心の隙間

 静寂にカチカチと規則正しい音がする。ベッドサイドに置いている目覚まし時計が時を刻む音だ。どこか遠くの方では、バイクが轟音を立てて走っていく音が聞こえる。

 静かだ。本当に、静か過ぎる。

 そんな事をふと思い遊戯は目を開けてその視界に飛び込んでくる見慣れた天窓の硝子の向こうにある薄雲に覆われた夜の空を見上げた。時刻は深夜2時。目覚めるにはまだ大分早い時間だ。けれど何故か、眠りから放られるようにふっと唐突に目覚めてしまった。意識は驚くほどはっきりしていて、眠気の欠片すら残っていない。

「………………」

 不意に遊戯は同じくベッドサイドに転がっていた携帯を手に取って、何気なく開いた。ぽつぽつと届いていた幾つかのメールを眺め、最後の一つにふと指を止める。『海馬くん』と表示されたそれを暫し見つめ、徐に中を開く。

 そこにあったのは、驚くほど短くそっけない一言だった。けれど、彼にしては珍しく前回のメールと然程間が空いてはいなかった。二日で5通。奇跡的なその数を思うだけで、遊戯は密かに口元を緩めてしまう。気にして貰える。ただそれだけの事がこんなに嬉しいとは思わなかった。

 真夜中に突然訪れてしまった空白の時間。

 メールの返事を返そうか、それとも……してしまおうか。

 そんな事をやや暫く真剣に考えて、やがて彼は何かを決意した様にボタンに手をかけ、携帯を耳に当てた。
 

 
 

「真夜中に、急に目覚めてしまうことがあるんだ。丁度今くらいの時間かな。トイレに行きたいとかそういうんじゃなくって、突然何かに引き寄せられるみたいにふっと目を覚ましちゃう」
「……夢でも見ていたのではないか」
「うーん、どうだろう。見ていた気もするし、見ていなかった気もするし……それはいいんだけど。そういう時間って凄く寂しいんだ」
「寂しい?」
「うん。凄く寂しい。昔もよくそういう時があって、その時は……もう一人の僕が居たから。彼もちゃんと起きてくれて、僕が寂しくないように話しかけてくれたんだ。でも今は……目覚めても一人ぼっちで」
「………………」
「そういう時に、なんていうか……心にぽっかり穴が空いたような、そんな感覚を覚えるんだ。これが当たり前の事なのに、僕にはもう当たり前じゃなくなって……変だよね、こんなの」
 

 あれは、何時の事だっただろう。それほど遠くない過去のある夜の事だった。

 その日は珍しく恋人である海馬が遊戯の家に泊まりに来ていて、海馬邸の広いベッドの半分もない、狭い遊戯のベッドで眠りにつくはずだった。その少し前に常と同じく恋人同士の時間を過ごした二人は、ベッドサイドに放ったままのパジャマを取りに降りるのすら面倒で、結局素肌のままで身を寄せ合っていた。

 行為の余韻で熱くなっていた身体が程よく冷めて、柔らかな羽布団をかけると丁度いい温度になる頃、緩やかに上下する海馬の背にぴたりとくっつく形で、当人が主張するには『抱き締めている』らしい遊戯が、ぽつりとそんな事を言い出したのだ。

 闇遊戯が冥界へと旅立ってしまってから既に半年以上の月日が流れていた。最初の一月は遊戯も海馬もその喪失感にそれぞれの立場から悩み苦しんで、結果的に手を取り合う形で落ち着いた。互いに最初から少し意識をしていて、闇遊戯を通して見詰め合う機会も多かった故に、その距離の縮まり方はあっという間だった。気付けば、何時の間にか傍にいるのが当たり前になった。そんなある意味自然の流れの中で結びついた二人だった。

 彼等の間では闇遊戯は特別な存在で、その名を出す事に未だ僅かな躊躇いがあった。『彼』の事を口にする度に胸の奥底に刺さった見えない棘が、ほんの僅かな痛みを齎すからだ。遊戯はそれを心の隙間だと言った。『彼』が『居た』場所がそのままそこには残されていて、未だ埋まる事無くそこにあり、もしかしたら一生埋まる事等ないかもしれない、と。

 夜中に突然訪れるこの時間もその名残かもしれないと彼は言う。そんな事は絶対にないとは分かっていても、つい心の奥底に意識を向けて、あのぶっきらぼうでも優しい声が聞こえてきやしないかと期待してしまうのだ。そして、その期待は悉く打ち砕かれ、落胆に深い深い溜息を吐いてしまう。その、繰り返しだった。
 

「遊戯」
「分かってるよ。もう一人の僕が笑顔で自分の世界へと還って行ったのをちゃんとこの目で見届けたし、僕の元に千年パズルももうない。だから、もう会えないって事は分かってる。諦めてる。でも、やっぱり寂しいんだ。こうして傍に君が居てくれればそんな事はちっとも感じないけど、一人だと、泣きたくなる」
「……貴様は成長しないな」
「そうだね。成長してないよね。いつになったら僕、一人立ち出来るのかな?」
「当分、無理なのではないか」
「海馬くんが、いつも傍にいてくれたらいいのに」
 

 ぎゅっと目の前の白い背にしがみつく遊戯の丸みを帯びた頬が、海馬の浮き出た肩甲骨に押し付けられる。まるで子供のような柔らかなその感触と同時に感じる熱い体温に、海馬は話の重さとは裏腹に一人薄い笑みを浮かべた。不謹慎な話だが、今この瞬間が彼にとっては例えようも無いほど幸福を感じる時間だった。

 海馬の心にあった隙間は、既にこの暖かな体温で埋め尽くされた。
 もう喪失感に悩まされる事は、彼にはない。

 唯一無二の宿敵だった男がこの世から永遠に消え去ってしまったのは酷く惜しい事ではあったが、その魂を分け合った者がここにはいる。今はその力を余り十分に発揮しているとは言い難いが、いずれは最強の敵として海馬の前に立ち塞がるのだろう。

 初めて、海馬の身体をこの狭いベッドに縫いつけた時の様に。
 外見とは裏腹の圧倒的な内なる意思の力と、予想も付かない斬新な手練手管によって。

 ただ、その事は当分彼には伝えるつもりはなかった。今の所は表面上、同じ痛みを抱えて寄り添い合う形の方が自分達らしいと、そう思ったからだ。悲しみに項垂れて、関係上上の立場であるにも関わらず、まるで甘えるように身を寄せてくるその仕草は海馬の密かなお気に入りでもあったから。

 けれど、今の状態をこのままで放置するのは余りにも人でなしだ。

 そう思った海馬は、苦労して口元の笑みを収めると、少し惜しいと思いつつ遊戯に存分に縋り付かれた背を反転し、彼と向き合う形を取った。突然のその行動に僅かに驚いて身を引こうとするのを許さず、海馬の両手が遊戯の頬を包み込む。

 相変わらず熱い位のそれを暫し指先で味わいながら、彼は面食らったままこちらを見あげるその唇に、触れるだけのキスをした。遊戯が僅かに動いた所為で、ちゅ、と大きな音がする。
 

「か、海馬くんっ?!と、突然何?!」
「もし夜中にそういう時が訪れたなら、消えてしまった奴の声を探すような無駄な真似はせずに、オレの声を聞け」
「……え?」
「貴様の携帯は、なんの為にあるんだ。文明の利器を大いに活用しなくてどうする」
「ぶ、文明の利器って……え、だ、だって。夜中に電話して、海馬くんが眠ってたら凄く迷惑じゃない?そんな事出来ないよ!」
「オレとしては夜中に叩き起こされるより、貴様にめそめそされる方が迷惑だ。鬱陶しい」
「……め、めそめそなんてしてないよ。そりゃ、泣きたくなるとは言ったけど」
「『遊戯』も夜中は付き合ってくれたのだろう?奴には出来て、オレには出来ないのか」
「……海馬くん」
「成長したいんだろう?ならば、そんな些細な事で悩んだりはしない事だな」
「うん」
「貴様の心は最初から貴様だけのものだ。間借りした奴の場所などさっさと埋めてしまえ」
 

 そう言って、海馬はもう一度近い距離にあるままだった唇を重ね合わせた。それはいつも遊戯が彼にする、熱をあげるためにするものとは違う、酷く優しいキスだった。

 その瞬間から、遊戯の中で夜に訪れる空白の時間は憂鬱なものではなくなった。

 例え、彼が傍に居なくても。
 

 
 

「あ、海馬くん?突然ごめんね。今、眠ってた?」
『貴様は阿呆か。オレは地球の真裏にいるんだぞ。今は丁度太陽が真上にある時刻だ』
「あはは、そっか。こっちはね、今夜中の二時だよ。すっごく静か」
『またそんな時間に起きたのか。貴様も暇な奴だな』
「あ、酷いなぁその言い方。明日も学校だから困るんだよね、早く寝ないと」
『だったらこんな電話などせずにさっさと寝ろ。遅刻するぞ』
「母さんみたいな事言わないでよ。海馬くんが電話しろって言ったんじゃない」
『そうだな』
「ねぇ、何時帰って来るの?そろそろ寂しいんだけど」
『そのうち帰る』
「早く帰って来てね。じゃないと浮気しちゃうよ」
『そうか、それは困るな』
「困るんだ?」
『ああ、困る』
「じゃあ、我慢するから。本当に早く帰って来てね」
『分かった。約束する』
 

 
 

 パチンと携帯を閉じると、室内に再び暗闇と静寂が訪れた。
 

 少し前まではこの時間が酷く憂鬱で、言い知れない寂しさや悲しみに押しつぶされそうになったけれど、今はもうそんな事は無くなった。全ては電話の向こうで特に愛想もない声で相手をしてくれた海馬のお陰で、その何の飾り気も無い優しさが『彼』が消えた喪失感を少しずつ忘れさせてくれたのだ。

 決して、全てを乗り越えたわけではなく、この心の奥底にはまだ僅かに『彼』がいた場所が残されてはいるけれど。そこはもう、隙間ではない。暖かな温度を持った優しい記憶に満たされている。何時の間にか地球の裏側にいる彼が変えてくれた。悲しいばかりだったその思いの形を変えて持ち続けていられるようにしてくれたのだ。

 だから、もうこの時間は寂しくも怖くも無い。聞こえない声に落胆する事もあり得ない。手を伸ばして、ボタンを一つ押せば違う声が応えてくれる。約束を、してくれる。

 そんな事を思いながら、遊戯はもう一度眠りの世界に旅立つ為に瞳を閉じた。少し前までは耳に痛いと思っていたこの静けさも、時計の音も、今では心地よい眠りに引き込んでくれた。
 

 その後、遊戯は短い夢を見た。
 

 光の中に去っていく『彼』の背。その凛とした後ろ姿が扉の中へと消え去ったその後に、そこに海馬がいつものあの表情で立ち尽くしていた。そして……小さく手を差し伸べた。その手に自らの指先が触れた瞬間、胸が苦しくなる気がした。満たされている、そう、感じた。
 

 その日以来、遊戯が夜中に目を覚ます事は無くなった。
 

 埋められた、心の隙間。
 

 けれど、それは決して……決別ではない。