世界で一番大事な君へ

「っもう!海馬くんは仕事と僕と、どっちが大事なのさ!」
「貴様はどうなのだ」
「えっ」
「貴様は、貴様の周囲にいる人間とオレと、どちらが重要だと思っている」
「……そ、そんなの決まってるじゃん。僕をより大事に想ってくれる方だよ!」
「より大事に?……ふん、そうか。ならば出ていけ」
「えぇ?」
「出て行けと言っているのが聞こえないのか。摘まみ出すぞ」
「な、なんだよそれ?!海馬くんの馬鹿ッ!」
「馬鹿で結構、いいから出ていけ!」

 そう言うが早いが海馬は勢いよく席を立ち、ずかずかと普段よりも大分荒々しい足取りでソファーの上で憤慨する遊戯の首根っこを掴みあげると、傍に落ちていた鞄ごと本当に部屋から摘まみ出してしまった。ガチャリと丁寧にも鍵がかけられる音に、遊戯は愕然とした後に強い怒りで一杯になる。

 何故、自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか。この場で絶対的に悪いのは海馬の方ではないのか。そう心の中で憤慨し、口にも出して閉ざされたドアをドンドンと叩いてみたが、重厚な扉の向こうから聞こえてくるのは「煩い!」の怒鳴り声のみ。全く取りつく島もない。

 仕方なく遊戯はその日はそのまま家に帰らざるを得なかった。帰り際、モクバとすれ違い「今日は泊まって行くのかよ?夕飯、何がいい?」と聞かれたが、ぽつりと「喧嘩しちゃったから当分来ないよ」と言い捨て、目を丸くする彼の前をさっさと通り過ぎて来てしまった。

 足取りが重い。気分も重い。のろのろと広い邸内を歩きながら、遊戯は大きな溜息を一つ吐く。

 その実、二人が本気で喧嘩をする事など初めてだった。元々喧嘩の類が嫌いな遊戯は少々腹が立つ事があっても大抵は笑顔で流す事が出来たし、海馬も闇遊戯や城之内と喧嘩する事は多々あったが、遊戯には極力優しく接しようと努力しているのか、他の人間よりも大分柔和に接してくれていた。それはモクバに言わせれば「オレと同じレベルの扱いだぜぃ!」との事なので殊更大事にされていると思っていいだろう。

 そんな二人だったから、性格の違いから来る多少の言い争いはあったものの、互いに声を荒げるよう事態になったのはこれが初めてだったのだ。

 何がそんなに気に障ったんだろう。大体、先に僕をイライラさせたのは海馬くんじゃん。今日は珍しく仕事が片づいたから家に泊まっていけって言ってくれてさ。僕もそのつもりで昨日の夜から楽しみにしてて、今まで余り出来なかったゲームとかデュエルを一杯しようと思っていたのに。それなのに……。

 むぅ、と自然に口元をへの字に曲げて遊戯は心の中でそうごちる。本当に彼は今日と言う日を楽しみにしていたのだ。ここ最近海馬の忙しさも相まって殆ど会う事すらままならなかったから余計に嬉しくて、必要以上に期待してしまった。時間は限られている筈なのに、あれもしようこれもしようと計画は膨らむばかり。最後には訳が分からなくなって、まぁ海馬くんと一緒に過ごせるなら何でもいいや、とごくごく単純で些細なものに戻ってしまったのだけれど。

 それなのに、そんな遊戯を待っていたのは「急な仕事が入った」と素っ気なく言い放ち、そのまま仕事モードに突入してしまったつれない恋人で、仕方なく終わるまで待ちながら、仕事の邪魔にならない程度に最近の己の事を小声で報告などしていたのだが、それが耳障りだったのか、はたまた内容に問題があったのか、「煩い」と急に遊戯の声を撥ねつけたので、遊戯は思わず言ってしまったのだ。
 

『仕事と僕と、どっちが大事なのさ!』と。
 

「だってそうじゃん。毎日毎日仕事仕事。学校よりも仕事が大事。それどころか自分の身体よりも仕事優先なんだもん。僕なんか、その中でも一番下の方なんだ、きっと」

 夕闇に独り言か虚しく消える。いつの間にか遊戯は海馬邸を抜け出て、暗い夕暮れの中にいた。頭上を「もうお帰りですか?」とか「瀬人様は?」と通り過ぎる声が聞こえた気がするが全部無視して来てしまった。

 二番目の瀬人様、と言うのは遊戯が海馬邸にやって来て(または滞在して)帰る際、海馬は門の外まで付き添って見送ってくれた。来る時は一人で通る玄関扉も帰りは必ず二人だった。なのに今日は遊戯一人が出て行こうとしたから不思議に思ったのだろう。そう言えば、こんな事も初めてだ。

「海馬くんの馬鹿!ワガママ、短気、意地っ張り!」

 ふと、そんな言葉が零れ落ちる。そして最後に、でも好きなんだ、と呟いた。

 例え君が僕より仕事を大事にしてたとしても、僕はやっぱり君が好きで。でもいつも仕事に君を取られてばかりじゃ悔しいからついあんな事を言ってしまった。どっちが、と比べるのは多分次元が違うのだから難しいだろう。でも、それでもたった一言言って欲しかったのだ。
 

 「勿論お前の事の方が大事に決まっている」、と。
 

『相棒』

 そんな事を考えながら暫く無言で歩いていると、不意に心の中の住人が話しかけてきた。その実彼は遊戯と海馬の話をずっとそばで聞いていて(遊戯が一人で退屈を持て余していたのを知って、こっそりを相手をしてくれていた)事の成り行きをずっと見守っていたのだ。

 それでもここまで余計な事を言わずにいたのは一重に彼の優しさなのだろう。その彼が漸く遊戯の名を呼び、隣に立つ。勿論その姿は遊戯にしか見えないので遊戯はすれ違う通行人に不審に思われないように注意しながら、こっそりと答えを返す。

「なぁに、もう一人の僕」
『海馬との事なんだが、アレは半分、相棒が悪いと思うぜ』
「どうして?君、いつから海馬くんの味方になったのさ」
『そうじゃない。オレは客観的な事実を言ってるんだ』
「客観的な事実?……僕が海馬くんに何かしちゃったって言うの?僕の所為?」
『そんな事も言っていない。少し落ち着けよ』
「だって、君も海馬くんの肩を持つんだもん。面白いわけないでしょ。君、もしかして海馬くんの事好きなの?」
『なんでそうなるんだ。……あのな、相棒。相棒は仕事をしていた海馬にずっと何の話をしていた?』
「なんのって。別に普通の話だよ。学校の事とか、城之内くん達と遊んだ事、君と色々やった事、杏子と映画に行った事」
『……ああ、そうだな。「恋人の前で」そんな話をしてたんだぞ、相棒は』
「それがどうかしたの?何かマズイ?」
『マズイも何も、相手は仕事仕事で滅多に相棒とさえ会えない状態なんだぞ。楽しそうにそんな事を話す相棒の声を聞いてどう思ったと思う?』
「どうって……?」
『オレだったら、ちょっと悲しくなるけどな。恋人が他人と仲良く楽しんでいる話を聞いて、嬉しい奴がいるか?相棒だったらどうだ?海馬がモクバや他の誰かと楽しく休日を過ごした事を報告されたらどう思う』
「あ」
『海馬だって人間だぜ。嫉妬の一つや二つはするんじゃないのか』

 やれやれ、と肩を竦めながら『遊戯』はぽん、と質量の無い手で遊戯の肩を叩いた。それを視覚で感じた遊戯は今度こそ深く強く落ち込んだ。

 そうだ。そうだったのだ。殆ど考えなしにしていた行為だったが、言われてみればそれは相手を傷つけるものだったのかもしれない。
 

『この間家族で温泉に行ったんだ。もう一人の僕はね、温泉が初めてで、僕が寝てる間もずーっと館内の温泉巡りをしてたんだよ。そういう所凄く可愛いよね』

『一昨日の放課後、杏子と映画に行ったんだ。コメディだったんだけどね、すっごくつまらなくて。それが逆に面白くなっちゃってさ。結局最後までみちゃったんだ。杏子は途中からつまんない!って怒ったんだけどさ』
 

 生真面目な顔でキーボードに向かう海馬に次々と話して聞かせたそんな日常。遊戯としては「君が仕事で忙しくても僕は退屈をしていないから大丈夫。だから気にしないで」という意味で殊更面白く語って聞かせたのだが、それが海馬にとっては「自分が相手をしなくても遊戯は十分に楽しんでいる」という意味になってしまったのだ。

 だからなのか。『どちらが大事?』というその問いに、同じような問いで打ち返してきたのは。
 

『貴様は、貴様の周囲にいる人間とオレと、どちらが重要だと思っている』
 

 ── 勿論君だよ。
 

 本当はそう答えてあげなければいけなかったのに、そう答えて欲しかったのだろうに。『僕をより大事に想ってくれる方』だなんて言ってしまった。それまで蓄積されたイライラをほんの少し晴らす為だけに口にしてしまった当てこすり。その一言に、彼は何を思ったのだろう。

 誰よりも大事にして貰っていた筈なのに。

 多分そういうマメな事は嫌いな海馬が一日一回はメールをくれた。忙しい合間を縫ってやっと取れた休日には、疲れているだろうにちゃんと遊戯を呼んでくれた。好きな物を用意して、極力短気を起こさないようにして、帰る時はちゃんと門まで送ってくれた。鬱陶しい雨の日でも、寒い雪の日でも、必ず。

「……僕、帰らなくちゃ」

 俯いていた顔を勢いよく跳ねあげ、遊戯は誰に言うともなくそう言った。同時にくるりと踵を返し、勢いよく走りだす。その様をどこか満足気に眺めながら『遊戯』は口元に笑みを浮かべてこう尋ねてくる。

『どこにだ?家にか?』
「違うよ。海馬くんの所。ごめんねって謝るんだ」
『あいつ凄く怒ってたぜ。門前払いを食らったらどうするんだ』
「大丈夫。幾つか抜け道知ってるから。なんとしても海馬くんの所に辿り着いて、許してくれるまで頭を下げるよ」
『そうか。まぁ、頑張れよ』
「うん!」
『もっとも、その必要はないみたいだけどな』
「え?」

 そう言って、隣の『遊戯』がクッ、と笑ったその時だった。不意に前方にある十字路の陰から長い影が伸びて来て、若干早い足音が聞こえてくる。このまま進んでしまったら間違いなく衝突してしまうと思った遊戯は寸での所で立ち止まり、その影が過ぎて行くのを待っていた。が、次の瞬間彼は無意識に駆け出してしまう事になる。

 何故ならその長い影と足音の正体は、今まさに遊戯が許しを乞う為に会いに行こうとしていた海馬本人だったからだ。

「海馬くん!」

 濃い闇に紛れて余り良くは見えないだろう遊戯の事を、海馬はすぐに見つけ、速足で駆け寄ってくる。常に変化のない表情には若干焦りの色が見え、普段は息一つ乱す事のない身体は肩で呼吸をする程疲弊しているようだった。恐らく、屋敷からここまで自分の足でやって来たのだろう。どうして車で追って来ないの?こちらに近づき、急に緩い速度になった細い脚を眺めながら遊戯は思わずその身体に抱きついた。弾き飛ばされるのも覚悟の上で。

「遊戯」
「ごめん、ごめんね。僕、君に酷い事しちゃったよね?本当に……ごめんなさい!」

 ぎゅ、と海馬の身体を掴んだ両手に力を込めながら、相手に言葉を紡ぐ隙を与えずただひたすらにそう口にする。怒ってる?なんて確認する気はなかった。そう聞くと彼は必ず「そんな事はない」と答えてくれるのを知っているから。本当は怒っている筈なのにそれをぐっと飲み込んで、ほんの少し顔を歪める程度で我慢してくれているのを知っているから。

「遊戯」
「さっきの言葉だけど、訂正する。僕は、君が一番大事だよ。だって、君が一番僕の事を大事にしてくれるから」
「…………………」
「今だってほら、こんなに息を切らしてる。追いかけて来てくれたんでしょ?」
「っ違う!オレはただ、貴様に文句が言い足りなくて……」
「うん」
「それに…っ、モクバが行けと言うから!」
「ありがとう」
「……れ、礼を言われる筋合いなどこれっぽっちもないわ!」
「じゃあ、ごめんね?許してくれる?」
「……言葉だけでは許してやらん」
「そっか。じゃあ態度で示すから、ちょっとだけ協力してくれる?」
「何故オレが協力しなければならないんだ」
「だって、よく考えたらさ、海馬くんだって僕の質問に答えないではぐらかしたじゃん。ちょっとほったらかしにされたし、僕が全部悪いってわけでもないよね?」
「……貴様、最近したたかになって来たぞ」
「君の恋人だもの。そうじゃないとやっていけないよ」
「そうか」
「そうだよ」

 だから、ね?

 そう言って遊戯は海馬の身体を掴んでいた両手をゆるりとあげる。少し高い位置にあるその頬に触れる為に。大きな謝罪の気持ちと最大限の愛を込めてその唇にキスをする為に。
 

 そしてその耳に、大好きだよ、と囁く為に。
 
 仲直りは、たった一つのキスで終わる。
 

 唇を離したらすぐに家に帰ろう。そして今の言葉が、気持ちが、嘘じゃない事を身体全部で伝えて見せる。
 

 誰よりも僕を大事にしてくれる、世界で一番大事な君へ。
 

「ごめんね。大好きだよ」