Act2 ぐあいがわるいことをけんめいにかくします

「海馬くん、助けて!今日英語の小テストだったの忘れてたっ!教えて!」
「知らん。今やればいいだろう」
「10分じゃ終わんないよ!お願いっ!」
「英語は五時限だろうが。昼休みを使え。昼休みを」
「え、やだ。だって昼休みはご飯食べる時間だもの。お弁当一緒に食べるでしょ?!」
「知った事か。オレは忙しいから話しかけるな。近寄るな!」
「ちょ……酷い!ちょっと位いいじゃん!」
「その辺にいるお友達に教えて貰え!」

 その声と共に辞書並みに分厚い本がドンッ!と大きな音を立てて窓際の席に近寄ろうとした遊戯の視界を遮った。次いで無造作に開かれる銀色のノートパソコン。比較的ディスプレイの大きなそれは、彼曰く教室用だ(他にも屋上で使用する携帯モバイル等がある)。余りの勢いに一瞬怯んだ遊戯を尻目に、それ以降こちらを全く見もしない海馬はいつの間にか取り出した眼鏡をかけて、黙々と仕事を開始した。その全身には見えない『近寄るなオーラ』が充填している。

「……うぅ」

 この状態の彼に何を言っても無視されるか、跳ねのけられるのは目に見えているので、遊戯はすごすごと胸に抱えた英語の教材一式と共に自席に帰って来た。そして大きく溜息を吐く。

「どしたー?遊戯」

 遊戯が席に着いて直ぐ、近くで机の上に腰かけて他愛もない話をしていた本田と城之内が余りにも大きく響いた溜息を聞き咎めたのか、会話を止めて振り向いて歩んで来た。それに眉尻を少し下げた顔を持ち上げた遊戯は、もう一度溜息を吐きながら背後を見る。

 それにつられる形で揃って視線をそこに送った二人は、片方は「あぁ」と呟き、もう片方は「あれ、海馬居たのか」とやや驚いて口にした。常ならばあらゆる意味で人の意識を引き寄せる男が、まるで空気の様に教室の片隅に存在していた事に少々違和感を感じたらしい。

「なんか海馬くん、ご機嫌斜めみたい……」
「あいつ今日来てたのか。あんまり静かだったから気付かなかったぜ。何時からいた?」
「ついさっきだよ。二時限目の途中から」
「って事はもう二時間も居たのか。それにしてはお前等大人しかったよな?」
「オレさっきちょっかいかけようとしたんだけどよ、なんか反応あんまねーからやめた。カリカリしてねーと面白くねーもん」
「お前なぁ、海馬で遊ぶのやめろよ」
「僕は……見ての通り追い返されちゃった。今日はなにもしてないんだけどな。最近は喧嘩もしてないし。っていうか会うのが久しぶりだし」
「ふーん。珍しい事もあるもんだな」

 彼等がそんな会話を交わす間も、噂の主である海馬は黙々と仕事をこなしている。束になった書類を捲り、乱れの無いタイピング音を響かせているその様は、まさに一心不乱だ。ここが学校という事さえ忘れているのだろう。
 

(仕事、そんなに忙しいのかな。だったら学校にこなければいいのに。あ、でもこの間たまには学校に来てよって言ったのも僕だっけ。……うーん、でも学校に来て貰っても一緒に居られないんじゃ意味ないし……)
 

 構って貰えない事に多少の不満を滲ませつつじっと見つめていた遊戯だったが、不意に僅かな違和感を感じた。

 目の前にあるのは余りにも見慣れた光景である筈なのに、どこかおかしいのだ。どこだろう?と首を傾げていると、同じ疑問を胸に抱いたらしい本田が、目を細めて首を傾げながらぽつりとこんな事を呟いた。

「つーかアイツ今日なんか姿勢悪くねぇか?眼鏡なんかかけちゃって、変だぜあれ」
「海馬くんはたまに眼鏡かけるよ。パソコンする時はいるんだって」
「でも学校でかけてんの見た事無いぜ」
「そう言われればそうだね」
「優等生のフリしてんじゃねぇの〜?今更遅いけどよ。デュエルで本性丸出しってね!」
「城之内くんっ」
「そういやさーさっきオレがあいつにちょっかいかけた時、なんかちょっと反応鈍かったぜ。ぼーっとしてるっていうか」
「え?」
「つか、根本的な事言っていいか?今日って寒いか?なんであいつ、学ランきっちり着てるんだ?オレなんか汗かいて……ゲッ、室温28度だぜ?道理で暑いと思った」
「マジかー?!まだ5月だぜ?!」

 温度聞いたら急に暑くなって来たー!

 そう言って徐にカッターシャツの前をバタバタと仰ぎ出す城之内を視界の端に捕らえながら、遊戯はふとある事を思いついた。もしかして、海馬くん……そう思うが早いが勢い良く席を立った彼は、立っていた城之内達を押しのけて、足音も荒く海馬の元へと歩み寄る。

 そんな遊戯の様子を知る事もなく、やはり一心不乱にキーボードを叩き続ける海馬に、遊戯は先程頭に過った「もしかして」を確信に変えて、いきなり彼の視界に顔を割り込ませた。それに海馬が思いっきり後ずさる。

「!な、なんだ貴様、急に!」
「海馬くん」

 少しだけ慌てたような声にも全く動じず、遊戯は直ぐ様彼を捕らえようと手を伸ばして身体の何処かを捕まえようとする。普段なら、そんな事をされても文句を言うだけで特に過剰な反応をしたりはしないのに、今日に限って彼は思い切りその手から逃げようとする。

 しかし、彼等が居る場所が教室隅の窓際だった事や二人の初期位置が余りにも近かった所為で上手くいかず、さっさと腕を捕らえられてしまう。しまった、と海馬が表情に現すより早く、遊戯は何処となく迫力のある笑顔を見せてこう言った。

「どうして黙ってるの?言えばいいじゃない」
「……な、何をだ」
「何をって、海馬くんが一番良く分かってるでしょ。震えちゃって。寒いんだ?」
「そんな事は無い」
「でも暑くはないんでしょ?今室温28度だって。皆上着脱いでるよ?幾ら君だって、これで暑くない訳ないよね?暑いの嫌いでしょ、海馬くんは」
「………………」

 いつの間にか机と海馬の間に身を割り込ませて、わざと追い詰める様に身を乗り出してそう口にする遊戯に、海馬はそれでも必死に抗おうと身を伸ばしてみたものの、既に腕を掴まれている状況ではどうしようもなかった。小刻みに震える様はもうとっくに知られている。

「いつから?」
「……知らん」
「朝からだったの?それとも、昨日の夜?」
「質問の意味が分からない」
「あ、まだそういう事言うんだ?分からない事いうと、ここでキスしちゃうよ?」
「っ何?!貴様正気か!」
「今更でしょー。大丈夫、誰も観てないよ」

 いや、見てますよ、遊戯さん。と周囲の声が聞こえるが、ここは敢えて黙殺する。

 小さな体がゆっくりと海馬の座る椅子に傾き、座する両足の間にあった僅かな空間に片膝が乗り上がる。年齢にそぐわない可愛らしい顔が「ニヤリ」と似合わない擬音を伴って近づいて来る。余りの展開に海馬が一瞬怯んだのが悪かった。伸びて来る遊戯の腕を払いのけるより早く、存外健康的な色をした指が海馬の頬を捕らえた。そして。

 唇ではなく、額にこつんと相手のそれが押し付けられる。

「あー!やっぱり!すっごく熱いよ海馬くんっ!」
「う、煩い!離れろ!!」
「もうっ!眼鏡とかで誤魔化したってちゃーんと分かるんだからね!何このほっぺたの色!白いを通り越して青いじゃん!」
「煩いと言っている!」
「保健室にいこ!早く!」
「耳元でがなるなっ!頭に響く!」

 そう言うが早いがあたふたと椅子を離れ、掴んだ腕をぐいぐいと引く遊戯に、海馬は成す術もなく、辛うじてパソコンを閉ざすだけはさせて貰うと、そのまま教室を強制退場させられてしまう。

 後に残ったのはもので溢れている机と乱雑に引かれたままの椅子。そしてその上に置き去りにされた伊達眼鏡だ。それに間違って座ってしまうと悪いからという理由で、親切にも拾い上げて机上に乗せ上げてやった本田は呆れ返った声で呟いた。

「……なんつーか……言葉がねぇな」
「海馬は元より、親友ながら遊戯に一瞬『消えてくんねぇかな』と思っちまったぜ」
 

 ── はぁ。
 

 教室中にそんな重苦しい溜息を満たした張本人達は、その後保健室で何やら充実した時間を過ごした揚句、揃ってさっさと帰宅の途についてしまった。
 

 教室は、未だに酷く蒸し暑い。

 その日の最高気温は5月下旬にも関わらず30度越えを記録したと言う。