君のてのひら

 その薄い身体に手を伸ばしたら、すい、と身を引かれてしまった。それまで比較的柔らかだった表情が急に強張る。勿論僕は抱き締めよう……格好的には僕が海馬くんに抱きつく形なんだけど……という意図を持って手を伸ばしたわけだから、海馬くんが逃げたんだという事が分かって、そんな彼の態度にちょっとだけ悲しくなる。

 抱き締めようとしなくても、海馬くんは僕から触られるのを凄く嫌がる。だから僕達は手だってまともに繋いだ事は無い。そんな事、友達の間でも普通にやる事なのに、恋人な筈の僕達はそれ以下だ。この調子で行くと、キスなんか、夢のまた夢なのかもしれない。
 

 
 

『あの、僕、君の事が好きなんだ』
 

 今年の夏の暑い日に勇気を出して彼に告白した僕は、反応を貰えないまま二ヶ月間待たされて、頬を撫でる風が酷く冷たくなったつい先日、漸くいい意味での返事を聞く事が出来た。それは言葉にすらしない、凄く凄く分かりにくいものだったけれど、僕が「じゃあ、付き合ってくれるって言う事でいいんだよね?」と念を押すと、首を縦に振ってくれたからOKだと思う事にした。
 

 それから僕と海馬くんの関係は、ただのクラスメイトから、一応『恋人』に変化した。
 

 『一応』っていうのは、まだ恋人らしい気持ちの交し合いも行動も、何一つしていなかったから。大体海馬くんから明確な意思表示すら貰っていない状況だから、僕もここからどう先に進んだらいいのか分からなかった。

 けれど彼は僕が会いに行っても嫌な顔はしなかったし、約束をするとちゃんと守ってくれて、電話やメールのやりとりも忙しいはずなのに頻繁にしてくれた。だから少なくても嫌われてはいないはずだった。だけど、ただそれだけだった。今までの事から考えたらそれだけでも奇跡みたいなものだと思わなければいけなかったけれど。……だけど、僕は本当の意味で海馬くんと恋人になりたかったから、このままじゃとてもじゃないけど我慢できなかった。

 そんな事をずっと悩んで、悩み過ぎて体調まで崩してしまった冬も大分深まった日。

 その日は……言ってしまえば今日、今の事なんだけど。今日は珍しく海馬くんも学校に来ていて、前々から彼が学校に来た日は放課後も一緒に過ごす、という事を約束していた僕は、海馬くんの出席日数の不足分を補うレポートが終わるのを静かに待っていた。

 最初はちらほらと居残っていたクラスメイトも、外が段々と夕闇に包まれるのと同時に一人二人と帰って行って、気がついたら教室には僕と海馬くんの二人だけになって、廊下を行き来する生徒や先生の姿も殆どなくなっていた。

 広い教室で二人きり。真剣にレポートに向かう海馬くんのすぐ横で特にする事もなかった僕は、彼が身動きする度にさらりと揺れる栗色の髪や、時折疲れたように瞬きする様子をじっと眺めていた。長い間そうしていたらなんとなく切ない気持ちになって……丁度暖房も切られてしまって少し寒くなった事も相まって、その身体に触れたいと思ってしまった。

 これが普通の恋人だったら、何の躊躇もなく傍に寄って、悪戯に触ったり抱き締めたりが出来るはずなのに、普通の恋人じゃない僕等はそんな簡単な事すら出来なくて。

 勿論海馬くんはそんな僕の気持ちなんかお構いなしにじっと下を向いたままで、黙々と凄いスピードで手を動かしてる。僕と違って海馬くんはすごく頭がいいから、レポートなんて直ぐに終わってしまうんだろうけど、それでも少しでも早く終わらせようと必死になってくれているのが分かる。そういう所は凄く優しいなぁって思うんだ。

 ……そう、思うんだけれど、僕は、そんな優しさよりももっと簡単な一言や一瞬が欲しいと願ってしまう。君に触りたいと思っている僕の気持ちに気付いて欲しい。けれど、こんな風にただ黙って待っていても、きっと君は気付かないだろうから。だから、この時間が終わったら、その気持ちを少しだけ行動に移してみようと思ったんだ。

 そして、それから数十分後。僕がやったら1日掛かりそうな量を直ぐに終えてしまった海馬くんは、無言のまま立ち上がって手にしたレポート用紙を軽く揃えると提出してくる、と言って教室を出て行った。規則正しい綺麗な足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僕は彼が帰って来たら、迷わずさっき思った事を行動に移そうと決意した。

 何も、キスまでしなくてもいい。ほんの少しでも君に触りたい。……そう、思って。
 

 
 

「海馬くん」

 僕から距離を取ろうとした海馬くんが少し後ずさってぶつかってしまった所為で、整然と並べられた机がガタリと大きな音を立てる。海馬くんが教室に帰って来て、机上に置いていたペンケースを片付けた後、「帰ろう」という声を遮る形で、僕は両手をその身体に伸ばそうとした。その途端の出来事だった。

「……どうして逃げるの?」

 小さく息を飲んだ海馬くんの顔を凝視しながら思わず零れ落ちてしまったその言葉は、驚いたように僕を見下ろした彼の顔を更に硬化させる。その表情に僕はますます悲しくなって、伸ばしたまま中途半端に空に留まっていた手を下ろしてしまうと、少しだけ目線を下に下げてしまう。

 ゆうぎ、と上から海馬くんの声が聞こえたけれど、なんだか心が折れてしまって、上を見あげる気にはならなかった。

 僕は普通の恋人同士の様にただ君に触れたいだけなのに、それすらも許されないんだと思うと凄く切なくなる。僕は君の何なんだろう。恋人という呼び名すら与えられないのなら、友達ですらない僕等は本当にただの他人になってしまう。そんなのって寂しすぎる。何時の間にか握り締められていた右手に強く力を込めながら、僕はいつしか唇を噛み締めていた。それが悔しさなのか、悲しさなのか、分からない。

「遊戯」

 俯いて黙ったまま微動だにしないのを気にしてか、海馬くんの声がもう一度僕を呼ぶ。その響きは、さっき見上げた強張った表情からは想像出来ないほど柔らかで、僕は一瞬彼のあの態度は自分が思い込みからそうと錯覚してしまった非現実的なものだったのかと思ってしまう。それほどまでに、僕を呼ぶ彼の声は優しかった。静かで優しくて……少しだけ、切なく聞こえた。

 思わず、俯けていた顔を跳ね上げてしまう程に。

 上を向いた僕の視線と下を見る海馬くんの視線が急にかち合う。まるで音がしそうなほど強く衝突したそれに驚く間もなく、海馬くんは至極真剣な声でこう言った。

「オレは、他人に触られるのが怖い」
「え?」
「他人に触れられると、その後は碌な事にならなかった記憶しかない。だから、嫌なのだ。反射的に身体を引いてしまう」
「……で、でも君はモクバくんと、良く抱き合ったりしてたじゃない!」
「モクバは他人ではないだろう。唯一の、血の繋がった兄弟だ」
「君にとっては、僕も他の人間と同じ他人なの?君に酷いことをする為に手を伸ばすような、そういう人達と同じに見えるの?」
「………………」
「僕は君が好きだよ。好きだからこそ、君を抱き締めたいと思うんだ。君を傷つけるような事は絶対にしない。大事にする。……それでも、駄目?」
「……だが、貴様は他人だろう?」
「うん。僕はモクバくんとは違う。けれど……!」
「信じられないんだ」
「海馬くん」
「他人のいう事など、何も信じられない」

 ほんの数センチの距離を空けてお互いに自分の気持ちを必死に伝え合う僕達は、何時の間にか微かに震えていた。それは徐々に冷えていく空気の所為だけじゃなくて、心の奥底から湧き上がる何かを必死に堪えるような、そんな悲しい震えだった。

 確かに、僕と君は正真正銘の他人だけれど、それだけを理由に遠ざけられてしまうのは余りにも悲しすぎる。海馬くんにとっては事実だけが全てで、僕がどんなに好きだと言い募ってもきっと血の繋がりがないからと容赦なく『他人』カテゴリに放り込まれてしまうんだろう。

 僕は良く知らないけれど、海馬くんがこうなってしまったのはそうなるだけのプロセスがきっとあって。『それ』は少しの努力じゃ払拭されないほど深く大きく彼を傷つけているのだろう事は分かっていた。

 自分ひとりでは癒せない傷をこれ以上痛めないように、彼は他人と距離を取る。そんな自分を見せないように必死になってる。……そんな君をまるごと抱き締めたいんだと言っても、君にはきっと届かないのかもしれない。僕のこの小さな身体じゃ説得力がないのかもしれない。

 けれど、それでも。僕は諦める事なんて出来ないんだ。

 じゃあ、どうすれば。

 長く重い沈黙の中、僕は必死に考えた。他人の言う事は信用しないという君。好きだと言っても所詮は他人の戯言だと聞き入れても貰えない。僕は君の言う他人とは違うんだよ。そう彼に思って貰うには、一体どうしたらいいんだろう。

 それからまた少しの間。僕は一生懸命に頭を捻った。考えて考えて、考え過ぎて知恵熱が出そうなほど熱心に、必死に海馬くんにかける言葉を捜していた。海馬くんもまた、無言のままの僕を何も言わずにじっと見ている。……何か言わなくちゃ、早く答えを出さなくちゃ、そう思って少しだけ焦り始めた瞬間、僕はふと、ある答えをみつけた気がした。

「あのね、海馬くん。じゃあ僕は……君の家族のような存在になりたい」
「……家族?」
「そう。僕達は男同士だから無理だけど、普通恋人って言ったら、将来結婚する可能性もある、そんな関係でしょ?結婚って、他人同士が家族になるって事じゃない?」
「………………」
「僕は、男女で言えば君とそうなりたいんだ。だから、大事にしたい。……そりゃ、僕はこんなだし、全然頼りにならないけど。それでも、今震えてる君を優しく抱き締めることは出来るんだよ?」
「遊戯」
「僕を信じて、としか言えないけれど。でも、絶対に傷つけたりなんかしない。約束するから……」

 だから、君の身体に触れさせて?

 そう強い声で囁いて、両手をあげる。小さく、頼りない二つの手。けれど、この手は君に優しく触れるためだけにここにある。

 かつての君が受けた悲しみの軌跡ごと、全部抱き締めてあげるから。
 

「逃げないで、触れさせて。……海馬くん」
 

 僕の精一杯の思いを込めたその言葉に、海馬くんは少しだけ躊躇した後、恐る恐る……本当にこわごわと、僕に近づいて、そして触れてきた。

 やっぱり少しだけ震えている、細くて大きなその身体を、僕は酷く幸せな気持ちで強く強く抱き締めて、もう一度心の底から……まるで誓いを立てるように、出来るだけ優しい声でこう囁いた。
 

「幸せに、するから」