キオクノサクラ

「僕の死んだばーちゃんのね、口癖だったんだ。『桜は毎年見ていないと死んだ時に後悔する』って。だから僕は一年に一回はここの桜を見に来るんだよ」
「……それはいいのだが、何故オレを付き合わせる」
「え、だって。海馬くんにも見て貰いたかったから。もしも来年の桜が咲く前に死んじゃったら後悔するでしょ」
「勝手に殺すな」
「もしもの話だよ。僕だって、海馬くんだって絶対って保証ないじゃん。明日事故で死んじゃうかもしれないんだよ?」
「貴様、縁起の悪い事を言うなと言っている」
「ごめんごめん。でも、もう一人の僕がそうだったから」
「何?」
「今年も一緒に桜を見ようねって言ったのに。もう、見れないからさ」
「………………」

 そう言って、遊戯は少し寂しそうに満開に咲き誇る桜の木を眺めていた。

 つい先日開花宣言をしたばかりの筈なのに連日の最高気温更新に、常よりも大分速いペースで咲いてしまったそれは、後2日程すれば散り始める予定だ。そこに来て明日の天気は大雨との予報が出た。だから今日でないと満開の桜を拝む事が出来ないと踏んだ遊戯は、偶然学校に来た海馬を連れて、夕刻、近所の川縁にある桜並木を歩いていた。

 雲間を縫って柔らかに輝いているやや翳りのあるオレンジの光と、風に揺れてはらはらと舞う桜のコントラストが至極綺麗で遊戯は勿論、最初は文句を言っていた海馬も僅かに目を細める。
 

『もし今日君が学校に来なかったら、KCまで迎えに行こうと思ってたんだ。丁度良かった』
 

 今日の昼休み、海馬が教室に姿を現すなり満面の笑みを見せながらそう腕を引いて来た遊戯を海馬が邪険に出来る筈もなく、渋々首を縦に振った彼は、放課後遊戯が連れ行くままにこの川辺へとやって来た。

 少し肌寒い風が吹く、夕暮れの町外れ。時期が時期故か周りには沢山の花見客が芝生にシートを引いてこんな時刻から大騒ぎをしている。それを眼下に眺めながら二人は歩調を緩め、立ち止まる事無く歩いていた。

 途中に立ち並ぶ出店の前で、あれが欲しいこれが食べたいと騒ぐ遊戯に呆れつつも、海馬は別段悪い気はしなかった。つい先刻、遊戯が遠くを見ながら何気なく口にした言葉に、彼自身が酷く傷ついていた様だったから。沈んだ悲し気な顔を見るよりは些細な事ではしゃいでいる方がマシだと思ったのだ。

「ね、海馬くん、クレープ食べようよ。お好み焼きでもいいよ」
「さっきから煩いな。貴様は花を見に来たんじゃなかったのか」
「勿論桜も見に来たんだけど、お腹もすいたから食べたいなぁって」
「現金な奴だな。つい先程までめそめそしていた癖に」
「めそめそなんてしてないよ。ちょっと思い出しただけだもん。いいでしょ、それ位」
「誰も悪いとは言っていない」
「そう?海馬くん、案外ヤキモチ焼きだからなぁ」
「誰がだ。大体『奴』になどそんなもの覚えるか」
「あはは、嘘だよ。分かってる。ただね、これも思い出なんだ。……懐かしくて」

 綿飴、ラムネ、花見団子、出店の焼きそば。そのどれもが『彼』にとっては初めての食べ物で、一々驚いていたのを思い出す。おっかなびっくり口に入れる様はまるで子供みたいで、ついついその様を見て笑ってしまい、『彼』は「笑うな」と口を尖らせていたものだった。それでも、その顔は笑顔だった。

 幸せだった、あの日々。勿論今もとても幸せだけれど、喪失感は拭えない。こうして何かの切欠でふっと思い出すその感覚は、例えようもない切なさを連れていて。

「ごめんね。君が隣にいるのに」
「別に構わん。一年に数回位はな」
「海馬くんって案外心が広いんだね」
「微妙に褒めるな」
「ね、もう一人の僕はさ、冥界に帰る時に『桜を見れて良かった』って思ったかな」
「さぁな。奴は日本人ではないからな」
「そっか、そうだよね」
「だが、奴の記憶には残っているのではないか?貴様との思い出と共にな」
「……うん。そうだといいな」
「絶対に、そうだ」
「海馬くんがそういうんだったら、そうだね」
「まぁ、オレにはどうでもいいがな、そんな事」
「分かってる。ありがとう」
「礼を言われる筋合いは無い」

 そういってつんと横を向く海馬の頬にふわりと桜の花弁がつく。頬だけでなく髪にも、肩にも桜は散る。それを見あげる遊戯にも同じように桜の花弁が散っていた。『彼』と見たあの頃よりもほんの少しだけ近くなった桜の枝。

 いつかはあれに届けばいいな、そう言って爪先立ちになって伸ばした腕に重なった透明な腕。

 そんなの直ぐだぜ相棒、そう笑った笑顔が、花に霞む。……消えていく。

 その先に見えたのは、至極見慣れた海馬の顔。いつもと同じにこりとも笑わない仏頂面だけれど、その瞳だけは優しくて。

「海馬くん、ちょっと屈んで?顔に桜がついてる」
「今取ってもどうせまたつくからいい」
「うん、そうだけど。お願い」
「……周りに人がいるんだが」
「変な事はしないから。ただ、触りたいだけ」

 『彼』はもういないけれど、君は確かにここにいるんだって、確かめたくて。

 囁くようにそう言う遊戯の言葉に少しだけ眉を寄せたものの、海馬は素直に上体を傾けた。さらりと揺れる髪と共にはらりと落ちてくる桜色の花弁。それを掌で受け止めて、そのまま白い頬に軽く触れる。暖かなそれを確かめる様に指先でなぞり、最後に頬についていた花弁ごと取り去った。とても優しい手付きだった。

「ね、来年も、こうして桜を見に来ようね」
「日本に居ればな」
「この時期には帰って来てよ。後悔したくないでしょ?」
「だから縁起の悪い事を言うなと言っている」
「じゃあ、約束。恋人同士の」
「勝手に決めるな」
「出来たら、どっちかが居なくなるまで」

 そして最期の時には、海馬くんの顔と満開の桜を思い浮かべて死ぬんだ。そうすればきっと凄く幸せな気持ちで向こうに行けそう。

 そう言って少し悲しげに、それでもとても嬉しそうに、遊戯は笑った。余りにも無邪気で、余りにも寂しそうなその笑顔に、海馬は少しだけその顔を見つめた後、特に抑揚のない声で、そうだな、と答えてやった。そして。

 『その時』の事をほんの一瞬脳裏に過らせて、僅かに痛んだ胸の奥に気付かない振りをした。
 

 桜は咲く、美しく。
 

 その姿はきっと彼等の心の中に、最後の瞬間まで目の前の笑顔と共に強く残り続けるのだ。