約束から始まる未来 Act6

 その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、瀬人は一瞬目を瞠り、思わず身体ごと後ずさりそうになりつつも辛うじてその場に踏み留まった。

 握り締めたドアノブの少しくすんだ銀色は記憶にあるものと相違はなかったのだが、覗き込んだ室内の様子がまさに別世界で、本当にここが目的の部屋かどうか図りかねたからだ。けれど、扉の正面から見える大きなガラス窓の形状や壁際にあるブックシェルフに飾られた小さな写真立てに収まっている懐かしい顔ぶれに、この部屋は確かに遊戯の私室だという事を知る。

 深呼吸を一つして、瀬人は慎重に部屋の中へと歩んで行く。そして後ろ手に扉を閉め、配置と色彩、そして広さまでもが全く異なってしまったよそよそしい空間の中央に立ち、改めて室内を見渡した。以前は玩具箱をぶちまけた様な雑多で子供っぽいものだったその場所は、今は黒と茶を基調にしたシックで落ち着いた部屋に変貌していた。

 やけに広く見えるのは部屋自体を大きくしたからなのだろう。箪笥などの家具が消えた事を考慮しても記憶していた広さの倍はある。多分客間であった隣室との壁を壊して二階の殆どを遊戯の部屋として使用したのに違いない。しかし幾ら横に伸びても天井は相変わらず低かった。扉も僅かに身を屈めなければ通る事が出来ないのは昔のままだ。

 昔の遊戯ならばこの天井の低さも、ドアの小ささも大して気にも留めなかったろうが、今の奴ではどうだろうか。たまに己の身長の事を忘れてドア枠に頭を打ちつけているに違いない。そんな事を口元に笑みを浮かべつつ考えながら、海馬は興味深く見慣れない部屋の中を歩き回る。

 一番見易い場所に設置された巨大なプラズマテレビや寝転がるのに丁度良さそうな大きなソファ。以前のものからは比べ物にならない位大きくなったシングルベッド。雑多に物が詰め込まれた本棚、散らかるAV機器、そして余り目立たない場所に並べてある大小様々なトロフィーや盾の数々。

 そのどれもに「デュエル」の文字が刻まれている。今は冴えないゲーム屋経営を片手間にプロのデュエリストとして生計を立てている遊戯の軌跡でもあるそれを一つ一つ眺めながら、瀬人は知らず小さな溜息を吐いていた。

 瀬人自身はここ数年デュエリストとしてM&Wに関わってはいなかった。勿論プロのデュエリストでもない。世界海馬ランド計画の実現を第一に我武者羅に働いて来た彼にはデュエリストとしてカードに触れる時間もなかったのだ。否、敢えて作らない様にした、というのが正しいのかもしれない。カードに触れてしまうと未来に向けて力強く歩んでいる己の足が鈍ってしまう事を自覚していたからだ。故に、彼は未練が残りそうなものを全て日本に置き去りにしていった。

 5年前……瀬人が童実野を発つ前日に、万感の思いを込めてケースに収め鍵のかかった引き出しの一番奥に閉じ込められたカード達は、今も静かに主の帰りを待っているのだろう。そう、顔を見るなり飛びついて来た大人げないあの男と同じ様に。

「懐かしい?」
「…………!!」
「ライバルの君がいないから、僕がこんなに沢山の賞を独り占め出来ちゃったんだよ?」

 一番新しい世界大会の優勝トロフィーに指を伸ばした瞬間、背後から穏やかな声が聞こえた。はっとして振り返ると、大きな盆の上に茶器と山盛りの菓子をのせ、危なげもなく立っている遊戯の姿があった。彼は瀬人の表情とその手元にあるトロフィーを交互に眺めた後ソファーの前にあるローテーブルへと歩んで行き、慣れた手つきでカップや皿を並べると、「眺めるのに飽きたらこっちにおいでよ」と告げて、自分はさっさとソファーに座って暖かい湯をティーポットに注いでいる。

 程無くして、甘い花の香りが漂ってきた。そして誰も聞きもしないのに「イギリスの店で買って来た紅茶なんだ」と説明する。

「うちのじーちゃんも昔世界中を旅していたでしょ?それが遺伝しちゃったのかなぁ、色んな国の色んなものに触れたくなって。つい最近まで僕も日本にはいなかったんだ。大会とか、仕事の時だけ帰ってくるようにしてさ……だから、君が帰って来たタイミングで僕もここに居る事が出来て良かったよ。もしかしたら、すれ違いになっちゃったかも知れないしね」

 小さなカップの中身を一口飲んで、ソファーの背に腕をかけた存外男らしい仕草でこちらを向いた遊戯は、未だ同じ場所で佇んでいる瀬人に軽く手を伸ばす。その指先を最初は少し訝しげに眺めていた瀬人だったが、やがて諦めた様にトロフィーに触れていた右手を差し出した。それを掴む様に握られて、やや強引に遊戯の隣へと導かれる。

「コート、脱いだら?」

 ソファーに座り、言われるがままにコートを脱ぐと、それは即座に奪われてクローゼットの中に収納される。目に見える所にコートかけがあるにも関わらずわざわざ見えない場所にしまうと言う事は、遊戯には瀬人を帰す意思がないという事だ。

「……何故中に入れる」
「埃になっちゃうじゃん」
「そこにあるのは貴様のジャケットじゃないのか」
「僕は気にしないもの」
「オレも気になどしないわ」
「うん、知ってる。でも、僕が落ち着かないんだ。君って変な所で臆病で意気地がないからさ、閉じ込めておかないと」
「何がだ!」
「今日は泊まっていくんでしょ?」
「………………」
「ほら、まだ諦めてない。変わんないなぁ、海馬くんは」
「煩い。子供扱いするな!」
「癇癪起こさない。ほら、紅茶が冷めちゃうから飲んで」
「オレに指図するな。一々鬱陶しいぞ貴様」
「そりゃあ鬱陶しくもなるよ。5年ぶりだもの」

 5年ぶり、をやけに強調して言い切った遊戯は自分の紅茶を一気に飲み干すと静かにソーサーへと戻してしまう。そして、早く飲めと促した割に瀬人からまだ半分中身の入ったカップを奪ってしまうと、距離を詰めて思い切りその身体を抱き締めた。

 先程と同じ、痛みさえ感じる程の腕の強さ。相手の腕が脇の下に潜り込む形で回されたお陰で自由なままの掌で、瀬人は己を拘束する二の腕に触れると、それは驚くほどしっかりしていた。以前感じた如何にも成長途中の柔らかで頼りない感触とは似ても似つかない。……まるで違う男の腕だった。

 思わず身を強張らせると、耳元でくすりと笑う声がする。

「……緊張する?」
「誰が……っ!」
「身長が伸びただけじゃなくて、逞しくなったでしょ。今なら腕相撲も君に勝てる気がするぜー」
「身体に似合わずガキ臭い物言いをするな、気色悪い!」
「えー。だって、急に大人っぽい事したら海馬くんが怖がるかと思って」
「怖がるか!」
「じゃあ、キスして、触ってもいい?」
「………………」
「これが『5年』なんだよ、海馬くん」

 驚くほど伸びた身長、逞しくなった体躯、滑らかに口を割って出る軽口、拘束する力の強さ、余裕の表情。

 これが5年と言う月日が齎した結果なのだと遊戯は笑う。

「君をただ待つ事なんてしたくなかった。どうせ待つのなら、驚かせてやろうと思ったんだ。……成功したかな?」
「……知らんわ!」
「ね、まだ『ただいま』って言って貰ってないよ?」
「そんな事、どうでもいいだろうが」
「駄目。挨拶はきちんとしなさいって、先生に言われなかった?」
「何時の話だ!」
「もう〜子供だなぁ。幾つになったと思ってるのさ。大きな声で言えとは言わないからさ、お願い」

 そうじゃないと、君が帰って来たって実感がわかないんだ。

 全力で人を拘束している癖に未だそんな戯言を言う遊戯の顔を瀬人は思い切り睨め付ける。しかしその鋭い眼光すらも優しい笑みに掻き消され、仕方なく瀬人は渋々と言った様子で彼の望む言葉を口にした。酷く投げやりで、ぶっきらぼうな声のままで。

 瞬間、座ったまま抱き締められていた身体がソファーへと倒される。

「──っ、貴様っ!」
「……ずっと待ってたんだよ、君の事」
「…………遊戯」
「さっきは、ただ待つ事なんてしたくなかったって言ったけど、本当はじっと待ってる事が出来なかっただけなんだ。君が本当に僕の所に帰って来てくれる保証なんて何処にもなかったしね。凄く不安だったし、寂しかった。だから僕は旅に出たのかもしれない」
「心外だな。オレは約束は守る方だ」
「知ってるよ。知ってるけど、君は気紛れだし、凄く魅力的だから」
「ふん、下らん。オレ個人に興味を持って近づいて来る酔狂な輩は貴様位だ」
「……相変わらず、自分の事を分かってないなぁ」
「煩い。貴様こそ決闘王となり、デュエリスト界に君臨してる身だ。さぞかし誘いも多いのだろうな!」
「そう思うでしょ?残念ながら僕はアイドルデュエリストじゃないからね。全然人気なんてないんだよ」

 認識が甘いのはお互い様だ。武藤遊戯という男がどれだけ世界で有名なデュエリストか知らないのは貴様だけだ。

 テレビやインターネット、新聞雑誌、ありとあらゆるメディアでセンセーショナルに書き立てられる圧倒的な強さを誇る決闘王の姿。瀬人がそれらを目にする度に幾度携帯を握り締め、接続可能かどうかも分からない番号を睨んだ事を、目の前のこの男は知る由もないのだろう。

 尤もそれは「決闘王」を「世界的大企業の代表取締役」に置き換えて、携帯に手を伸ばした対象者を瀬人から遊戯に変えても全く同じ事が言えたのだが。
 

「でも、君は……帰って来てくれた」
 

 言いながら、遊戯はさらりと手触りのいい眼前の前髪をかきわけて、現れた白い額に唇を押しつける。すると腕の中の身体から少しだけ力が抜けた。それを直に感じながら遊戯は改めて目元に、頬にと確かめるように口付ける。僅かに開いている唇の端にもキスをすると、初めて二人の視線がかち合った。少しも変わらない綺麗な色をした瞳の中に、相手の顔が鏡の様に映り込む。

 遊戯は瞳を閉じる事無く瀬人の唇に己のそれを触れ合わせた。温かな室温の所為で少しだけ乾いてしまったそこを潤す様に舌を出し、舐めあげる。先程の様に性急では無いそのキスに瀬人も協力的に舌を出した。柔らかな粘膜同士が擦れ合い、唾液を溢れさせながら絡み合う。

 顎を伝う温い感触を瀬人は不快だと思いつつも拭おうとはしなかった。両手は遊戯の背に縋りつく事に必死で、他に気を回す余裕もない。

 何時の間にかシャツのボタンは外されて、スラックスさえ緩められていた。少しだけかさ付いた掌が肌を這い、感触を確かめるようにあちこちに触れて来る。長いキスを堪能した唇は零れた唾液を追いながらゆっくりと下へ降りて行った。

「……んっ、く……ちょ、っと、待て……!」

 二人の動きに、キシ、とソファーが鳴った瞬間、瀬人はここがベッドの上では無い事を思い出した。別に場所に拘りがある訳では無かったが、イレギュラーな事態には対応出来ない。こうなる事を勿論予想しない筈もなかったが、性急に事を進められると焦りが生じた。言ってしまえば心の準備が出来ていないのだ。

「何?」
「なに、では、ないっ……!いきなりこんな……っ!」
「いい年した大人二人が再会したらする事って一つだと思うんだけど……」
「ふざけるな……っ、や……あ!……まだっ、貴様の親もじじぃも起きてるだろうがっ!」
「じーちゃん達?大丈夫だよ。じーちゃんは二階にまで上がって来ないし、マ……母さんはご飯の支度中だしさ。今日は海馬くんが帰って来たお祝いだって張り切って御馳走にするだろうから当分時間かかると思うよ」
「だがっ」
「それに、万一誰かが二階に上がって来ても部屋の中の音なんて聞こえないよ。改装する時に防音処理だけはしっかりやって貰ったんだ。僕、ゲームを大音量でするの好きだからさ。……尤も、君が帰って来た時の事も考えてそうしたんだけど」

 前は壁が薄くて大変だったよね。今度は遠慮なく声を出しても大丈夫だよ?

 にっこりと邪気のない笑みと共にそう告げられて、瀬人は心底呆気に取られて遊戯を見る。そしてみるみる内に頬を赤らめると、容赦なく眼前の頭を叩いて「ふざけるな!」と怒鳴り付けた。

「痛いなぁ。殴る事ないじゃないか」
「喧しいわ!」
「そんなに嫌?君が絶対に嫌だって言うんなら諦めるけど……」

 瀬人の裸の胸に手を添えて、何時の間にか割り込んで来た膝の間にある遊戯の下腹部は既に熱く熱を持っている。その状態で何をどう諦めるというのかと、瀬人は心の中で溜息を吐く。嫌か、と言われれば絶対に嫌だとは言わないが、かといってすんなりと許可をする気にもなれなかった。その迷いは、そのまま静かな沈黙となる。

「何をそんなに拘ってんのさ」
「……別に、拘ってなどない」
「じゃあいいでしょ。一回だけ」
「良くない」
「これでも僕、すっごい我慢して来たんだけど。……海馬くんはしたくないの?あ、もしかして我慢してなかったとか?」
「下世話な事を言うな!」
「じゃあその逆で久しぶり過ぎて怖いとか?」

 片方が半裸で抱き合ってるこの状況で軽口を叩き合う事に遊戯はなんだか可笑しくなって、一人肩を震わせて笑い出す。全く海馬くんは、等と呟きながら一旦下げた唇を再び上へと持ちあげて、もう一度キスをする。困惑する様に瞬きを繰り返す茶色い睫毛の先に己の頬を擽られながら、遊戯はそっと瀬人のスラックスに手をかけて耳元で囁いた。

「大丈夫。無茶はしないよ。時間はたっぷりあるんだもん。……そうでしょ?」

 昔はその動作ですらぎこちなく、瀬人の助けを借りなければ衣服一つ満足に脱がす事すら出来なかった癖に、今はあっさりと取り去ったそれを床に払い落として腰を抱く。男の指の感触。皮膚に食い込む指先の力はもう拒む事を許さなかった。

「相変わらず綺麗だね、海馬くん」

 明るい部屋で、しっかりと見据えられながら照れも何もない真摯な声でそんな台詞を投げつけられるとどうしたらいいか分からなくなる。上半身に纏うシャツ一枚だけのあられもない格好に羞恥や怒りを感じる間もなく、再び肌を這い始めた指先と舌の温度に全神経を奪われた。遊戯にはもうこちらに許可を求める素振りすらみられない。

「ゆう、ぎっ!」
「そんなに怖がらないでよ。なんか初めての時の事を思い出しちゃう。あの時も君、すっごくガチガチで可愛かったなぁ」

 当時、素直にそう口にしたら「貴様にだけは言われたくないわ!」と涙声が返って来た。未だ高校生だったあの頃。遊戯が瀬人を好きになり、唯一の取り柄であった粘り強さを武器に強引に攻め込んで、最後には攻め落としたのだ。初めて彼と繋がった場所は何処だったか。その事実だけが余りにも鮮明に脳裏に焼き付いていてその背景が思い出せない。

 あの頃は、こんな未来を想像してすらいなかった。非力な腕で、大きさの足りない身体で、相手を抱き締める事に必死だった。いつしか終わりを告げるだろう日常に怯えてすらいた。けれど、今は違う。

 唇で、頬に当たった色も形も記憶と寸分も違わない乳首を舐めあげる。頭上で息を飲む声が聞こえ、継いで歯を強く噛み締める音がした。防音はしっかりしてるって教えてあげたばかりなのに……と遊戯は思うが、それは昔から瀬人の癖の様なものだったから、指摘する事は諦めた。

 その代わり、持ち上げた指先をきつく閉ざされた唇へと触れさせる。直ぐに抵抗を見せるそれに、遊戯は口に含んだ乳首に軽く歯を立てる事で瀬人がこちらに従う様に促した。幾度か繰り返すと、観念したのか閉ざされたそこが薄く開き、その隙間から指を差し入れて舌を撫でる。舐めて、と囁くと緩く首を振って拒否したが、構わず奥まで指を入れる。鼻に掛った甘い声が、静かな室内にやけに大きく響き渡った。

「……ぁ……っん!」

 瀬人の唾液を絡めてベトベトになった指先を、緩く首を擡げていた瀬人自身へと伸ばしていく。既にそこは先走りが溢れてとろとろと流れ落ちていて唾液の力を借りるまでもなかった。

「まだちょっと胸を弄っただけなのに感じやすいね」

 仕上げとばかりに赤く腫れあがった胸の先をぺろりと舌で舐め上げれば瀬人はびくりと身体を跳ね上げ、眼下の遊戯をきつく睨む。けれど潤んだ瞳では迫力などある訳もなく、至極嬉しそうな笑みで応戦されるだけだった。

 無意識に片膝を立てた足が震えている。安い合成皮革で出来たソファーは瀬人から滲んだ汗やそれ以外のものを吸う事もなく、濁った小さな水溜まりを作っていた。それを気にせず遊戯はそこに膝を付くと、瀬人の胸元に留めていた顔を身体ごとずり下げて、手にした熱を口に含む。そして躊躇せず喉奥まで迎え入れ、口内のあらゆる箇所を使って念入りに攻め立てた。


「──んっ」
「……うぅ……くっ……あ、あぁっ!」

 根元から先端まで丁寧に舌を這わされて、時折緩く歯を当てられる。先端をえぐる様に舌先で何度も擦られ、最後に強く吸い付かれる。元より刺激に耐性のない瀬人は何度か襲い来る波に耐えていたが、やがてか細い声を上げて吐精した。

 それを嬉々として口内で受け止めて難なく飲み干した遊戯は、唇を手の甲で拭いながら「早かったね」等と笑顔で言う。足に力が入れば蹴り飛ばしてやりたいと瀬人は思った。しかし、弛緩した身体はその意思に反してぴくりとも動かない。

「気持ち良かった?」
「……聞くなっ」
「海馬くん、本当に久しぶりだったんだね」
「煩い」
「こっちの方も、直ぐには無理かなぁ」
「……!?……待て、そこまで……つっ!」
「あ、ごめん、痛かった?!」

 言いながら、遊戯は既に十二分に濡れている瀬人の後ろへと手を伸ばす。未だ慎ましく閉ざされているそこを指の腹で緩くなぞると、ひくりと期待するように蠢いた。試しに人差し指を宛がって、侵入を試みる。以前なら指の一本程度はすんなりと飲みこんだそこは、今は爪先すらも堅く拒んで受け入れる事はしなかった。

「……痛いわ!」
「ごめんってば。うーん……元に戻っちゃったね……」
「なっ……当たり前だろう馬鹿が!だから嫌だと言ったんだ!」
「そんなに怒らなくても……どっちにしてもいつかはするんだからさ」
「………………」
「でも、君がちゃんと自分の身体を大事にしてくれてて良かった」
「……っ、何を馬鹿な事を。誰が好き好んで貴様以外の奴に醜態を晒す様な真似をするか!死んでもお断りだ!」
「うん。そうだよね。ごめんね、君のプライドを傷つけるような真似をして」

 凄く今更な事だけど。

 何時の間にか身を起こし、最初と同じ様に正面から瀬人を抱き締めた遊戯は、すっかり弛緩した身体を愛しそうに撫で上げて、小さなキスを繰り返す。「今更だ、阿呆め」と上ずった声で投げつけられる憎まれ口を唇で吸いとってしまおうと、そこに顔を寄せた瞬間、軽いノック音と共に部屋の外から遊戯には聞き慣れた、そして瀬人には懐かしさを感じる優しい声が聞こえて来た。

「遊戯、そろそろ夕ご飯が出来るから、先にお風呂に入るなら入っちゃいなさい!瀬人くんもね!」
「!!」
「はぁい。じゃあ先に入るよ」
「必要なものはお風呂場に揃えてあるからね」
「ありがと」

 遊戯の返答に満足したのか、声の主である彼の母親はそれ以上何も言わず階下へと降りて行く。一瞬、ドアを開け放たれ、中を覗かれたら終わりだと息を詰めていた瀬人は、遠ざかっていく足音に肩を落とす程の盛大な息を吐き出した。思わず遊戯の腕を掴んでいた掌は汗でじっとりと湿っている。

「お風呂だって。丁度良かったね。海馬くん先に入ったら?」
「ふざけるな貴様!こんな所を見られたらどうするつもりだったのだ!!」
「どうもしないよ。だって皆知ってる事だし。母さんだってもしそうだったら、って思うからドアを開けないんじゃん」
「なっ……!!」
「じーちゃんがさ、よく君の事を初心だ初心だって言うけど、本当にそう言う所、可愛いよね」
「やめろ!」
「続きは夜しよっか。ベッドを新しくしたからさ、今度はそんなに窮屈じゃないと思うんだ。狭いベッドでぎゅうぎゅうになって寝るのも楽しかったけど、僕もこの身体じゃあはみ出しちゃうしね。……あ、今タオル持って来るからシャツ着ててくれる?」

 最後に瀬人の額に軽いキスして、立ち上がった遊戯の事をぼんやりと見送った瀬人は、彼が一切服を乱していない事に気付いて今更ながら赤面する。何故オレばかりがこんな目に……!歯軋りと共に前を合わせたシャツのボタンを留めようとするも、指が震えて上手く動かなかった。そんな事さえ癪に障った。

 ふと、床に落ちたスラックスを拾おうとして、ソファーの惨状が目に入る。羞恥で目眩を起こしそうになりながらも、瀬人は己が酷く安堵している事に気付いていた。どんな目に合わされたとしても、もう一人では無い。呼べば応えが返るほど近くに遊戯がいる。
 

「海馬くん」
 

 優しくかけられるその声に、不意に涙が出そうになる。

 それを拗ねた表情で誤魔化して、瀬人は差し出される柔らかなタオルを受け取った。