約束から始まる未来 Act8

「今日のパーティはつまんなかったぜぃ。中途半端な時間で、碌な食べ物も出て来なかったしさぁ」
「そう言えば、珍しく何にも手を付けていなかったな」
「だって、周りの大人は誰もお菓子なんか食べないじゃん。オレだけ一人がっついてたらそれこそガキみたいだろ?」
「実際子供なのだから関係ないだろう」
「それはそうだけど……結局包んで貰って来ちゃったし」

 そう言って不満げに鼻を鳴らしたモクバはやけに膨らんだコートの左ポケットに手を伸ばすと、そこから大きな可愛らしい包み紙を取り出した。一応男だからと気を使ったのか、ブルーのリボンで結ばれたその中身は、先程のティーパーティ会場で饗されていた焼き菓子だった。余り興味がないので聞き流してしまったが、菓子の世界コンクールで優勝した事のあるパティシエがいる店の人気のある一品であるらしい。

 「これ、本当に美味しいのかな」といいつつ、兄の顔を伺っているモクバに、瀬人はその仕草の意味を正しく受け取り、半ば呆れながら「食べてみればいいだろう」と言ってやる。すると、途端にぱっと顔を輝かせた彼は「じゃあ、あそこで」等といいながら、さっさと会場であったホテルのロビー前の椅子に座ってしまうと、それこそその辺の小学生男児さながらに包み紙を膝の上に乗せてリボンを解き、早速薔薇の形をしたクッキーを一つ口に入れた。

 タイの一つまで完璧に仕上げられたスーツ姿に派手に散らばった菓子の屑など気にせず、二つ三つと頬ばるその姿に、瀬人の口元も僅かに緩む。

「兄サマ、これすっごく美味しいよ!」
「そうか。だが、余り食べ過ぎると夕食に響くぞ」
「お菓子は別腹!それに、こんなにちょっとじゃお腹は膨れないぜぃ!兄サマも……」

 そう言いかけて、モクバははっとしたように口を噤むとポケットからハンカチを取り出して、膝の上のクッキーを数枚其処に取り分けた。そして、器用にそれを包んでしまうとずい、と瀬人へと差し出して来る。その意味を測りかねて瀬人が首を傾げると、彼はさらりと「これ、兄サマの」と言って微笑んだ。

「兄サマはここじゃ嫌だろうから、屋敷に帰ったら食べてみてよ」
「そんなに美味いのならお前が全部食べればいいだろうが。オレはいらん」
「美味しいから食べて欲しいの。ね?」

 そんな言葉と共に掌に強引に乗せられてしまっては、いかな瀬人でも受け取らない訳にも行かず、仕方なくモクバに倣ってコートの中へとしまいこんだ。それを満足そうに見上げながら、モクバは再びクッキーを口に放り込む。その様を複雑な表情で見下ろした瀬人は、不意に思い出したように腕時計を睨めつけた。

 パーティ終了後、使用人に迎えに来いと命じてからゆうに三十分は経過している。何時もならとっくに連絡が来ている筈なのに、今日に限って随分と遅れていた。終了時間が曖昧な催しだった為、近くに待機させるのではなく家まで帰らせてしまったのが失策だった。しかしこの後特に急ぐ予定も無かったので、そう気を急く事もないだろうと思い直し、座り心地のいいソファーへ少し深く身を沈ませようとしたその時だった。

 内ポケットの携帯が緩く振動し、イヤホンを通して内容が機械的に読み上げられる。それは、今しがた気にしていた運転手からのものだった。どうやら事故渋滞に嵌まって抜け出せなくなっているらしい。結果的にもう少しホテルで待機するか、可能ならば移動をして別の場所で落ち合うか選択して欲しいとの事だった。

「モクバ」
「何、兄サマ」
「浜田が直ぐには来られんらしい。ここで待つか、駅裏で落ち合うか聞かれたが、どうする?」
「うーん。待ってるのも面倒臭いし、歩こうよ。ここから駅までって歩いて10分位でしょ?」
「ああ」
「だったら、時間が勿体ないぜぃ。コートも着てるし、寒くないよ。行こう、兄サマ」

 言いながら元気よく立ち上がったモクバは手の中の包み紙を丁寧に畳んで再びポケットへと入れてしまうと、極自然に瀬人へと手を伸ばして来る。それをメールの返信を済ませた指先で握りこんで瀬人は仕方なく外へ向かって歩き出した。

 この行動が後に失策だったと思うのだが、今の彼には勿論そんな事は分からなかった。
「あー!海馬くんとモクバくん!こんな所で何してんの?」
「ゲッ、海馬かよー最悪だなー!!」
「二人ともスーツなんて着ちゃって、お仕事だったのね。でもその格好で外歩いてて大丈夫?なんか凄く悪目立ちしてるわよ」
「親子みたいだもんな」
「なんだよお前等。出会い頭にウルサイなー!オレと兄サマはパーティの帰りなんだぜぃ!」

 その賑やかな声を聞いた瞬間、瀬人は踵を返してこの場から逃げ去りたい衝動に駆られた。何故よりに寄ってこんな場所で最も会いたくない連中に出会ってしまうのかと、己の不運を呪いたくなる。尤も今二人が歩いていた場所は大手ホテルの正面玄関や高級料亭等が犇めく大通りの方では無く、一本奥に入った場所にある通称青春通りと言われる道だった。

 そこにはゲームセンターや映画館、比較的安価なカフェが並び、放課後になると数多の学生がこの通りに集って来る。今対面してしまったクラスメイト……遊戯を始めとする数人の『お友達』は何時も通りここへと遊びに来ていたらしい。どちらかと言えば瀬人のイレギュラーな行動が招いた不幸だった。

「で?お前等はなんでこんなとこにいるんだよ。もしかして、兄弟でお忍びで遊びに来たとか、そういう奴?だったら着替えてくりゃいいのに」
「違うぜぃ!車が迎えに来ないから、駅裏まで歩いて行く途中だったんだ」
「あーそういやさっきあっちの方でなんか色々煩かったな。事故ったか?」
「この時間じゃ渋滞しそうよねぇ。丁度仕事が終わる時間じゃない」
「バスとかも覚悟した方がいいかもしんねーな」

 何時の間にかモクバは城之内達に囲まれてあれこれと質問攻めにされている。それに巻き込まれない様、瀬人は敢えて一歩引いた所で口を真一文字に結んでそっぽを向いていた。喧しい、鬱陶しいとはっきりと表情で訴えながら、早く解放してくれと言わんばかりにイライラと組んだ腕を指先で叩いている。

 そんな彼に躊躇なく近づいたのは、勿論最初に彼等に声かけをした遊戯だった。彼は一人になっている瀬人にこれ幸いと近づいて、有らぬ方を向いている顔の前へとやってくると至極嬉しそうな声で「海馬くん」と呼んでくる。

「こんな所で君に会えるなんて思わなかった。すっごく嬉しいよ!」
「オレは不愉快だ。貴様等が雁首揃えてふらふらと遊びに来ているとは予想外だったわ」
「あはは。この辺は良く来るんだ。最近は御無沙汰してたんだけど、今日は城之内くんのバイトが休みだったから、久しぶりに」
「どうでもいいわ、そんな事」
「そういえば、今週は海馬くん、学校来てなかったよね?忙しいの?」
「オレに暇などない」
「そっかぁ……そうだよね。でも、やっぱり週に一度位は顔を見せてくれると嬉しいな。ね、今度学校に何時来るの?その日に合わせてまたお弁当作って来るから」

 お弁当、のその二文字にピクリと瀬人は反応する。その様を遊戯は勿論見逃してはいなかった。ついこの間、母親がハンカチのお礼にと作ってくれた瀬人の分の弁当は、食べさせるまでには色々と面倒だったが、一旦箸を付けた後はこちらが驚くほど綺麗に平らげられてしまい、大いに遊戯と母親を喜ばせたのだ。

 瀬人からは弁当そのものの感想は得られなかったものの、苦手なものまで我慢して食べる性質でもないようなので、悪い評価では無かったのだろう。それから何度か未だ背中合わせだったが二人は昼食を共にし、現在に至っている。

 尤も、遊戯が瀬人の登校日を把握しているわけでは無かったので、最初の時の様に弁当を食べさせる事は出来なかったが、その時は購買から買って来たパンや、飲み物を飲食させた。瀬人からは毎回「意味が分からない」だの「迷惑だ」だの散々文句を言われたが、最終的に拒絶される事はなかった。

「海馬くんの好きなものって何?どうせ作るなら好きな物の方がいいって、ママが」

 遊戯の言葉に返す台詞も思い付かず黙っていると、彼は何故か先程よりも顔を近づけてそんな事を聞いて来る。そうだ、コイツは人の意思など余り関係無い輩なのだ。黙っていれば肯定と受け取られてしまう。しかし反論してもいい様に解釈され、どちらにせよ太刀打ちするのが酷く難しい。

 瀬人はうんざりした気持ちを抱えながらも、己を見つめて来る目線に耐えきれず、今度は遊戯がいる方とは逆方向を向いてしまうと「特にない」と言い切った。実際どうしても食べられない三文字のあの食べ物以外好き嫌い等なかったし、敢えて好きだと公表しているものはどこをどう考えても庶民の弁当のメニューとしては相応しくないものだった。故にそう答えるしかなかったのだが、そこで瀬人ははたと気付いた。

 答えてしまったと言う事は了承したのと同じ意味になると言う事を。

「そうなんだ。じゃあ僕と同じ物でいいよね」
「待て、オレは好きなものを答えろと言われたから答えただけで、弁当の事は」
「答えてくれたって事はOKって意味じゃないの?そうでしょ」

 やはりか!!

 想像通りの答えに思わず頭を抱えたくなったが、ここはプライベート空間では無く人通りの多い街中だった。いかな瀬人でも、誰に見られているか分かったものでは無いこんな場所で醜態をさらす真似は出来ず、大きく舌打ちをするだけで留まった。本当は違うそうじゃないと否定の言葉をこれでもかと浴びせてやりたかったが、にこにこと己を見あげる眼前の男には全く効き目はないだろう。

 最後に残された抵抗と言えば、余計な事を言わず無言を貫き通し、この場をやり過ごすしかない。しかし、運命の女神はやはり瀬人には微笑まなかった。何時の間にか城之内達の質問攻めから解放されたモクバが遊戯の隣へとやってきてしまったからだ。

「遊戯、あいつらがお前の事呼んでたぜ。……って、二人で何の話してるんだ?」
「あれ、モクバくん何時の間にかこっち来てたんだ。うーんと、海馬くんのお弁当についてちょっと……」
「兄サマのお弁当?兄サマ、学校にお弁当持ってってるの?!っていうか、兄サマ学校でご飯食べられるの?」
「ちょ、違うわ!余計な事を言うな!行くぞモクバ。こんな奴に構ってやる必要などない!」
「あ、海馬くん!次いつ学校に来るの?!」
「貴様に教える義理なぞない!」

 ただでさえ兄の動向を気にしがちなモクバに変な事を吹き込まれてはたまらないと、瀬人はモクバの腕を掴むとまるで立ちはだかる様に立っていた遊戯の横をすり抜けて足早に目的地に向かおうとする。しかし、そんな瀬人の行動も、何故かこの事に関しては強気の遊戯には全く功を奏さなかった。

 彼は即座に踵を返して二人の後ろを追いかけると、瀬人の空いている腕の方を掴んで両足に力を入れる。いかな瀬人でも遊戯に全力で踏み留まられてしまうとそれを片手で引き摺る事は難しかった。がくん、と妙な反動を持って瀬人はその場に立ち止まる事を余儀なくされる。それに苛立ちの頂点に達した瀬人が、怒鳴ろうと口を開く前に遊戯はやはり満面の笑みを見せてこう言った。

「じゃあ、明日は丁度金曜日だし、明日来てよ。待ってるから」
「……なっ」
「約束ね!じゃ、モクバくん、またね!」
「うん、またな!今度家に遊びに来いよ。あいつらも一緒でいいからさ。ゲーセンなんかより面白いゲーム、一杯あるぜ?」
「ほんとに?!嬉しいなぁ、皆にも伝えておくよ」
「あいつらにも一応同じ事言っておいたぜぃ。だから相談しておけよ」
「ありがとう!二人とも気を付けて帰ってね!」

 瀬人の反応を殆ど無視する形で一方的に言葉を押し付けて来た遊戯は、何時の間にか話相手を取って代わられたモクバと勝手な約束をした挙句、足早に去って行った。その事に直前の勢いは何処へやら殆ど呆気にとられる形で見守るだけとなった瀬人は「どっちかっていうと気を付けるのはアイツ等の方だよね」というモクバの声に相槌すら打てないまま、既に遠くなっている遊戯の背中を見つめていた。その胸中はかなり複雑だった。

「……なんなのだ、一体」
「遊戯、なんかすっごくはしゃいでたね。いい事でもあったのかなぁ」
「………………」
「なんか勝手に約束とか言ってたけど。元々兄サマ、明日学校に行く予定だったよね?」
「……ああ。まぁ……」
「ま、何でもいいけど。後でお弁当の事聞かせてね!すっごく気になるんだぜぃ」

 記憶力が抜群に優れているモクバに『その事』をスルーさせる事等出来る筈もなく、瀬人はキラキラと目を輝かせながら自分を見上げて来るその眼差しにこれでもかと打ちのめされながら、深い溜息を一つ吐いた。

 今日は厄日だ、と心の中で呟きながら。
 夕飯を終え家族がそれぞれの部屋に引き上げた後、遊戯は二人分の熱い珈琲の入ったカップを盆に乗せて、二階の自室へと戻ってきた。

 入室すると温かな空気と共にまるで囁き声の様なニュースキャスターの音声が聞こえて来る。つと視線を巡らすと先に部屋へと戻っていた瀬人が先程座った場所とは別の所に腰を下ろし、静かに新聞を読んでいた。最近更に目が悪くなったとかで真新しい眼鏡を指先で抑える様は、一瞬別人の様でドキリとした。そう言えばこんな姿を目にするのも5年ぶりだ。

 彼は以前からこの家に置いてあった淡いブルーのパジャマとその上に白い厚手のカーディガンを羽織っている。それはどちらもモクバからの誕生日プレゼントだったらしい。高校2年の時に贈られたらしいそれを今でも普通に着こなしている様を見ると、彼の身体には同じ5年という月日が本当に流れたのかと疑問に思えてしまう。モクバや自分が急速な成長を見せたので余計にそう思うのかもしれないが。

「海馬くん、珈琲持って来たよ」
「……ああ」
「そんな隅っこに座ってないで真ん中で見たらいいのに。っていうか、こんなに音低くて聞こえるの?君って相変わらず耳がいいよね」
「特に真剣に聞いている訳でもないからな。BGM代わりだ」

 カップをテーブルの中央に置きその前に漸く腰を下ろした遊戯は、端に座る瀬人を見るとこちらに来るように手招きする。そんな彼の仕草に瀬人は一度新聞から顔を上げたものの「すぐだ」と良く分からない返答をして、再び目線を落としてしまった。かさりと新聞が一枚捲られる音がする。

 その「すぐだ」は「もうすぐ新聞を読み終える」という意味なのだが、言葉足らずの瀬人はいつも端的に表現する。最初はそれがなかなか分からなくて「何が?」とか「ちゃんと言って」とか一々反応して怒らせたものだったが、今は「珈琲が冷めるから早くしてね」と小言を言う余裕があった。そして梃子でも動かない彼の元に自分から身を寄せる積極性も身に着いた。尤も、これは最初からだったのだが。

「外は大分冷え込んで来たみたいだけど、寒くない?」
「いや。丁度いい位だ」
「パジャマを着て丁度良くても、裸になったら寒いと困るでしょ?風邪をひかせたらモクバくんに怒られちゃうしね」
「………………」
「さっき言ったじゃん。続きをするって。もしかして本気にしてなかった?」
「そんな事は無いが……」
「そんなに警戒しなくてもここではしないから大丈夫だよ。とりあえずゆっくり珈琲飲もう?」

 身を寄せたついでに華奢な膝に片手を付いて少しだけ上半身を伸ばすと、新聞の影になっていた頬に小さなキスを一つ落とす。その行為に身を強張らせた瀬人に、遊戯は肩を震わせながら笑って見せた。その実、遊戯は瀬人がソファーの中央に座らない理由を知っている。何故なら先程そこで戯れたからだ。

 潔癖症の気がある彼は先刻の事を克明に覚えていて、少しであったが汗と精液に汚れていたその場所に腰を下ろしたくはなかったのだろう。全く、何年経ってもこういう所は変わらないのだと遊戯は少し感心し、同時に酷く安心もした。やはり、自分の知らない所で変わってしまったら寂しくもある。

 再び手を伸ばし、これから邪魔になるだろう眼鏡に触れる。フレームのない繊細な作りのそれは瀬人にとても良く似合っていた。海馬くん、と名前を呼ぶと呆れた様な眼差しが降って来て、手にしていた新聞を名残惜しげに畳んで手放した。ふぅ、と小さな溜息が遊戯の前髪を微かに揺らす。

「邪魔だな。おちおち新聞も読めやしない」
「あ、素っ気ない言い方。モクバくんには絶対そんな事言わないでしょ」
「そんな事もないぞ。アイツは身体と共に態度も大きくなって……ああ、まだ貴様は会っていなかったか」
「うん。テレビでは良く見かけてたけどね。ほんっとうに大きくなったよねーモクバくん。君の身長抜いちゃったんじゃないの?」
「とっくに追い越された。スポーツを趣味にしている奴には敵わない」
「モクバくん、あっちの高校でバスケやってたんだっけ?身長抜かされて悔しい?」
「全く。特に拘りなどないからな。ちなみに今も現役だ。高校の履修課程は全て修了してしまったが、試合が有ればアメリカに行くのだろうな」
「ふーん。大学は?」
「分からん。行くつもりだとは言っていたが」
「そっかぁ。でも、出来れば折角帰って来たんだし、日本に居て欲しいね」
「後はモクバ自身の問題だ。好きにさせる」
「海馬くん、大人になったねぇ」
「どういう意味だ!」
「特に深い意味なんてないよ。でもモクバくん、海馬くんを越しちゃったのかぁ……僕も結構頑張ったんだけど、やっぱり二十歳を過ぎちゃうと身長伸びないんだよね。せめて180は越えたかったなぁ」
「……自分の元を考えもせず無茶を言うな」
「酷いなぁ、もう。でも、こうやって並んでるとあんまり差が無くなったらこれで十分」

 言いながら勝手に眼鏡を取り去ってしまった遊戯は、細心の注意を払いながらそれをテーブルへと置いてしまうと再び顔を寄せて唇へとキスをした。片手で軽く後頭部を押え、最初から舌を伸ばして逃げを打つ相手のそれを捕まえる。湿った口内は吃驚するほど熱くてその全てを思い出す様に深く強く口付ける。

「……んっ……う……っ」

 些か強引な遊戯のやり口に最初は戸惑っていた瀬人だったが、抵抗しても無駄だと言う事は先程嫌と言うほど体感したので、素直に腕を伸ばして縋り付く様に身を寄せて来る相手の背を抱き込んだ。低い単調な音声で流れるニュースを掻き消すような互いの吐息が耳朶を擽り、背筋を震わす。

 余りにも長い行為にいい加減快感よりも苦しさを感じた瀬人が眉を寄せて身動くと、その意味を正確に読み取った遊戯は最後に大きなリップ音を響かせて漸く少し距離を取った。溢れた唾液が肌を伝う感触と、酷く熱くなっている顔を見られるのが嫌で、瀬人は思わず片腕を持ちあげる。しかし、それが目的を果たす事は出来なかった。

 中途半端な位置で掴まれたそれは強引に下ろされ、口の端は相手の親指で拭われてしまう。

「……遊戯っ」
「どうして顔を隠すの?今更なのに」
「……っ、珈琲はどうした」
「持って来た時凄く熱かったから、そろそろ丁度良くなってるかな。海馬くんは相変わらず猫舌なんでしょ。舌、凄く感じ易いもんね。気持ち良かった?」
「煩い、余計な事は言うな!」
「ごめんごめん」

 いい様に弄ばれてる事に不機嫌さを隠せない瀬人は、今度は両手で眼前の肩を押しのける。それにはもう逆らわずに遊戯は少し身を伸ばして自らが持ってきたカップを二つ引き寄せた。そしてその内の一つを取り上げてすっかり拗ねてしまった瀬人の掌に乗せあげる。

「はい、もうからかわないから。これ飲んで」
「信用出来ん。少し離れろ」
「離れたら寒いでしょ?」

 ね?という声にやはり鋭く遊戯を睨めつけたまま、それでも手の中の暖かさに少し苛立ちが緩和されたのか瀬人は僅かに表情を緩めて両手で抱える様にカップを持つ。その姿は酷く大人びた彼にしては妙に幼い仕草だった。勿論、始めて見るものでは無い。

 学生の頃から周囲に仏頂面の鉄面皮と評されていたその白い顔は遊戯の前では面白い程良く変わった。瀬人を知る友人達は「あんな何を考えているか分からない奴と良く付き合えるな」等といつも陰口を叩いていたが、遊戯にとっては彼等よりも瀬人の方が余程分かり易かった。まぁ傍からみれば確かに常に不機嫌そうな顔をしているように見えるが、その実「不機嫌そうな顔」でも種類があるのだ。勿論それは自分だけの秘密であり、他人に懇切丁寧に教えてやる気はない。

 瀬人の事を理解してやれるのは、自分と弟のモクバだけで十分なのだから。

「それにしてもさ……海馬くんは偉いよね」
「……何がだ」
「僕が言った事、ちゃんと覚えていてくれて。その為に色々と努力したりしてさ」
「ああ、同居の事か?」
「うん。正直、僕は君がそんな風にきちんと考えてくれてるなんて思わなかった。『貴様と四六時中一緒にいるなど鬱陶しい!』とかって言ってたしさ……」
「人間、時が経てば考え方も変わってくる。あの頃は本当にそう思っていた。冗談ではないと」
「あはは。僕そんなにしつこかったかなぁ」
「自覚がないとはおめでたい事だな」
「だって、海馬くんを好きになるまではそんな事なかったんだもん。絶対に、どうしても欲しいって思ったのは君が始めてだよ。その気持ちが君に『しつこく』しちゃった原動力だったんだよね」
「……貴様は意外に頑固だったからな」
「そういう君は意外に諦めが良かったね」
「オレは無駄な労力は使わない主義だ」
「最初は散々逃げ回ってた癖に」

 言葉で逃げて、態度で逃げて、けれど最初から本当に腕を振り解く真似はしなかった。手を繋いだままの奇妙な鬼ごっこの様な恋愛は、瀬人に様々な感情の波を呼び起こしたけれど、最終的には懐柔された形となってしまった。直ぐに別れる事になると知った上で、逃げ疲れて、立ち止まってしまったのだ。
 

『そんな事で、僕が諦めると思ってるの?!海馬くんは全然分かってない!』
 

 逃げて逃げて追いつめられて、最後の切り札とばかりに持ち出したアメリカ行きの話をそんな言葉で簡単に跳ね除けて、まるで拘束する様に抱き締められたあの日の事は忘れない。冷たい雪の降りしきる中、互いにコートも着ない学生服姿でずぶ濡れになりながら言い争った。

 後にも先にも遊戯が本気で怒りを露わにし、声を荒げたのはあの瞬間だけだった。当時は身体も小さく頼りない体躯だったが、全身全霊で自分を欲しがるその姿に陥落したと言ってもいい。最早何をどうしようとも、逃れられないと知ったのだ。ならば、いっその事……そう思い瀬人は抱き締めて来る身体を同じ位の強さで抱き返した。

 未来への道を歩む為に。未知の恐怖と不安を抱えながら。

「……もしオレが貴様との約束を反故にし、向こうに永住する事になったらどうするつもりだったのだ」

 何時の間にか空になっていたカップを手放しながら瀬人は何とはなしにそう口にする。そして遊戯の顔を覗き込むと、彼は小さく笑って首を竦めた。

「君が約束を破る事なんてないもの」
「もしもの話だ」
「それは簡単な話だよ。僕もアメリカにいけばいい」
「……貴様以外に心を寄せる相手が出来たとしたら?」
「その人が僕よりも海馬くんを大事に、幸せにしてくれる人なら諦めたかもね。絶対に有り得ないけど」
「凄い自信だな……」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいかなぁ。今だから言える事だし。君が帰ってきてくれた今だから」
「そうなのか?」
「それはそうだよ。僕は君を信じていたけれど、どんなに強く信じていたって物理的に拘束出来るわけじゃないし、日本とアメリカじゃ様子を知る事も出来ないから、何があるかわからない。もしかしたら、僕よりももっといい人に出会って、凄く幸せな思いをしていたらって考えちゃう事だってあったよ。君だってそう思ったでしょ?」

 顔が見えない、声が聞こえない、体温を感じられない、そんな状態で一つの約束だけを信じて待つ事は簡単な事では無かった。不安と寂しさの中で相手に対する恨み事を吐いた事も一度や二度じゃない。下らない意地を通さず、追い駆けていけば良かったと何度思った事だろう。けれど、相手も同じ思いをしていると分かっていたから行動には移さなかった。

 コトリ、と遊戯がカップを置く。同時に伸ばされた指が瀬人の頭を引き寄せる様に抱き込んだ。触れる頬と頬。温かな体温と微かな呼吸さえ聞こえるこの距離が酷く愛おしい。

「長かったよね、5年間……」
「………………」
「でも、もう一緒だね」

 その声に瀬人は答える事が出来なかった。再び唇に触れた柔らかな舌に声ごと掬い取られてしまったからだ。肯定する言葉を紡ぎたいのに首を縦に振る事すらままならない。

 仕方なく、瀬人は目の前の少し大きくなった身体を抱き締めた。

 最初に抱き合ったあの日の様に、力の限り。