Act7 一度だけでいいから(Side.遊戯)

「おい、海馬、一度だけでいい。オレの願いを聞いてくれ!」
「部屋に入るなりいきなり大声を上げてなんだ。鬱陶しい」
「そいつは悪かったが今はそれどころじゃない!……頼む、セックスさせてくれッ!」
「……は?セッ……?」
「このままじゃ絶対城之内くんに負ける気がするんだ、だからヤらせてくれ!!……ぐあっ!!」
「貴様ァー!!昼間っから何を血迷った事を口にしているこの変態がッ!!」
「……変態でもなんでも構わないぜ!……った、モノを投げつけるなよ。これは相棒の頭なんだぜ!」
「知った事か!!涙目で開き直るな!!」
「オレは何も無理を言ってるんじゃないぜ。当然の……」
「たわけっ!有り得ない程無理な話だわ!!誰が貴様となんぞ、否!男となんぞ寝るかボケが!!消滅しろ!!今すぐだ!!」
「キスが出来るんならセックスだって出来るだろう?!」
「次元が違うわ!!死ね!!」
「よーし、じゃあ罰ゲームの命令だ!!」
「断固拒否する!!」

 そうビシッと人差し指を突き付けて声高にオレがそう叫んだ瞬間、ヒュッと風を切る音がして背後で盛大な音を立てて陶器のカップが粉々に砕け散った。次いでビシャリと響く液体が床にぶちまけられた音。海馬の奴、中身入りのカップをオレに投げつけやがった。相棒が火傷をしたらどうするんだ?!相変わらず暴力的だぜ。

 余りに余りな所業にオレはきつく眉を寄せてギッと海馬の奴を睨んでやると、あっちもオレの顔以上に凄まじい形相でこっちを睨んでくる。デカくて顔が整ってる分、その迫力は相当で、流石のオレも無意識に半歩下がってしまった。奴に本気を出されたら力では多分敵わない。

「それ以上下らん事を口にしたらこれで貴様の脳天に穴を開けてやるからそう思え」

 いつの間にか右手に持った投げナイフの代わりにするつもりだろうカッターの刃をチキチキと鳴らしながら、空恐ろしい表情でそう吐き捨てた海馬は心底不愉快そうな顔のまま、勢いよく立ちあがった椅子にゆっくりと腰を下ろす。ギシ、と革張りのそれが大きな音を立て、次いで深い溜息が木霊した。

 ……最近、こいつの溜息の数が増えた気がする。その大半はきっとオレや城之内くんの事に関係があるんだろうが、改めるつもりは今の所ない。心なしか少し疲れた風に見えるその顔を良く見ようとオレが一歩踏み出すと直ぐに「近寄るなッ!」の声が飛んで来た。けれど右手のカッターが飛んでこないから、オレの足は止まらない。
 

『泣かせるならオレが貰う。大事にしねぇんならマジ容赦しねぇからな』
 

 数日前のあの日。珍しく海馬が登校して来た事が嬉しくて、ついしつこくちょっかいを出していたらちょっとした弾みで事故が起きた。移動教室の際二階から三階に続く階段で、段差を利用して不意打ちでキスをしようとしたら、タイミングが合わずにオレの額と海馬の鼻が結構な強さで正面衝突してしまい、海馬を泣かせてしまった。勿論それは痛いからとか悲しいからとかそんな情緒的な問題ではなく、ただの不可抗力だったけれど、どんな理由であれ泣かせた事には変わりがない。

 不味い、と思った時にはもう遅かった。その時には既に相棒に強制的に心の部屋に押し込められ手出しが出来なくなっていて、フォローを入れる事すら出来なかった。悪いのは確かにオレだ、だからそうされても仕方がない。相棒には酷く叱られたし反省もした。けれど、その後の展開には納得が行かなかった。

 相棒から聞いた話だとあの事故があった直後、近くで現場を見ていたらしい城之内くんが海馬を連れて保健室へ連れて行ったと教えてくれた。詳細は良く分からないがまるまる一時限そこで二人で過ごした後、一人で帰って来た城之内くんが相棒にオレに伝える事を前提に告げた言葉が『泣かせるならオレが貰う』の一言だった。

 泣かせるなら。

 実際泣かせてしまった身としては文句を言う事も出来ず、オレはその台詞に関して城之内くんに反論はしていない。けれどだからと言って大人しく聞いていられる言葉でもなく、ある種の危機感を感じたオレは今こうして海馬の元へと駆け付けた。

 城之内くんがやると言ったら絶対だ。うかうかしていると本当に取られてしまうと、そう思ったからだ。

 それにしてもやはり彼は運がいい。あの現場に居合わせなければ、彼の口からあんな台詞が飛び出す事もなかったのだと思うと、自分の不注意さに腹立たしくなる。海馬だって危害を加えて来るような相手よりはさり気なく助けてくれるような人間がいいに決まっている。分かってる。だけどオレはどうしたらいいか分からなくて、結局は自分のやり方で突き進むしか方法はない。

 相棒はこの件に関しては全く手助けをしてくれる気配がなかった。どうやらオレと海馬が関係を持つ事に余り賛成ではないらしい。あの日、城之内くんの言葉に息巻くオレを呆れて見つめながら「まぁ頑張って。でも君のやり方じゃ、海馬くんが可哀想だよ」と呟いたあの声が耳について離れない。
 

 でも仕方がないじゃないか。そうでもしないとオレは海馬を手に入れられない。

 だから……最後の手段として……。
 

「一つ聞きたいのだが。貴様、何をそんなに躍起になっている」

 ふぅ、とまた一つ溜息が吐きだされ、いつの間にか腕組みをした海馬がさっきとは少し違う顔でこちらを見つめる。オレがいつもの余裕を見せていないのが分かったんだろう。僅かに上げられた右の眉が「理由があるのなら言え」と言外に伝えて来る。

 ああ、理由はある。あるけれど、それを口にしてしまうのはどうにもやるせない気がして、オレは反射的に否定してしまう。

「べ、別に、躍起になんてなっていないぜ。そろそろ次の段階に進みたいと、そう思っただけで」
「次の段階?次も何もオレと貴様はまだ何も始まってすらいないのだぞ。なのに何が『次』なのだ。順番を無視するな馬鹿者」
「……じゃあ、城之内くんとは進んだのか?オレとは進まなくても、彼とは」
「凡骨とだと?馬鹿馬鹿しい、妄想も大概にしろ。オレは何度も言っているだろうが、男に興味なぞないと。それに」
「それに、何だよ」
「貴様がこの間言ったのだろうが。『誰にも興味を持つな』と。お望み通り、誰にも興味など持ってないわ。無論貴様にもな」
「ちょ…………」
「よって、貴様の要求はオール却下だ!勝者の要求も今回ばかりは飲めん。分かったらとっととここから出ていけこの色情魔が!!」

 ギリ、とカッターナイフを握り締めてそう叫んだ海馬は、今度こそ取りあう気もないとばかりに顔を背け、乱暴な仕草でステンレス製のそれを机上に叩きつけると、キーボードに手を伸ばした。真剣になった目元と引き結ばれた口元。完全に仕事モードになってしまったその姿に取りつく島はもうない。

 違うぜ海馬。オレはその前にちゃんと言ったろ?『オレを見ろ』って。それは完全に無視なのか。一番重要なのはそこだったんだが!!

 その横顔にそう心で叫んでみても後の祭り。こうなってしまうといかなオレも海馬に手を出す事なんかできない。なにせ凶器が直ぐ傍にある。これ以上の無理は禁物だ。……する気も、なくなってしまったけれど。

『まだ何も始まってはいない』

 そう、確かに、オレ達はまだ何も始まってはいない。オレだけが先に行こうとして足を進めようとするけれど、お前はまだスタートラインにさえ立ってくれない。立ってくれる気があるのかすら分からない。それどころか殆ど同じ位置にいる城之内くんにも呼ばれていて、時折目線を向こうに移している始末だ。何ともならない。

 でもオレは諦めない。諦められない。どんな手段を使っても手に入れたい。けれど、嫌われたくはない。これは結構難しい。

「なぁ、海馬」
「うるさい。絶対にしないぞ。何が一度だけだ。馬鹿も休み休み言え」
「こんなに好きでも駄目か?頭を下げて頼んでも?」
「どうしてもと言うのなら、その気にさせてみればいいだろう。まぁ無理な話だが」
「……えっ?」
「オレは『一度だけ』とか『一生のお願い』という類の言葉は好きではない」
「…………………」
「分かったらとっとと出ていけ!何を呆けているッ!」

 ガシャンと再び床で弾けたペンスタンドを華麗に避けながら、オレは最後に一度だけまじまじと海馬の姿を眺めると、漸く諦めてその顔に背を向けた。けれど、口元は自然と緩む。何か今、とんでもない事を言われた気がする。

 一度という言葉嫌だと言う事は、継続するならいいと言う事なんだろうか?こいつの言っている事は良く分からない。

 良く分からないが、物凄く嫌がられてるという訳じゃない。

「分かったぜ、その気にさせればいいんだな!」
「……何を今更。というかそれが当たり前だろう。貴様は阿呆なのか」
「何とでも言ってくれ。覚悟しろよ、海馬!」
「オレはしつこい男も勝手な男も大嫌いだからな。覚えておけ」
「その点は心配ないぜ!」
「貴様の事を言ってるんだ!おい待て!話を聞け!!」

 お前が出ていけって言ったんだろ。全く勝手なのはどっちなんだ。

 未だ部屋中に響く声で何事かを喚いている声を遮るように扉を締めてしまうと、オレはそれに背を預けて空を睨んだ。今日までは少々卑怯かも知れない手を使ってきたが、今日からは真剣勝負だ。あの海馬が、今の一瞬だけでもこちらをちゃんと見据えていた。このチャンスをむざむざ逃す手はない。城之内くんの猛攻に一瞬怯みはしたけれど、俄然有利なのはオレの方だ。弱気になる事自体、間違いだった。どうかしていた。

 明日からは、本格的に攻める手を考えなければ。

 そう一人決意を新たにしたオレは勢いよく扉から離れると、聊か強い足取りで離れがたいその部屋を後にする。

 その後直ぐにキスの一つ位掠め取っておけば良かったと思ったけれど、それこそ次の機会の楽しみに取って置こうと思い直し、大分軽くなった気持ちで家路についた。
 

 勝負は、これからだ。