Act5 さみしがりや、おくびょうです

 直ぐ傍で、酷く安らかな寝息が聞こえる。それに合わせて温かな毛布の下で微かに上下するその肩を優しく抱きしめて遊戯は月明かりの眩しい窓の外を見遣った。

 時刻は午前12時。彼にとってはまだ眠るには少し早い時間だ。それでなくても春休み中のこの期間は昼夜が逆転してしまうので、今の遊戯にとってはこんな時刻でも感覚的には宵の口と同等だった。

 常ならば大量に出された宿題もそこそこに部屋の電気を消して休み前に買い込んだ大量のゲームを一晩中やり続けるのだが、残念ながら今夜はそれが出来そうにない。何故なら彼は今自身のベッドの上に拘束されている状態だからだ。

 つい先程突然家にやって来た、海馬の手によって。

 ちなみに、当の海馬は遊戯を抱き枕にして完全熟睡状態だった。狭いベッドの中で厚みは無いが大柄なその身体を窮屈そうに丸めて、それでも至極満足そうに目を閉じて寝息を立てている。直ぐ上に本当の枕があると言うのにその人よりも幾分小さな頭は遊戯の胸の上に乗っていた。「苦しい」と訴えた所で聞く筈もないので、最近では好きにさせている。

 彼が纏うオードトワレの甘い香りとしっかりと伝わってくる温かな体温に、リラックスするどころか妙な緊張や高揚感が生まれてしまうのだが、熟睡している人間を起こしてしまう真似など出来る筈もなく、遊戯は心底切ないと思いつつ大きな溜息を一つ吐いた。

 カチカチと響く時計の音だけがやけに耳について離れない。
 

『……貴様、今何をしている?』
『何って。家でのんびりしてるよ。お風呂も入って、宿題もちょっとして、これからゲームしようかなぁって思ってた所。海馬くんは?今何をしてるの?』
『……会談が終わって帰る所だ。ホテルの目の前で事故があって渋滞していてな。歩いている』
『えっ。一人で?』
『一人でだ』
『ちょ……危ないよ!今日金曜日でしょ?人が一杯いるじゃない!』
『ああ、通りには居たな。だが、ここにはいない』
『いないって、余計に危ないんだけど!』
『ふん、何を心配しているのかは知らんが、余計な世話だ』
『そんな事言って。この前モクバくんを心配させたじゃないか。夜はあちこちフラフラしちゃ駄目だって言われたでしょ!』
『人を徘徊者の様に言うな。失礼な』
『だってさぁ!』
『そんな事より、いつの間にか桜が咲いていたのだな』
『そんな事じゃないでしょ……って、え?桜?』
『ああ。まだ満開とは行かない様だが』
『そうなんだ。全然知らなかった』
『貴様は休みとなると一日中部屋でゴロゴロと過ごすからだろう。全くだらしがない』
『……ママみたいな事言わないでよ。そりゃ、君に比べたらのんびりしてるけど、ちゃんと外にだって出てるよ』
『コンビニか』
『もー』
『………………』
『?……海馬くん?まさかその辺で寝ちゃってないよね?酔っぱらってないよね?』
『誰が酔っぱらいだ』
『だって急に黙るから』
『……今から』
『え?』
『今から、行ってもいいか?無理ならば貴様が来い』
『海馬くん?』
『どちらでもいい。早く選べ』

 

 切っかけは今から約1時間前に遊戯の元に掛って来た海馬からの電話だった。

 普段は滅多に自分から連絡を寄越さない彼が突然携帯を鳴らした事に驚いた遊戯だったが、その会話の中で出て来た言葉には更に驚いてしまった。こんな真夜中に自分に会いたいと彼が言い出す等本当に稀な事だったからだ。

 一瞬何かあったんだろうかと身構えた遊戯だったが、その後ぽつぽつと会話を続けて行くうちにどうやらそうでもない事が判明し、ほっと胸を撫で下ろした。

 そして安堵の気持ちそのままに口元に笑みを浮かべた遊戯は直ぐ様風呂上がりで着替えていたパジャマ代わりのジャージの上に少し厚いコートを引っかけて、踵を潰したスニーカーを履くと既に大分近くまで来ていた海馬を迎えに行ったのだ。そして直ぐに自分の部屋へと招き入れた。

 遊戯の部屋に来て早々至極疲れた顔を見せた海馬は、何か温かい飲み物でも持って来ようか、との言葉にゆるゆると首を振ると、「疲れたから寝る」と半ば夢見心地な顔で呟いて、遊戯もろともベッドに倒れ込んで眠ってしまった。

 遊戯が簡単に抜け出せない様にベッドが密接している窓際へ押しやって、抱きつく様にその身体を抱えて、仕上げに胸に頭まで乗せて、あっさりと脱力する。ただし、遊戯の服を握り締める指先の力だけは何故かしっかりと入っていた。

 そのどこかあどけない仕草に遊戯は「君は時々子供みたいな事をするよね」と呟いて苦笑した。
 

 そして、今に至る。
 

 相変わらず感じる温かな体温。緩やかな寝息。その穏やかさとは裏腹にどこか必死に自分の服を握りしめる指先。そんなにきつく掴まなくても、僕は何処にも行かないよ。そう耳元に囁いても眠る彼には届かない。

 変わりに優しく頭を撫でてやろうとして、ふとその髪に薄紅色の花弁が付いているのに気付いた。きっと、先程彼が見たと言う桜の花びらなのだろう。指で摘まむと月光に照らされて白く光って見える。
 

(……ああ、そうか。この時期だもんね)
 

 海馬が必死に追い求めた自分の中に存在していた『彼』がこの世を去ったのも。その昔、彼の本当の両親が亡くなったのも、全てこの桜の季節だった。「桜を見ると何故か物悲しい気分になる」。去年の始業式の帰り、そう言って少し寂しそうな表情をした横顔は、今でも鮮明に覚えている。

 出会いと別れの象徴。華やかでありながら切なさをも連れて来る、海馬にとっては悲しみや引き裂かれる恐怖さえも運んで来る花。


 だから、彼は。


「……見かけの割に、寂しがり屋なんだね。海馬くん?」

 完全に意識が無くなった後でも自分を決して離そうとしない力強い指先、背を丸めて眠る端正なのにどこか幼い感じのするその横顔に、遊戯は少しだけ胸が締め付けられる気がした。そして同時に、この自身よりも遥かに大きい恋人を魂ごと抱き締めてやりたい気持ちになった。

 そして、そんな不安など決して感じさせない様にしたいと、してやりたいと、そう思った。

 緩やかに時間は過ぎて行く。
 遊戯は少しだけ腕の彼を抱く腕の力を強めると、自らも緩やかに目を閉じた。  
 

 明日は明るい日差しの下で楽しい花見をしようと、そう……思いながら。