約束から始まる未来 Act4

 カツン、と小さな音を立ててコンクリートの道路の上に降り立つと、瀬人は頬を刺す様な冷たい冷気に身を震わせた。

 季節はもう初冬とも晩秋とも言える秋冬の境目、その夕暮れ時だ。そろそろ手袋やマフラーなどの防寒具が活躍する頃だろう。尤も過剰なほど過保護な弟の手によっていつの間にか用意されていたそれらは既に瀬人の手の中にあったのだが。

 随分と長い間機内や車内で一定の姿勢を保ち続けて凝り固まった身体を軽くほぐす。殆ど同時に反対側のドアから飛び降りる様に降り立ったモクバは、何処か落ち着きのない様子で瀬人の前を横切ると「オレ、先に行って顔を出してくるね。兄サマ、照れ臭いでしょ」等と言いながら、足早に月日の経った今でも少しも変わらない眼前の小さな店へと歩いて行った。

 相変わらず大きな文字で描かれたGAMEの文字。常に店番をしている彼の祖父はまだ存命しているのだろうか。そんな多少不謹慎とも思える事を考えつつも、瀬人はなかなかその場から動く事が出来なかった。それはモクバが口にした通り照れ臭い思いもあったが、それ以上に先程感じた不安が少し胸を締めつけたからだ。

 変わってしまった街並みに反して何も変わらない風景。ここに暮しているのかすら定かではないあの男は、果たして変化を遂げてしまったのか、否か。以前はそんなセンチメンタルな想いに浸る事すら馬鹿馬鹿しいと思っていた。だが、今は。
 

 ……オレも年を取ったのだ。そう思い、何故か急におかしくなった。
 

「兄サマ!そんな所に立ってないで早く来なよ。遊戯のじいちゃんが呼んでるぜ!」
 

 どれ位の間そうしていたのか。不意に少し離れた場所から聞こえた声に、瀬人は漸く意識をそちらに向けて、顔を上げた。見れば一足先になんの躊躇もなく店に入り込んで行ったらしいモクバが中途半端に開いた入口の扉を影から顔を出し、勢い良く手招きをしている。こうなってしまうと、瀬人はもうその場に立ち尽くしては居られなかった。微動だにせずにいた所で、誘いに戻り強引に手を引くだろうモクバの力には勝てないからだ。

 「わかった」と小さく答え、車から店まで大分ある距離を通常よりも大分ゆったりとした足取りで歩いて行く。全体的に少し古びた感のある家々を繋ぐ道路はいつの間にか綺麗に舗装されていた。その事が少しの違和感となって瀬人を捉えた。尤も、近代化の一途を辿っているらしいこの童実野町に在って、ここだけはその程度の変化で済んでいるのが珍しい位なのだが。

 いつの間にか閉ざされたいた扉に手をかける。少し力を込めて取っ手を握ると、キィ、と軋んだ音がして、次いで安っぽいベルの音が鳴り響いた。

 何も変わらない。どう見ても自分で色を塗ったと見える少し塗料の禿げた扉の木枠も、瀬人が背を伸ばして入るにはギリギリの入り口の高さも。そして、足を踏み入れて直ぐに目が行く大きなカウンターの前に座す、かつては手酷い真似をした事もある、遊戯の祖父の姿も。
 

 ── 何も、変わってはいなかった。
 

 
 

「おお、海馬くんか。久しぶりじゃのー。元気にしておったか?」

 既にモクバと談笑に興じていたのか笑みを浮かべて肩を揺らしていた双六は、海馬の姿を見るや否や、そう言って柔らかく手招きをした。

 この老人も遊戯同様馬鹿がつく程のお人好しなのか、過去にあった確執などまるでなかった様に遊戯の他の友人達と海馬を分け隔てする事無く接して来た。それは遊戯と海馬が普通では無い関係になった後も変わる事無く、むしろ好意的に受け止めてくれたのだ。
 

『遊戯がそれでいいと言うのならワシは全く構わんよ。幸せの形は人それぞれじゃからのぅ』
 

 遊戯にほぼ強引に連れられて瀬人が何度目かの武藤家訪問を果たした際、今と同じ様に穏やかな様相でカウンターにいた双六に遊戯が突然二人の仲をカミングアウトした時も、彼は至極愉快そうにそう言って豪快に笑い飛ばしたのだ。

 そして遊戯の言動もそれに対する双六の反応も何もかもが予想外で絶句してその場に立ち竦んでしまった瀬人に、追い打ちをかける様に「宜しく頼むぞぃ」と肩を叩いて来た。

 そんな事がつい昨日の様に思い出される。

「……まぁ、それなりに。久しぶりだな。まだくたばってはいなかったようで何よりだ」
「ホッホ、その憎まれ口、懐かしいのう。少しは大人になって帰って来るかと思っておったが、その見かけと一緒で中身も殆ど変わらんようじゃな」
「フン、余計な世話だ」
「それはそうと、お前さんの活躍はテレビや新聞でしっかりと伝わっておるぞぃ。我が家では毎日お祭り騒ぎじゃ。遊戯などは自分の事の様に自慢にしおって。全く微笑ましい限りじゃな」

 すっかり家族みたいじゃのぅ。そう言って再び肩を揺らす双六に、昔の様に少々面食らっていると瀬人に場所を譲った為に少しだけ横にずれていたモクバが、どこか意味あり気な笑顔を浮かべて少しだけ身を割り込ませてきた。

「兄サマ。遊戯、まだこの家でじいちゃん達と一緒に住んでるんだって」
「……そうなのか?」
「そうじゃよ。うちは何も変わっとらん。他の面子もそうバラバラにはなっておらんわい。時たま集まっては騒いでおるようだしな」
「そうか」
「それよりも、遊戯なんじゃが……今丁度母親と買い物に出ていて留守なのじゃ。お前さんが来る少し前に出て行っての。帰宅までそう時間はかからんと思うが、待つのなら奥に入って構わんぞぃ。茶は自分で入れて貰う事になるがの」
「だって、兄サマ。どうする?オレは絶対待っていた方がいいと思うけど。っていうか、兄サマをここに置いて行くつもり満々だけど」
「…………は?」
「じゃ、そういう訳で。オレ、帰るから。じいちゃんまたな!今度またゆっくり遊びに来るぜぃ!」
「おお、待っとるぞぃ」
「おい、モク……!」
「明日は休みだからどうぞごゆっくり〜。帰る時だけ連絡ちょうだい。ま、ないと思うけど」

 そう言うが早いが殆ど意図的な素早さで外に出て行ったモクバを追う暇も無く、高らかなエンジン音を響かせて車が遠ざかっていく気配がする。やられた、と思った時にはもう遅い。モクバが飛び出して行った名残である小さなベルの音が響く店内で、瀬人は途方に暮れてその場に立ち尽くした。

 それを面白そうに見ていた双六が堪え切れないように小さく吹きだしてしまう。
 妙な空気が場に流れた。

「上手く丸め込まれたようじゃの。モクバくんもなかなかやりおるわぃ」
「…………ちっ」
「さて、どうする?上がって待っとるか?」

 カウンター上に手を組んで顎を乗せまるでからかう様にそんな言葉を口にする双六を思わず眉を寄せて睨みつけ、瀬人はふんと小さく鼻を鳴らすと踵を返し、くるりと彼に背を向けた。そしてまるで忌々しいと言う様に低く言葉を紡ぐ。

「家で待つなど真っ平御免だ。また後で来る」
「この寒空の中何処に行くんじゃ」
「何もない訳じゃないだろう。構うな」
「そうじゃな。少し行った所にコンビニもあるし、そこから先にある出来たばかりの新築マンションの一階には本屋と喫茶店もある。まぁ、その辺をうろつけば寒さは凌げるじゃろ」
「………………」
「遊戯にはお前さんが帰って来た事を伝えてやろう。それとも、自分で連絡するかの?」
「余計な気は回さんでいいと言っている!」
「ホッホッホ。そう照れるでない。相変わらず初心じゃのう」

 何が初心だこの耄碌爺が!そう内心叫びながらもそれを口にする事は無く、瀬人は己の感情を体現すべく肩を怒らせたまま少々乱雑な仕草で店の扉を開け放った。途端に吹き付けてくる冷たい夜風に身が竦むが、構わず足を踏み出して外へ出た。

「遊戯は最近車に凝っておっての。少々珍しい型の車を見かけたらそれがあやつのじゃ」
「どうでもいいわそんな事。大体、車だと?奴の足がアクセルに届いたのか?」
「それは見てのお楽しみという奴じゃ」

 扉を閉める直前そんな言葉を投げて寄こした双六を一瞬だけ振り返り、いつまでも戻る事のない笑顔にいい加減嫌気が差した瀬人は、それきり何も言わずに力まかせに扉を閉めた。そして、ポケットに両手を突っ込み、足早に歩き出す。

 ふと、右手の指先にこつんと当たるものがあり、特に考えもせずに握り締める。それは日本に来てからまだ一度も開いていなかった、私用の携帯。ここ数年はモクバ相手にしか活躍していなかったそれは大分前の機種だと言うのにまだ新しく、表面に傷一つ付いてはいなかった。

「………………」

 双六の言葉を思い出し、なんとは無しに気になって右手ごと外気の元に引きずり出す。カチリとフリップを開けると辺りがぼんやりと明るくなる。いつの間にか辺りはもう暗闇に沈んでいた。履歴を探ろうとして指先を止め、アドレス帳を開く。数件しか入っていないリストの中から『遊戯』の名を選ぼうとして、留まった。

 どうせ直ぐに顔を見せる事になるのだから、何もわざわざこちらから連絡をしてやる必要はない。会いに来る時は電話を寄こせなどとは言われてはいなかったし、自分はそんな柄でもなかった。けれど、己より先に他人の口からこの事を伝えられてしまうのも癪に障る。

 どちらを取るべきか。

 開いた携帯を握り締めながら、瀬人が思わず足を止めた、その時だった。
 

「海馬くんっ!!」
 

 閑静な住宅街の静寂を乱す爆音にも等しいエンジン音。それにかき消される事がなく響いた耳を劈く様な大きな呼び声。誰が、などと思う間もなく振り向いた。その声は、素直には認めがたいが、ずっと焦がれていたものだったからだ。

 こちらに向けられたヘッドライトの光がやけに眩しい。その光の中に立っていたのは酷く見知ったシルエット。

 ゆうぎ、と答える前に身体に強い衝撃があった。そのまま強く抱き締められて、海馬の手から持っていた携帯が落ちてしまう。
 

「……やっと、帰ってきてくれた。お帰りなさい……!」
 

 カシャンと小さく響いたその音は、背に回された腕がコートをきつく握り締める音にかき消された。