後者が勝ってしまった。ぐい、と強く引き寄せられて、僕は殆ど海馬くんの身体に体当たりしてしまう。

「いたっ!」

 衝突した僕が声をあげるほど痛いんだから、それと同じ衝撃を受けているはずの海馬くんが痛くない筈はないんだけど、彼は無言のまま僕の腕をぎゅっと握る。何?と驚く前に、それよりももっと驚くような声が、僕の鼓膜を振るわせた。

「何もかもを勝手に決め付けるな。貴様は最低だ」
「えっ」
「貴様は何も分かってない。オレが、他の誰かを見ているだと?大方何処ぞに消えてしまった古代の馬鹿王の話をしているんだろうが、オレが貴様を見ていたのはヤツが貴様に乗り移るずっと前からだ!」
「……嘘」
「こんな事に嘘を言ってどうする!」
「だ、だって。海馬くんは、海馬くんは……もう一人の僕を……」
「ヤツは生涯無二の宿敵だ。それ以上でも以下でもない。それ以外の言葉でヤツを称した事があったか?」
「…………!!」
「貴様は今悲しくて切ないと言ったな。その感情が、貴様だけのものだと思うなよ。オレがどんなに真剣に貴様を見ても、貴様は視線を反らす事しかしなかっただろうが。それに、オレがどれだけ……!」
「か、海馬くん、ごめん。僕、てっきり……!」
「欲しいのなら手を伸ばせ」
「……え?」
「自分の手で掴み取らなければ、何も手になど入らない。どんな手段を使っても、何を犠牲にしてもそれが本当に欲しい物なら出来るはずだ。最初から諦めるな」
「……僕の欲しいものを、君は知っているの?」
「貴様の欲しいものはしらん。だが、オレにはそうまでしても欲しいものがある」
「それはきっと……僕と同じものだよ」
「ふん。貴様の憶測など大抵外れるからな。違っていたらどうするのだ」
「その時は、その時だよ」
「では、貴様が先に手を伸ばしてみるか?」
「……うん」

 なんて馬鹿なんだろう。彼の言葉を聞きながら、僕は自分で自分を思いっきり罵った。海馬くんの真っ直ぐなあの眼差しは、ちゃんと僕に向いていたんだ。『彼』と共になる前から、ずっと……密かに見ていてくれたんだ。だから、今も昔も変わらない強さで、純粋さで、君の目は僕の姿を映し続けていてくれたんだね。

 ごめん。

 そんな事、ちょっと考えれば分かる事なのに、勝手に君の気持ちを決め付けて、僕は逃げてばかりいたんだ。ごめんなさい。
 

『オレを見ろ、遊戯』
『人と話をする時は、真っ直ぐに目を見て話せ』
 

 君はこんなにも、分かりやすく僕に告げていてくれたのに。
 

 今、この瞬間も、僅かにもそらされる事の無い青い瞳。

 その中に映る僕は、やっぱり余りカッコよくはなかったけれど、ちょっとだけ凛々しく見えた。

 少し高い位置にあるその青に、白い頬に、僕はゆっくりと手を伸ばす。掴み取れといった癖に、僕の欲しいものは親切にも自分から差し出すようにふわりと僕の手の平に落ちてくれた。やっぱり君が欲しいといったものも、同じだったんだね。

 柔らかく壊れ物に触れるように、両手でその頬を包み込む。長い間焦がれてやまなかった、その唇に触れる瞬間、僕は小さく一番言いたかった言葉を呟いた。
 

「君が、好きだよ」