約束から始まる未来 Act5

 相手の余りの勢いに強く打ちつける事となった胸元と力任せに抱き寄せられて肩口に押しつけられた頬が痛い。ほんの僅かな距離を駆けた所為なのかそれとも違う感情の高ぶりか、聞こえる遊戯の心音は早鐘を打っていて、それがやけに大きく聞こえた。尤も、それを受け入れた自身の状態も似た様なものだったが。

 久しぶりに感じる体温、男の癖に仄かに香る甘い匂い。記憶とは少しだけ違う整髪料の香りを除けば、目の前で自分を擁く遊戯の姿に変化はない。それが酷く嬉しくもあり、懐かしくもあった。

 そして、密かに安堵もした。胸の奥底にほんの少しだけ燻っていた不安や恐怖が、跡形もなく取り払われる。

「……苦しいし、痛い」

 それから暫くの間無言で抱き合っていた二人だったが、体勢に無理を感じた瀬人が小さく抗議の声を上げた。それに漸くその格好が相手にとって少し辛いものであると悟った遊戯は、あ、そうか。といつもの調子で呟くと、ほんの僅かに身を離す。

 しかし、二人の間に少しでも距離があるのが嫌なのか両手は瀬人の身体に触れたままだ。少し照れ臭そうに今の抱擁で乱れた髪を直しゆっくりと顔をあげる遊戯に、瀬人は一瞬目を瞠った。

 何故なら昔はもっと遠くにあった印象的な紫の目が、酷く近くにあったからだ。

「ごめんね、痛かった?」
「……遊戯、貴様……」
「ん?」
「……やけに、成長していないか?」
「ああ、これ?ふふ、吃驚したでしょ。ちょっとだけ遅かったけど、僕にもちゃーんと成長期が来たんだよ。今は城之内くんと並んでもそう見劣りはしない筈だよ」
「………………」
「ちょっと、なんで凄いガッカリした顔してるのさ。僕は君の為に一生懸命背を伸ばしたのに」
「オレの為だと?」
「そう。だって海馬くん、僕とキスする時、すっごく辛そうだったじゃない。だから」
「……なっ!」
「だから、君が帰って来るまでに少しでも顔が近づく様にって頑張ったんだ。身長だけじゃなくって、色々と。後で見せてあげようか?」
「……べ、別にそんな事に興味はないっ」
「そう?残念だなぁ。絶対喜んでくれると思ったのに」
「誰が喜ぶかっ!」
「冗談だよ。すぐそうやって怒る所は変わらないね」
「煩い!」
「本当に……君は全然変わってない。良かった……」

 良かった、と自分に言い聞かせるように繰り返しながら、遊戯は手を伸ばし間近にある頬に触れる。夜風に吹かれて直ぐに冷えてしまう白いそれは、見た目に反して今は至極温かかった。ゆっくりと撫で摩り、もう一方の手も伸ばして柔らかく包み込む。その仕草を少し困惑気味に瞬きながら眺めている蒼い目を覗き込むように見つめながら少しだけ顔を近づけた。

 吐息が触れる。それを感じて瀬人の瞳が閉ざされる。小刻みに震える瞼がやけに愛しくて、遊戯は静かに唇をそこに押しあてた。次いで柔らかな頬に、そして薄い唇に。

 随分と久しぶりに与えられたその行為に、反射的に硬く結ばれてしまったそこを促す様に舌先でなぞると、驚いた様にあっさりと綻んで力が抜ける。僅かに出来たその隙間に遊戯は迷いなく舌を滑らせると、緊張に少し渇き気味の口内を潤す様により強く唇を押しつけた。

 ん、と小さな声が上がり、頬を包む掌に冷たい指が絡んでくる。その指先が少し苦しげに手指を掴んでも遊戯はキスをやめなかった。5年ぶりの感触だ。そう安々と手放せるものではない。

 もっと強く、もっと深く、これまでの長い空白を埋める為には、余りにも時間が足りな過ぎる。

「……ちょっ……ま、て…、ゆう、ぎっ!」

 苦しげな呼吸の合間に途切れ途切れにそう吐き出す瀬人の声に、漸く唇を少し離す。はぁ、と温かな吐息を鼻先に感じながら自分の濡れた唇を拭い、相手のも親指の腹で拭ってやった。その指先を口に含もうとして「やめろ」と不愉快な声に阻止される。けれど構わず実行し、少し誇らしげに満面の笑みを浮かべた。

 そんな遊戯の仕草に、白い頬がほんのりと淡く染まる。

「良く考えたらさ、ここ外だったね」
「………………!!」
「でも、誰もいないから大丈夫だよ」
「そういう問題か!」
「しー!大きな声出しちゃ駄目だよ。その方が目立っちゃうよ?」
「………………」
「ね、海馬くんはこれから直ぐに家に帰っちゃうの?」
「……そのつもりだったのだが……モクバに置いて行かれた」
「え?」
「っだから、置き去りにされたのだ!ここに!」

 全く不本意極まりない、と眉間に皺を寄せてそう口を尖らせるその顔を眺めながら、遊戯はなんだか可笑しくなって元々笑みの形を象っていた唇を更に歪め、思わず肩をも震わせて笑ってしまった。多分それはモクバの気遣いなのだろう。ここまで強硬手段に出ると言う事は、今夜は帰さなくてもいいという事だ。尤も、彼の顔を見た瞬間から、それは確定していたのだが。

「そっか。じゃあ、ゆっくりできるね。嬉しいなぁ」
「オ、オレは、留まるとは一言も言ってないぞ」
「でも、帰らないんでしょ?同じ事じゃん」
「そんな事はまだわからん」

 未だ笑い続ける遊戯の顔を不機嫌な表情で見下ろした後、少し拗ねたようにプイと横を向いたその頬に、遊戯はまた小さなキスを一つして大分近くなった耳元に小さく、けれどきっぱりとした口調でこう言った。

「帰さないよ」
「……な」
「今夜は帰さないよ、君の事。ずっとずっと待ってたんだ、帰って来てくれるのを」
 

 だから、帰さない。
 

 いつの間にか強く握り締められた右手は何故かやけに熱っぽかった。見あげる眼差しは、真剣で。少し精悍な顔つきになったその面差しを瀬人はただ、見つめる事しか出来なかった。
「おはよう、海馬くん。今日は朝から学校に来るなんて珍しいね。仕事、ひと段落したの?」
「………………」
「もう、おはよう位返してくれたっていいじゃん。この間のデュエル事、まだ根に持ってるの?」
「喧しいわ、オレに話しかけるな。貴様も奇異の目で見られるぞ」
「なんで?教室でクラスメイトに話しかけて何が悪いのさ」
「貴様のお友達とて快くは思うまい」
「それこそなんで?城之内くん達は関係ないでしょ。幾ら友達だって人の人間関係には口を出す権利なんてないよ。それに彼等は僕が海馬くんと仲良くしたからってそっぽを向くような人達じゃないし」
「さて、どうだかな。そうなってみなければ分からんぞ」

 ふぅ、と小さな溜息を吐いて瀬人は読んでいた本のページを緩やかに捲る。この本を読み始めてから一度も視線を反らす事は無かったが、遊戯に声をかけられた途端その内容は少しも頭に入らなくなってしまった。だが、それを悟られるのは己のプライドが許さず一応ポーズだけは取り続ける。動揺していると悟られるのはどうにも癪だったからだ。
 

『……デュエルをしたら貴様は帰るのか?』
『うん。帰るよ』
『ならば今相手をしてやろう』
『ほんと?!じゃあデッキを用意するよ』
『フン、貴様など瞬殺してやる』
『そんな事はさせないよ。僕だってちょっとずつ強くなってるんだからね!』
『どうだか』
『それに』
『それに、なんだ』
『君と少しでも長く居たいから、そんなに簡単にはやられないよ』
 

 遊戯の言う通り、数日前にこんなやりとりから始まった過去のデュエルがまだ尾を引いている。

 遊戯がプリント届けの為にKCに顔を出したあの日、ついでに暇潰しだと行ったデュエルだったが、瀬人は全く予想だにしない遊戯の戦術の前に玉砕し、大敗を期してしまったのだ。何故あの様な結果になったのか未だに良く分からない。あれから幾度も件のデュエルを分析し、戦術を熟考した。だが、未だに勝てる術が見つからない。全く忌々しい。

 ……忌々しいがそれが現実なのだから仕方がない。それに遊戯は言ったのだ。簡単にはやられはしない、と。やけに真剣な顔で、大きな瞳でこちらをじっと見据えながら。

「仮にそうなったとしても、僕は別に後悔しないよ」

 少しの沈黙の後、不意に放たれたその言葉に瀬人は思わず本から顔を上げ、傍らに立つ遊戯の顔を見上げてしまった。それに嬉しそうな表情で応じる相手にしまったと思ったがもう遅い。遊戯は視線や表情を変えないまま、さり気無く海馬の手元に手を伸ばし、開いていた本を片手で勝手に閉じてしまった。パタン、と大きな音がやけに耳障りに響いて消える。

「何を……!」
「あはは、やっとこっちを向いてくれた。おはよう、海馬くん」
「…………っ」
「君はすぐ忘れちゃうみたいだから何度でも言うけど。僕は君が好きなんだよ?だから君が僕にどんな態度を取っても、この事が周囲の友達に知れて白い目で見られちゃったとしても、その気持ちは変わらないんだ。残念な事にね」
「……物好きな奴め。それに、随分と態度が大きくなったものだな」
「そりゃそうだよ。だって僕、この間君に勝ったんだもの。ちょっと調子づいちゃうのも仕方ないでしょ?」
「フン、一度勝利した位で威張るな。次こそはオレが勝つ」
「それはどうかな。僕だって負けないよ。っていうか、また僕と個人的にデュエルしてくれるんだね?嬉しいなぁ」
「………………!」

 今度は何時してくれるの?また僕がプリントを届けに行った時?それとも別に日を作ってくれる?

 閉じた本を掌で抑えたまま内緒話をする様に顔を近づけて、まるで歌う様に楽しげにそう口にする遊戯の顔を瀬人はただ眺める事しか出来なかった。

 ついこの間至極遠慮勝がちに、尚且つボロボロと涙まで溢しながら自分に好きだと告げたあの態度からは現状など全く想像出来なかったからだ。余りにも展開が早すぎる、付いていけない。大体こいつは何を一人で勝手に盛り上がっているのだ。こちらから明確な答えを引き出す事もしないままこんな態度に出てくるとは反則だ。

 ……尤も「これ」が好きな人間に対する態度なのかどうか、その手の経験が全くないと言って等しい瀬人には、判断が出来かねたが。

「……手を離せ」

 何時まで経っても崩れないその笑顔に瀬人は僅かな苛立ちを感じて小さな舌打ちを一つすると、本に乗ったままだった手を強く払い、低い声で口を開く。それに遊戯は僅かな動揺すら見せずに払われた手を引き戻すと、それを軽く背後に組んで「ごめん」とにこやかに謝った。その口調には反省の色は微塵も見えない。

「何がごめんだ。とっとと立ち去れ、目障りだ」
「えーだってまだデュエルの約束してないよ?」
「誰が貴様とデュエルをすると言った」
「さっき言ったじゃない。『次こそはオレが勝つ』って」
「アレは言葉のあやだ」
「そうは聞こえなかったけど?」
「しつこいぞ!」
「あれ、言ってなかった?僕、凄く諦めが悪いんだ。だから君が怒ったってやめないよ」
「……なんだと?」
「可能性があるうちは、やめない。君が本気で嫌がらない限りはね」
「………………」
「これからどうなるか、分からないんでしょ?」

 遊戯が瀬人に向かってそう口にした瞬間、授業開始のチャイムが鳴る。それに慌てて身を起こすと、彼は「じゃあまた後で」などと言いながら小走りで自席へと戻って行った。後でだと?誰が貴様となんか共に過ごすか。勝手に決めるな。瀬人は怒りのままにそう思い、遠ざかる背に向かって投げつけてやろうと思ったが、沢山の生徒がひしめき合っているこの場では勿論声に出して言う事は出来なかった。苛立ちが、尚更つのる。

 瀬人の口から、深く大きな溜息が零れ落ちる。
 何故か少しだけ、顔が熱い様な気がした。

 ……気が、しただけだったが。