可愛い人

 プシュ、と大きな音がして、細い指先がアルミのプルトップを引き開ける。そしてすぐに傾けられる80円の缶コーヒー。こくりと微かに上下する学ランの襟に隠された喉元を何とは無しに見上げていたら、不意に声が降ってきた。

「……欲しいのか?」
「えっ?!あ、ううん」
「やる。飲め」
「えぇ?!い、いいよ別に。海馬くん、最後まで飲みなよ」
「オレはもういい。こんなもの一本飲んだら気持ち悪くなるわ」
「学校の自販機だもん。高級豆とはいかないでしょ。80円だよ?」
「だからやると言っている。貴様が飲まないのなら捨てる」
「そんな勿体無い事するんならちょうだい」
「ほら」
「……ありがと」

 僕、そんなに物欲しそうな目で見てたかな。そうこっそりと心の中で嘆息して、遊戯は親切にも持ち上げようとした掌の中にしっかりと握らせる形で差し出された缶コーヒーを受け取って、両手で優しく包み込む。買ったばかりのそれは未だかなりの温度を保っていて、熱い位だ。

 よく考えたらこれって間接キスだね。そんな海馬の一挙手一投足をじっと見つめつつ、少しおどけた風に笑うまだ少し幼さの残る顔は、その言葉とは裏腹にほんの少しだけ曇った表情をしていた。その事に先程からしっかりと気付いていた海馬は分からない程度に片眉をあげる。

 大分遅くなった人気のない放課後の、昇降口脇の狭い自販機コーナーの一角。海馬の課題提出の為に職員室へと赴いていた二人は、その帰りに何気なく見かけたこの場所へと立ち寄った。

「うわ、これまだ凄く熱いじゃん。海馬くん猫舌なのに良く飲めたね」
「火傷した。舌先が痛い」
「えぇ?大丈夫?……顔に出してよ!」
「まぁいつもの事だ」
「学習して。お願いだから」
「いちいち煩いな」
「だって海馬くん毎回なんだもん。……でも、そういう所がらしいなぁ、っても思うけどさ」
「悪かったな学習機能がなくて」

 ふん、と小さく鼻を鳴らすと、海馬は少し面白くなさそうな顔でそっぽを向く。その仕草は全体的に大人びて見える彼にはそぐわない子供っぽいものだったが、そんな所がむしろ可愛くて好きだ、と常に人から「可愛い」と言われ続ける遊戯は思う。

 可愛い。

 その短い形容詞は、かなりの割合で褒める意味合いが大半を占めている。だからそれを口にする人間には悪意など欠片もないのだろう。それは良く知っている。けれど、遊戯は自らを形容する言葉としてのそれがとてつもなく嫌いだった。男なのに。もう17にもなるのに。可愛いって酷すぎる。それを女子に言われた日には丸一日落ち込んでしまうほど傷ついているのだ。こっそりと。

 今日もまたそうだった。体育の時間、他愛もないミスをした遊戯に投げ付けられたのは「遊戯らしくて可愛い」の容赦ない言葉の礫で。それが、身長を要するバスケの試合での事だったから尚更深く落ち込んだのだ。それが今の遊戯の曇り顔に繋がっている。勿論そんな事は誰にも言えないけれど。

「結構美味しかったよ。ごちそう様」
「貸せ。捨ててやる」
「あ、ありがと」

 こくりと最後の一口まで飲み干して、缶がすっかり空になった瞬間、すかさず横から手が伸びて来て、遊戯の目の前に差し出される。白い、大きな手。男にしては綺麗な形をしている長い指を見ていると、缶を握り締める自分の指先がいかにも幼いような気がして、気恥ずかしさを感じてしまう。

 先程、海馬の事をじっと見ていたのは、勿論彼が飲んでいた缶コーヒーが欲しかったわけではなく、眼前にあるこの手に、その容姿に、ただひたすら羨望していたからだ。

(海馬くんはいいなぁ。誰から見たって男らしいし。かっこいいし)

 遊戯が「可愛い」といわれて落ち込んでいる時、決まって思うのはこんな事だ。そんなつもりはなくてもついつい一番身近にいる男として比べてしまう。同い年でクラスメイト、更に言えば恋人でもある彼とその横に並ぶ自分の身長差を始めとする全ての事柄を比較する度に、遊戯の落ち込みは酷くなっていく。

 こればかりは持って生まれたものだから足掻いてもどうにもならないし、憂いたところで何が変わるわけでもないのだが。だからと言って、簡単に割り切る事が出来る筈もない。

「何をしている。早く寄越せ」

 数秒後、そんな事を考えていた遊戯の上に、海馬の不機嫌な声が降ってくる。何時まで経っても差し出した手に缶を渡さず、じっとそれを凝視している遊戯に焦れたらしい。貴様、さっきからなんだ?間髪入れずに紡がれた言葉に、遊戯はついにこの態度に対する理由を口にしてしまう。

「海馬くんはいいよね」
「?……何がいいんだ?」
「背も高いし、かっこいいしさ。手もこんなに大きいし、指も長いし」
「何を言っている」
「今日のバスケの試合だってさ、海馬くん苦労しないでダンクシュートまで決めたじゃない。ボールを片手で掴める人に僕みたいなチビがいっくら頑張ったって勝てるわけ無いよ」
「急になんだ?先程から変だと思っていたが、貴様もしやそんな事で拗ねていたのか」
「そんな事って!僕にはすっごく重要な事なんだよ?!本気で落ち込んでるんだから!」

 いかにも「今更何を下らない事を」と一蹴する勢いで、溜息まで吐きつつそう応えた海馬に、遊戯は思わず声を荒げてしまう。

 この気持ちは海馬くんの様な人には絶対に分からない。僕がこんなに真剣に悩んでいるのに、下らないなんて酷すぎる。恋人なんだから、もうちょっと気にかけてくれてもいいんじゃないの?大体君は恥ずかしくないの?僕みたいな男と付き合って、恋人です、なんて顔されて。

 未だ心底呆れた表情でそれでもやけに整ったその顔を見上げながら、遊戯はついそんな所まで考えてしまって、自分で自分の心を傷つけてしまう。

 違う、そうじゃない。そんな事を言いたい訳じゃないのに。僕はただ、自分がなんとなく情けなくて。……申し訳なくて。急に感じたそれを、どう伝えたらいいか分からなくて。

 どんどんとマイナス思考の深みに嵌って行く遊戯は、ついに何も言えなくなってしまう。

 そんな彼の事を相変わらずつまらなそうな顔で見つめていた海馬は、ふうっと今までとは別種の溜息を吐くと、肩を竦めそうな勢いでこう言った。

「貴様のような体形で、何か不都合があるのか?生きていく上で」
「え……っ?い、生きていく上で?」
「ああ」
「そ、そう言われると、別にそんな事は無いような気が……するけど」
「ならば何故そんな事を言う」
「何故って。……なんか、情けなくなっちゃったから」
「今日の試合でボールを弾いたり、シュートを外したり、無様に転んだりしたからか」
「うぅっ……傷を抉るような事言わないでよ。ついでに言えば、それを見た女子に『可愛い』ってからかわれて……」
「なんだそんな事か」
「だからなんだって言う言い方はないでしょ!大体、海馬くんは恥かしいと思わないの?!」
「恥かしい?何が」
「僕みたいなのと一緒にいて、恋人です、なんて言わなくちゃなんなくて!」

 そりゃ、実際やる事やってるから恋人なのは間違いないけど、でも!

 殆ど叫ぶように言いながら興奮の余り手にした缶をぐしゃりと握り潰して、僅かに残っていた冷たい珈琲が遊戯の小さな手を汚す。ポタポタと音もなく垂れ落ちる雫を無感動に感じながら、遊戯はついに海馬を見あげる事をやめてしまった。

 だから、彼は気付かなかったのだ。

 たった今吐き出されたその言葉に、一瞬ではあったが海馬が酷く傷ついた顔をしたのを。
 

「遊戯」
 

 ほんの少しの沈黙の後、狭い空間に海馬の声が響いた。特に感情の起伏もない、普通の声。それでも、遊戯は顔をあげる事が出来なかった。自分が勢い任せに口にしてしまった事が余りにも大きく胸に響いて、痛みさえ感じたからだ。

 それでも、しつこく海馬は遊戯を呼ぶ。その声が段々苛立ちを含んでくる。この調子で行ってしまえば、しまいには「貴様いい加減にしろ!」と怒鳴り声が飛んでくるのだろう。それでもいい。むしろ、その方がいい。どうしようもなく卑屈で情けない自分を自分でさえ持て余しているのだ。いっその事見限ってくれた方が気が楽だ。そうすればいらないコンプレックスを感じる事はない。この気持ちだって楽になれるのに。

 心の奥底ではそんな事など微塵も思っていないのに、今の遊戯の頭にはそんな絶望的な気持ちだけが渦巻いていた。あのバスケの授業の時、可愛い!と女子グループが一斉に騒いだ後に、まるで駄目押しのように杏子から言われた「海馬くんを見てみなさいよ」という言葉。そんな些細な一言が深く深く胸に突き刺さったのだ。

 それはまるで「あんたと海馬くんじゃ正反対よ」と言われている様で、分かっていた事だからこそ、余計に傷ついたのだ。そして、悩んでしまった。そう、今更。

 何度呼ばれても返事もせず顔を上げない自分を海馬はどう思うだろう。激怒するだろうか。それとも心底呆れ果てて、もう付き合い切れないと投げ出してしまうだろうか。

 甘いコーヒーの香りが鼻につく。なんだか、馬鹿みたいだ。情けない上に馬鹿なんて、どうしようも無さ過ぎる。もう消えてしまいたい。そう勝手に遊戯が絶望の頂点に立とうとしたその時だった。

 ふわりと、緩やかな風の流れと共に、目の前を何かが過ぎる。それが何かと疑問に思う前に、両頬に刺すような冷たさを感じた。思わず、声を上げてしまうような。

「つめたっ!何?!」
「見てわからんか。オレの指だ」
「そ、それは分かるけど、突然何やってるの?!」
「そんなに冷たいか」
「冷たいよ!海馬くん体温低すぎ!そういえばここ殆ど外じゃん。風邪引いちゃうよ!ああもう」

 いきなり両頬を襲った氷のような指先に心底驚いた遊戯は、慌ててコーヒーで汚れていない左手を持ちあげると、自分の頬を包むように触れている海馬の手を片方擦ってやる。人よりも大分高い体温であると自覚している遊戯は、その暖かさを分けてやろうと懸命にその行為を繰り返した。小さくて丸みを帯びた短い指先ではとても大きな彼の手全体を包む事は出来ないけれど、それでも触れられた頬の熱さも手伝って、徐々に感じる冷たさは和らいでいく。

 どの位そうしていただろう、何時の間にか無言でそれに没頭していた遊戯の元に、くすりと小さな笑み付きで、優しい声が落ちてきた。

「これで分かっただろう。大きければいいというものではない」
「……え?」
「貴様が無駄に羨んでいるこの身体も、手も、暖かさという点では貴様に劣っていると言っているのだ」
「………………」
「さっきの試合でもそうだ。確かにオレは手足が長い分有利な面があるかもしれないが、逆に貴様のような輩にちょこまかされると動きにくい。ボールも奪い辛いしな」
「あの、海馬くん」
「貴様はさっきから下らん事ばかりほざいているが、勝手に人の気持ちを決め付けないで貰おうか。誰がいつ貴様といる事に恥を感じたと言った。そんな気持ちがあるならそもそも最初の時点から相手にしていないわ。オレはそこまで暇人でも変人でもない」
「へ、変人って!そこまで言わなくても……!」
「好きだから、共にいる。それに何か文句があるのか」
「…………っ」
「身体の大小や、頭の中身、顔の造形よりも、その感情の方がずっとオレには重要だと思うがな」
「か、海馬くん」
「貴様は違うのか?遊戯」

 頬を包む指先にほんの少しだけ力を込めて、僅かに身を屈めて目線を合わせるように上体を傾けた海馬は、安っぽい蛍光灯の明かりに瞳を輝かせながらそんな事をさらりという。その様はまるで母親が幼い子供に言い聞かせているような、なんとも気恥ずかしいものだったが、遊戯はもうその事に対してマイナスの感情を抱く事はなかった。
 

 ああ、そうか。そうだよね。僕の子供っぽい小さな手だって、君の身体を温めてあげる事はできるんだもの。

 既に同じ温度になった頬にある指先を握り締めて、遊戯は小さく、本当に小さく頷いて、「ごめんね」と呟いた。
 

「僕も、同じだよ、海馬くん」
「ならば、機嫌を直すか?」
「うん、直す。もう変な事考えないよ」
「下らん事を気にするな。恋愛とは、互いの足りないところを補い合うものだ。貴様にないものは全てオレが備えているから大丈夫だ」
「……なにそれ。それって僕が足りないところだらけみたいじゃん」
「違うのか?」
「そうだけど。……あ、でも掌だけは僕の勝ちかな。ほら、ね?あったかくて気持ちいいでしょ」
「まぁな。可愛らしいしな」
「その言葉は言わないでよ。わざと言ってるでしょ。大体ね、僕からしたら海馬くんの方がずーっと可愛いんだからね!猫舌で、寝起きが悪くて、寝相も悪い癖に!」
「フン。貴様は言葉の使い方を間違えているのではないか?というか、貴様はさっきオレの事を格好いいと言ってただろうが」
「それはそれ、これはこれだよ」
「訳がわからん」
「どっちにしても、大好きだけどね」
「そうか」
「本当だよ?」
「分かっている」
「本当、だからね?」

 そんな事を何度も何度も言い聞かせるように言わなくても、君の手に触れているこの掌で、ついでに寄せた唇で、全部分かっているんだろうけど。僕は何度でも言いたいんだ。
 

 人からいつも可愛いと言われる僕が、一番可愛いと思う君に。
 

 好きだよ、って。