Act4 冷たいミルク

 周囲の喧騒に混じって、ふと微かな声が聞こえた。余りにもか細くて、悲痛な声。ああ、可哀想だ。そう思った途端に身体が動いてしまう。

 自分がその声の正体を目にし、手を伸ばそうとすれば一緒に居る恋人が凄く不機嫌になると分かってはいたけれど、遊戯はどうしてもその場所に行かずにはいられなかった。

「遊戯、何処へ行く」

 繋いでいた手をするりと離し、そんな事をしても無駄とは思っていても、ついつい抜き足差し足になりつつ共に居た海馬の傍を離れた遊戯に向かって飛んできたのは多少の鋭さを含んだ不機嫌な声だった。それにビクリと全身を跳ね上げ、思わずその場に直立不動になってしまった遊戯は既に背中に痛いほど感じる視線にぎこちなく振り向く。そして少しだけ引き攣った顔で口を開いた。

「えっと……そこのベンチ」
「この雪の中、そんなものに座りたいのか?物好きな奴だな」
「ううん、そうじゃないんだけど……あ、海馬くん寒くない?暖かい飲み物買って来ようか?ここは屋根がないから、あっちで待ってて。ほら、小さな休憩所があるし」
「そちらには自動販売機はないぞ」
「そ、そうだっけ?」
「貴様、何を隠している」
「別に隠してなんてないよ」
「なら何故そう後ろめたい顔をしてオレから遠ざかろうとする」
「だって、海馬くん怒るもん」
「オレが怒るような事をしたいのか?」
「……うー」
「正直に言ってみろ」

 さくさくと積もりたての新雪を踏みしめて、腕を組んですっかり説教モードに入った海馬が遊戯の元へとやって来る。身長差の所為で元々威圧的に見える姿がその表情と態度の所為でますます大きく見えてしまう。

 こ、怖いよ海馬くん。先生より怖い。内心そんな事を思いながら、それでも彼が本気で機嫌を損ねている訳じゃないと知っている遊戯は、素直に「降参」と口にして今度は海馬の手を取ると、共に件のベンチの方へと歩いていった。

 そして丁度椅子の形のまま綺麗に雪を被っているそこにたどり着くと、再び手を離して一人その陰へと身を屈める。そして「あっ、やっぱり」と小さく悲鳴のような声を上げた。

「何がやっぱりなのだ?そこに何かあるのか」
「うん。さっきから声が聞こえてたからもしかしたら、と思ったんだ。ほら見て、海馬くん」

 そう言うと遊戯は少し離れた場所にいた海馬を手招きし、自分が今覗き込んだ場所を指し示した。それに素直に誘われて遊戯の背後へと歩み寄った海馬は手袋もしないで少し赤くなっている指先が示す方向に目を向ける。そして、大きく舌打ちした。

 それを背後に感じながら遊戯はやっぱり、と小さく溜息を吐く。海馬は自分と過ごす時間を他のものに邪魔をされるのを酷く嫌がるのを知っていたから。それがやっかいなモノであればあるほどその不機嫌メーターの上がり具合は尋常じゃない。だから、余り知られたくなかったのだ。

 ……どちらにしても、『これ』に気付いてしまった以上、見て見ぬフリなんか出来ないけれど。

 二人の目線の先には、底に毛布が敷き詰められた比較的丈夫なダンボール箱の中央に身を丸めて縮こまっている小さな子猫の姿があった。その傍らには捨てた人間が書いたらしい丁寧な文字で書かれた無責任な言葉。綺麗な丸文字は女のもので、そこには自分が残酷な事をしているという意識はまるで無いようだった。

「……捨て猫か。元は5匹だったようだな」
「うん。生まれたばかりみたいだね。凄く小さい。……こんなに雪が降っている外に捨てるなんて酷いよね」
「最悪だな。この女を探し出して殴りつけてやりたい」
「ぶ、物騒な事言わないでよ海馬くん。女の子に乱暴しちゃ駄目だよ」
「フン。自分で勝手に増やしておいて面倒見切れずに外に捨てるような人間など女ではないわ」
「そうだけどね……あ、見て、この子尻尾が殆どないよ。だからこの子だけ誰も拾ってくれなかったんだね」
「………………」
「どうしよう、こんな所に置いておけないよ。とりあえず、保護しないと」

 こうしている間も小さな子猫は鳴き続け、心なしかその声は段々と小さくなっている気がする。このままでは死んでしまう。咄嗟にそう思った遊戯はとにかくこの場から救い出そうと箱に手を伸ばそうとした、その時だった。

「待て遊戯。その猫をどうするつもりだ」
「どうするって?」
「貴様、飼えるのか?」
「う……えっと、母さんに聞いてみないとわかんないけど……」
「ならば無責任に手を伸ばすな。残酷だとは思わないのか」
「え?」
「どうにもならなかった場合、貴様もこの馬鹿女と同じ様にその猫を捨てる事になるのかも知れないんだぞ。中途半端な優しさを見せる位ならこのままの方がまだましだ」
「!……海馬くん?何、言ってるの?」
「貴様と違い、確実に面倒を見られる人間に拾って貰った方がいい」
「そんな……だってこのままじゃ、死んじゃうかもしれないんだよ?!」
「それも運命だろう。仕方が無い事だ」
「ひど……っ。そんなの酷すぎる!僕、海馬くんがそんなに酷い人だとは思わなかった!」
「………………」
「どうして、平気でそんな事が言えるのさ!最低だよ!海馬くんにこの子猫を捨てた女の人の悪口を言う資格なんかない!!」
「遊戯」
「もういい!海馬くんがなんて言おうと、僕はこの子を連れて帰るよ。僕の家が駄目だったら、友達の家をあたるからいいもん!」

 その指先が子猫に触れる瞬間頭上から降り落ちてくる雪よりもまだ冷たい言葉に、遊戯は一瞬唖然とした表情を見せた後、湧き上がる怒りのまま立ち上がって海馬を詰った。

 自分で飼えないのなら見捨るしかない?この今にも死にそうな声で鳴く、痩せて小さいか弱い子猫を?信じられない。元々冷血人間だと思っていたけど、今度という今度は呆れ果てる。恋心すら揺らぐ程に心の奥底から怒りを感じる。余りにも酷い言い草に、遊戯は海馬の首から下がるマフラーを掴んで白いその頬を思い切り殴りつけてやりたくなった。その時だった。

 相変わらず冷たい表情で遊戯を眺めていた海馬が、ぽつりとこんな事を口にした。

「自分の家も駄目、あの家も要らない、とたらい回しにされる身にもなってみろ。顔を見た途端まるでゴミを押し付けられるような顔をして素っ気無く首を振られたり、一晩くらいならと気紛れにミルクを与えて、やっぱり駄目だと放ったりされるのだぞ。それが本当にその猫にとって幸せな事か?」
「……え」
「動物は敏感だ。分からないと思っていても、確実に伝わってしまう。それが哀れだと言ってるんだ」

 何も見殺しにしようなどとは言っていない。

 眼下の遊戯とその背後で鳴く猫を、何故か遠い眼差しで見つめながらそう言った海馬は深く大きな溜息を吐いた。息が白くくゆり、雪で少しだけ濡れた髪が揺れる。その顔を見た瞬間、遊戯はそう遠くない過去に聞いた海馬に纏わる様々な事柄を思い出し、はっと息を飲んだ。幼い頃の彼の話、両親を亡くしその家すらも追い出され、血縁関係をたらい回しにされた挙句、施設へと押し付けられたその話を。

 君は、その猫と自分の姿を重ねてるの……?

 そう聞かなくてもその目を見ていれば分かる。ああ、僕は何て残酷な事を言ってしまったんだろう。そんな後悔をしても、もう遅い。

 謝らなくちゃ。瞬時にそれを悟った遊戯は、思わず掴みかかりそうになっていた両手を改め、降ろされたままだった海馬の手に触れようと恐る恐る手を伸ばそうとした。が、それよりも早く海馬の腕が立ち尽くす遊戯を軽く押しのける。

「……ご、ごめんね海馬くん。僕……」
「そこをどけ、遊戯。貴様が邪魔だ」
「え?ちょ、ちょっと海馬くん、何やってるの?!」
「何とは?こいつを連れて帰る」
「えぇ?!だって海馬くん、たった今責任が持てないのなら触るなって!」
「オレは責任を持てるからな。だからその資格がある」

 そういうと、彼はひょいと子猫を手で包み込み、直ぐにマフラーを取ってその身体を包み込む。そして直ぐにコートのポケットから携帯を取り出して、何処かへ電話をかけ始めた。数秒後、電話に出たらしい相手に向かって幾分柔らかな声で話しかける。

「モクバか、今から帰る。遊戯も一緒だ、磯野にそう伝えておけ。後、もう一匹連れて帰るからな、そいつの分の食事も用意しておいてくれ。何?凡骨?違う、あんな犬以下の生き物ではない。もっと可愛らしい……お前が好きなものだ。……ああ、冷たいミルクでいい。ではな」

 夕闇に紛れてパチンと響いたブルーの携帯が閉ざされる音を遊戯は大きな感動を持って眺めていた。ともすれば泣いてしまいそうなほど嬉しくて。

「……ありがとう、海馬くん」
「貴様に礼を言われる筋合いはない。これはオレが拾ったんだ」
「うん、そうだね」
「帰るぞ遊戯。直ぐに迎えが来る。いい加減、寒い」
「今日の晩御飯は何かなぁ」
「さぁな。貴様がいるからカレーかシチューだろう」
「どっちでも凄く嬉しいよ」
「安い奴め」

 海馬の両手の中でにゃあ、と小さく鳴く声がする。その存在の所為で、家に帰るまでは手を繋ぐことが出来ないけれど、そんなのいつでも出来ることだから、今は笑顔で我慢できる。自分は凄く幸せだ。そして、彼の手の中にいるこの子も、きっと幸せになるのだろう。そう思い、遊戯は笑った。弧を描く唇に雪が触れる。けれど少しも冷たくは無かった。
 

 例え冷たいミルクでも、この子猫には……最高のご馳走になるだろう。