幸せはこの手の中に

「兄サマ!ただいまーと、お帰りなさいっ!」

 顔を見せた途端足音を立てて走ってくる小さな身体。背負う少し窮屈になっただろう黒い鞄がカタカタと鳴るのも構わず全速力で近づいてきたそれは、途中少々乱雑な仕草で鞄を放り投げ部屋の中央に立ったままの兄、瀬人に思い切り飛びついた。ドン、とぶつかる衝撃に少しも揺らぐ事無くこちらも全身でその身体を受け止めた瀬人は、そのままぎゅっと縋りついて来る存在をしっかりと抱き締めた。ついでその頬に軽くキスをする。

 もう既に見慣れてしまった光景だが、それでも毎日繰り返されるそれに居合わせた来客……遊戯はほんの少しだけ嫉妬を感じずにはいられなかった。「幾ら兄弟と言ったって、それってちょっとスキンシップ過剰じゃないの?」胸の奥底ですねた口調で吐き出されるその言葉を口にした事はないけれど。

「あ、遊戯来てたんだ。いらっしゃい」
「気づくの遅いよモクバくん」
「ごめんごめん。オレお邪魔だね。それじゃあ兄サマ、ここは一旦譲るけど、今日の約束忘れないで欲しいぜぃ」
「ああ、分かっている」
「んじゃ、オレもう行くね。ごゆっくりー」

 あれだけ熱烈な抱擁をして、あまつさえそのままの姿勢で遊戯をいないものとした上であれこれ会話を交わした二人は、そんな言葉で最後を締めると至極あっさりと身体を離し、モクバは来た時とまるで同じ賑やかさで部屋を出て行ってしまう。

 まるで嵐のような一時に毎度の事ながらほぼ呆然としてその光景を見つめるだけだった遊戯は、不意に頭上から降ってきた「何を呆けている。とりあえず座れ」との瀬人の言葉に漸く我に返って、既に定位置となった場所へ腰を下ろした。

 その直ぐ横には勿論瀬人が座り、少し手を伸ばせば簡単にその身体に触れられる。何時もなら遠慮もなしに放置されていようがいまいがそこにある白い指を握ったり、強引に膝の上に乗ろうとまでする無遠慮さがある遊戯だったが、今は何故かそんな気にはなれなかった。ほんの数秒前までその身体は確かにモクバのものだったから。なんとなく、触ってはいけないような気になったのだ。

 少しだけ伸ばしかけた手を何となく引っ込める。それに視線を送る事で気づいた瀬人が、不思議そうな顔で首を傾げた。そのいかにも分からないといった風な顔に、聊かムッとしてしまった遊戯は心の内を素直に表面に出しつつ、口を尖らせて瀬人を見あげる。

「?……どうした」
「海馬くんてさ、本当にモクバくんの事が大事なんだね。……今日の約束って何?」
「何とは?一緒に寝ようというただそれだけだが」
「一緒に寝るの?!えーズルイよ!僕、ちょっと嫉妬しちゃうんだけど!」

 言わずに言おうと思った言葉が、簡単に零れ落ちる。一回二回なら我慢出来る。けれど毎回こんなものを見せ付けられては、気にするなという方が無理なわけで。曲がりなりにも一応『恋人』の地位を獲得している身としては、少し位その権力を発揮してもいいのではないかと思ったのだ。何もするなと言っているのではない、せめて自分の前では少し抑えてくれないだろうか。そう、思って。

「……何を言っている」
「だって毎回じゃん。ぎゅっと抱き合ってキスするとかさ。僕とも滅多にしないのに」
「貴様本気でモクバに嫉妬しているのか?馬鹿馬鹿しい。モクバとオレは兄弟だぞ?貴様と同等になるわけがないだろうが」
「でも!」
「では、貴様は母親からキスをされた事はあるか?」
「え?」
「貴様は一人っ子だろうから、その身に存分に愛情を受けたのだろうな。抱き締められて、キスをして、頭を撫でられたりしたのだろう?」
「う、うん。それはそうだけど。……でもそれと今の話とはどういう関係があるの?」
「オレとモクバのそれも同じ様なものだ。モクバは、母親からそんな行為をされた事はない。父親からも余り覚えがないだろう。母親が死んでからというもの、父親は気を落として余りオレ達に構おうとはしなかったからな」
「……あ」
「オレは、それが不憫だと思うからこそ、せめてもとオレが代わりをしてやっているだけだ。そこに貴様が思うような意味は無い。周囲には少しやりすぎだと言うものもいるが、同じ境遇で無い限りはこの気持ちは分からない」
「ご、ごめん、僕……」
「このオレとて、両親の愛は知っている。何も知らないのは、モクバだけだ」

 だからこそ、精一杯の愛情を注いでやりたいのだと彼は言う。欠落したものは大きすぎて、とても少年一人の力では埋めようがないけれど。それでも、感じないようにさせる事は出来る。それなりの幸せを作る事だって出来る。抱き締めて、キスをして、大好きだと、大切だと言い続ければ少なくても自分と同じ轍は踏まないだろう。否、踏んで欲しくないのだ。あの優しく純粋な弟には。

 そう語るその顔もまた、優しく純粋な事に気付いてはいない。何時の間にか酷く柔和な表情をしてこちらを見下げる白い顔を先程とは違った笑顔で見上げながら、遊戯はまた少し隣に座る彼の事を好きになった。そして、些細な事にくだらない嫉妬をした自分を大きく恥じた。

 瀬人の本当の両親の事は知らないが、きっと至極優しい大きな愛情を持った大人だったのだろう。途中の悲惨な経緯から心に重く暗い心の闇を抱えても、その闇が狂気を孕んでその精神をも犯した後も、こうして弟を抱き締める愛情を失ってはいなかった姿を見れば良く分かる。同じ様な不幸を招かない為にと、惜しみなくその全てを捧げようとするその心は本当の母親以上だ。

 両親の変わりに。

 まるで呪文の様に口にしながら、人よりも早く成長し小さな弟を腕に抱くその身体は大人になりきれていないアンバランスさを見せていて。そのアンバランスさが、身体こそ小さな遊戯には酷く頼りなく見えたのだ。だからこそ、その裏側まで見える位置まで近づいて、間近から覗きこんでしまったのだ。そうして見えたものは、ナリだけは大きい癖に細く脆いその体躯と、高圧的な態度の裏に潜む、優しさや慈しみの心だった。そんなところに、恋をした。

「でも、モクバくんは幸せだよ。普通の親だって、そこまで愛情を注いでくれないもん。僕の母さんなんてさ、二言目にはお小言ばっかり。怒って頭とか叩いたりするんだよ?信じられる?」
「それは貴様が悪さをするからだろう」
「違うよ」
「それでも、いないよりはいい」
「うん、そうだね」
「大切にしろよ。あのジジイ共々な」
「じいちゃんは海馬くんが苛めたんじゃないか」
「そうだな。悪かった」

 あの頃はどうかしていたんだ、と彼は決して言わない。事実から逃げたりもしなかった。憎い相手を殺そうとした事実も、今は命よりも大事にしている弟さえも捨てようとした現実も全てきっちりと受け止めて、まるで贖罪をするが如く時折こうして口にする。遊戯もその事に対してかつてはいろいろな想いを抱いた事もあったが、今ではもう十分に赦していた。けれど、気にしないで、とも言わなかった。そんな過去があっても尚、今こうして共にいる事が大事だと思ったから。

「なんていうか、幸せになりたいね」
「貴様は十分に幸せだろうが」
「そうだけど。皆一緒に。海馬くんも、モクバくんも」
「……そうだな」
「海馬くんには、僕がぎゅっとしてあげるから」
「余計な世話だ」
「酷いなぁもう。ここは素直にうんって言うところだよ」

 言いながら、遊戯はそっと立ち上がり、隣の瀬人へと手を伸ばす。今度は少しも躊躇せずにそれがさも当然の権利とでも言うように、堂々とそして確固たる意思を持って、自分よりも遥かに広い、けれども薄いその肩を抱き締めた。そして、彼が先程モクバにしていたように、頬に小さなキスをする。

 柔らかなその感触に、瀬人が微かに首を竦める。少し揺れたその頭を、優しく撫でる。

 自分のものより大分小さく頼りない手だったが、それが返って遠い記憶の母親を思い出すようで、瀬人は暫くその手に身を任せていた。

 そして、心の中で一人密かにこう思ったのだ。
 

 幸せは、もう十分にここにある、と。